“知らない”仕事につくことはできない→“知ってる”仕事だけでぼくらは生きていくのか

田舎でも、都会でも、よく耳にするなぁ、SNSでもよく議論されてるなぁ、と思ったので、それについて。

「仕事がない」と口にする人は多いけど、実際はそんことなくて、「知っているもののなかで選びすぎている」か、そもそも「“ある”ことを知らない」かのどちらかのケースは多そう。前者はもう個人レベルでどうにかしてよ、と思うばかりだけど、後者はその情報が入ってくる環境(メディアとの付き合い方、まわりにいる大人、そういった情報を得る場所など含めて)自体が問題なこともある。仕事の選択肢という話でいれば、実は、「ない仕事をつくる」という発想というか選択も本当はあるわけだ。

日本でも近代化にともなって、畑を追い出された、あるいは、出ざるを得なかった農民が、街に繰り出していったあのときは、別にいまのような「やったるで起業」みたいな仰々しいものでもなく、今風にいうと「小商い」というかんじに捉えたのか、自分の仕事をつくっていって、(サラリーマンだけじゃなくて)自営業の人も増えていった。その過程のなかで商店街も発展したときがあったんだろうな。

本題が逸れてしまったけど、「ない仕事をつくる」よりかは「“ある”ことを知る」ほうが大多数向きだろうから、まずは“ある”の届く範囲を広げられるようにしていけるといいのかもね。もしかしたら「“あることを知る」を体験すれば、「ない仕事をつくる」という方向に、段階的に進むかもしれない。知らないことを知ることは、おそらく自分の暮らしや仕事の価値観を大きく覆しちゃうこともあるわけで、そういう機会はもうちょい増えたほうがいいと個人的には思っている。

2016年、ますます「移住」という言葉のファッション化が進んでいくはずだけど、自分の暮らしやはたらき方を考え、その実践をしていくなかで、「移住」という選択肢がでてくるわけで、あくまでそれは“ひとつの選択肢”でしかない。にも関わらず、それ自体が目的になってしまう、あるいは、それを達成すれば苦から逃れられる、というような妄信的救済となっている事実も少なからずある。実際には、そんなことないのに。

東京にもローカルはたくさんあるし、近郊でも田舎暮らしっぽいはそれなりにできる。コミュニティを求めて、都会を出ようとしてるなら、実は探してみれば、居心地のよいコミュニティの一個や二個は見つかるはずだ。「移住したい、って言ってるけど、本当にそれって移住しないとだめなの?そこじゃできないの?」といやらしい問掛けは大事にしていきたいな。

そこらへんについて思い老けたときに、「抜け道をつくるメディア」とか「想像税を、払う東京」とか「地域おこし協力隊になって、自分探しをしようとする若者の風潮について」「田舎者はどこでもいるぞ」「移住イベントは、だいたい二パターンに分かれる」とか、をまとめた。

バーテンダーが自分のオリジナルカクテルをつくりたい、ってときは、まずは世界中にあるカクテルについて知らないといけない。いろいろと知って、吟味してみて、悩んでみて、それから自分らしい一杯が生まれる。井の中の蛙のように、狭い見聞のなかだけで広げられるものには限界がある。その中で自分がハマるものがあればいいけど、ハマれないものがでてきたときは、多少しんどくなる。そのとき、“知らない”から“知ってる”への変化をつくれる人は、得するよな、といつもいつもぼくは思う。

多様性を認められた社会といいつつも、その多様性をのぞけていない人の生き方と、好奇心をもってのぞけている人の生き方は、どこか違ってみるのだけど、おそらく、それは知ってるがゆえの“ゆとり”にあるのかもしれない。今ある自分の“知ってる”から、ちょっと抜け出してみる勇気、ただそれだけの違い。