レモンサワーの関係経済Ⅰレビュー1222Ⅰアパートメント

「なんのためにカネを使うのか、そのカネを稼ぐのか」

いつも、そんな疑問が頭に浮かび、日々の仕事とたたかっている。

「いや、生活があるから」などと、さらっと人は言うけれど、それは「カネがないと生活ができない」という前提になっている。そりゃ、最低限必要な金額というのはあるだろう。とはいえ、その”最低限”で必要なカネの考え方というのは、もうちょっとグラデーションがあってもいいと思うわけだ。

当然ながら、都会と地方ではそういった価値観も変わってくる。

地方への暮らしに想いがあるものの、「給料が低くなるから移住はしかねる」と口にする人がそこそこいる。だけど、よくよく考えてみたとき、結局、地域に生活コストは相対的に変わるのであって、稼げるカネは減るかもしれないが、家賃やら食費やらをもろもろと引いたとき、手元に残るカネは変わらないなんてことがあったりする。一瞬だけマジックに見えるが、ロジカルな結果でしかない。

もっと言えば、稼げるカネは減るが、その分、はたらき方がゆるやかになり、自分や家族との時間に余裕ができるなどで、時間という生活資源を都会にいるときよりも、より豊かに使うことができるなんてこともある。

それにも関わらず、絶対的な数量として大きいほうが幸福につながるという、カネカネカネという資本主義の”貨幣経済”の価値観を信じ込んでいる人がほとんどではないか。

まあ他人のことでとやかくいう必要はなく、一つの暮らしの選択肢として決して間違ってはいないし、それが自分のスタイルにフィットするのであれば、「それでいいじゃん」と肯定するべきものなのは承知だ。

ただ、そのカネの価値観に囚われてしまっているがために、しんどい想いを繰り返しているのであれば、他のカネの意味合いを見出せたらいいんんじゃないか、と突っかかりたくなるのだ。

日本には、「おすそ分け」という文化がある。

それは、田舎などでご近所さん同士が自分たちでつくった野菜などを配り合うようなものだ。こういった「物々交換」で成立するような経済。場合によっては、「家の屋根の修理を手伝ったから」と「しいたけをもらった」というような「物技交換」が行われることもある。

“経済・・・人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての、一切の社会的関係”

あらためて「経済」の意味を考えたとき、必ずしもカネを介するものだけが経済なのではなく、そういった物や技を介して動く経済があるということだ。そして、それは未だに日本各地に残っているということ。

一点気をつけなければいけないのは、田舎に行けば、おすそ分けをしてもらえるわけじゃなく、地域に限定された文化ではないことだ。

物や技を交換する相互間に信頼関係があるからこそ成立するものであって、そういう意味では、”評価経済”、もっと言えば、”関係経済”が基盤にあるとも言える。

つらつらと書いてしまったけど、みなさん「カネが必要だ、稼がなくちゃ」と当たり前のように言ってるけど、一度立ち止まってみて、「自分はカネでどうしたいのか」を考える機会もたまには必要なのかもしれない、というのを主張してみたかったわけだ。

ここでやっと”悠平さんのカネの話”に戻してみると、「全くの向こう見ずで無計画なモラトリアムみたく見られるが、単なる粗削りで稚拙だったり、内面の煩悶と社会との折り合いの付け方に時間がすごくかかるゆえに、他のみんなほど上手に世渡りできていないだけの子たち」は、カネとの付き合い方を再考しているだけかもしれない。

そして、彼らは”関係経済”によって暮らしが支えられているのかもな、と感じた次第で。

レモンサワーおごってもらえる関係の人がまわりに何人いるのかって、そこそこ大事な話よな。

カネがなかった頃の話

「会社」という「テーブル」Ⅰレビュー1215Ⅰアパートメント

ふと思った、「会社」というのは、テーブルなんじゃないか、と。

なんにもないところにテーブルが置かれる(会社ができる)。テーブルがあるなら、腰掛けられるイスもあるといい。
社員の数だけイスが置かれ、もちろん、その人数によってテーブルの大きさも違う。その机の上にプロジェクトが持ち込まれて、その場にいるみんなで仕事をうまく分配していく。

みんなで話合いながら分配方法から決めるところもあれば、分配者は決まってて振り分ける担当がいるところもある。

それぞれが自分のやることが決まったら、「さあやるぞ」とイスから立ち上がって、各々やることに向かって動きはじめる。そのなかで、少し迷いがあ出てきたら、テーブルに戻りイスに座って相談できる拠りどころになったり、動いた結果を持ち帰ってきて、次の作戦会議をするような場になったりもする。

大事にしたいのは、あくまで、イスから離れて動いていくときの一人ひとりの意思だったり、その動き方そのもの。テーブルは、その精神性も身体性も、すべてをコントロールすることはできない。

だからこそ、その人がイスから離れたとき、一個人として動きやすいように卓を囲んであげるのが、「会社」というプラットホームの役目なんじゃないか。少なくとも、ぼくはそういう「会社」のあり方がいいな、と感じている。

「会社」だと「自由な働き方」ができないわけでもないし、「会社」だからといって必ずしも「束縛される」わけではない。

個人が動きやすいように、その人自身の”あり方”に目を向けている「会社」は少なからずあるわけで、逆に、そういったプラットホームがあるからこそ、安心安全に働けるという人もいる。

「会社で働くこと」の是非を問うよりも、社会のために組織があるのか、組織のために組織があるのか、個人のためにあるのか、その方向性を見定めてあげたほうが、より健全なんじゃないかって思う。

そして、社会人として(いや実はそうじゃなくても)、自分がやれることを広げるとき、自分がやることを閉じるとき、がいつかはやってくる。それが「会社」という枠組みをぜーんぶ取り払ってみて、自分の意思というやつを見つめてみて、自分の立場をはっきりとパブリックに伝えるとき。

なんとなく。今、ぼく(28才)もそれがきた気がする。世の中のアラサーというのは、そういうもんなのだろうか。

根無し草の放蕩息子が「会社」で働いてみて3年

根暗は「内言語」で暮らしがち

言語学とか脳科学の分野には、「外言語」と「内言語」という言葉の分類があるそうだ。頭のなかで考えていることを、音や文字として言葉にするものは外言語、そうしないものが内言語らしい。つまり、今こうやってぼくが頭にあることをつらつらと文字として(他人の目に触れることを意識して)書いているのは、外言語であり、ただこれを考えているだけなら内言語ということになる。

普段、思い浮かぶけど、メモしなかったり、口にしないがために、内言語にとどまらせてしまっている言葉は多いかもしれない。そういう頭にとどまっている言葉や情報というのは、ダイヤの原石みたいなもので、言葉として外に出してみることによって研磨され、価値を次第に高めていくもなんじゃないか、っていつも感じる。ずっと感じていたので、今日は文字にしてみた。

とりあえず、書いてみる、とか、言ってみる、の意味はそこにあるのだろうし、その習慣を持っている人のところに、いい言葉や情報、そして人が集まっているような気もする。だし、言葉に出すことによって、自分の気持ちが保たれたり、あがったりすることもあるから、それは自分の調子をコントロールするためにも、外言語を利用してみるってのはありかもしれないなあ。

ああ、そういえば今日は、大好きな先輩の誕生日だったな、と気づいたので、外言語としてちゃんとメッセージを送ろう。

言葉を紡ぐハムスターⅠレビュー1208Ⅰアパートメント

ほんとうに伝えたい言葉が生まれるとき。

お腹の中なのか、頭の中なのか、そのどちらかはわからないけど、ハムスターが住みついてる。回し車に乗って、くるくる、くるくると走り回っているあいつが、言葉を生んでいると思うのだ。

暮らしていると自然と生まれてくるモヤモヤ、違和感など、それらを見つけて、あいつがチョコンと車に乗り込み、言葉にできない感情を原動力に、くるくると走りはじめるイメージ。その回転で発電するかのごとく、言葉を生んでは、整えて、を繰り返し、ちゃんと伝えたい相手のために言葉を編んでいく。

それが、吃って、吃って、やっと言葉が生まれるとき。

気をつけたいのは、体内で飼っているあいつらのくるくると回るときのスピード、あるいは回し車の大きさ(円周)は、人それぞれってこと。性格、趣味嗜好、性別、トラウマ、世代、職業が違えば、ライフサイクルが違うわけで、一回転するまでの時間が異なるのは、当然っちゃ当然だろう。何回転もしなくちゃ、いい言葉は生まれてこない。

だれかのハムスターとその回し車を見て、そのペースについていけないことを憂いていてもしょうがなくて、自分のやつがどう回っていくのか、スピードと回し車の大きさを見定めて、自分のペースで回れたらいいのにな。そのためには、うまく回れるような気分になれる人と一緒に過ごせればいいかもな。

うま〜く、くるくる回していくための手段ってのも人によって違う。筆者もぼくも、おそらくアパートメントの住人さんの何人かも、同じように「書くこと」が一つのツールになっているんじゃないか。そして、他人のためでなく、自分のために書く時間を忘れない、ということを忘れたくないなぁ、そのためのなにかしらの引力が必要だよな、きっと。

吃ってしまうからこそ、青年は言葉を丁寧に編めるし、相手との間にあるゆるやかに流れる時を待つことができる。そして、インターネットという場のなかで表現する技を得てきた、そんな人がアパートメントの管理人でよかったとつくづく思うのだ。

吃ることが「いいこと」だなんて、思えなかったあの頃

自分に期待しないⅠレビュー161201Ⅰアパートメント

「変われるかも」なんて自分に期待はしない、”今”ある姿に腹を括っちまえば、自分とも、他人とも、新たなつきあい方が見えてくる、そんな気がするのだ。

期待があるから裏切りがあるわけで、自分で勝手に期待して、自分に勝手に裏切られる、というMっ気で繰り広げられる、自己嫌悪というのは、もうどうしようもない。

ただ、もう一度言うが、腹を括っちまえば、そのどうしようもない自分が今なんとなくやれているのは、そのどうしようのない弱さをカバーしうるなにかがあって、やじろべえのようにゆらゆらと絶妙なバランスを保っているからなわけで、弱さを支えるものにこそ、その人の人間としての強みがあるのだと思える。

この連載では、”淡白なのに惚れっぽい。他人に期待したくないのに他人の期待には応えたい” タイプAの根暗の人間がつらつらと記事を書いていきまして、

それに対して、”淡白で惚れにくい。自分に期待したくないのについ期待してしまってへばる”タイプBの根暗の人間がレビューを書かせてもらいます(いっしょに、〆切に追われながら)。

2ヶ月間、歩いていく道のりは、すこし”暗がり”かもしれませんが、誠実さを持って”明るみ”に向かってるのは間違いないので、そこにたどり着くまで、提灯を差し伸べるように、お節介もらえるといくらか救われます。

『社交的な根暗がアラサーになっていつの間にか結婚して思うこと』

 

暮らしていく

ガスが溜りに溜まって、身体のなかでぐるぐると動きまわって、出どころはどこなんだ、と、うろうろ、あたふた、と道を探っている。そんな感覚がある。

人間らしい、というか、健康的に暮らしていくためには、身体を守るための最低限の循環というのものがあるはずで、その循環が滞っているわけだから、そりゃ不健康な今を過ごしている、という自覚だけがある。その自覚があるからやっかいで、ボディブローのように執拗に攻撃してきて、毎度毎度「う、う、」と小さくダメージを食らっているような感じで。

「そんじゃ、何をすればいいんじゃ」となれば、ぼくの場合は「書いて、発散する、循環をつくる」というのが一つの手法だと理解はしてて。そうなのだけど、じゃあ、書く時間をつくりきれていると言えば、全くもってこの頃はつくれてないのであり、それが原因なのだ。いや、本当は「卵か鶏か」の話で、書けてないから時間をうまくコントロールできていないという説もある。

すごく乱暴にいってしまえば、ぼくにとって、「仕事」というやつはプライオリティが低いのであって、あくまで自分が健康的に暮らしていくことが頂点にあって、それに合わせた働き方があって、最後にそれを達成する手段としての仕事がある、という捉え方をしている。

それなのに、仕事が先じてきてしまっているがために(さらには、トキメキの少ない「できる」からやっているだけの仕事がゆえに)、自分の暮らしに対する発想がしぼんでいて、自分で自分が「どれだけつまらない人間なのか」を語るための素材探しばかりに目がいってしまう。こんなときに限って、妙なコレクター精神が力を発揮してしまうのだ。

循環していない。

とはいえ、この滞りというのは、ネガティブなものとは全然思ってはいなくて、なにか新しい次を生み出すための違和感/しこりなのであり、その出口が見つかるまではとにかく悩みまくり、ぐるぐると頭のなかで思考実験を繰り返し、手と足を可能な限り動かし続けろ、というサインなのではないかと感じる。

ガスが溜まりに溜まっているということは、自分の中にあるなにかを大爆発させるための準備に入ってるのかもしれなくて、もちろんその爆発のさせ方を間違えると自滅してしまうのだけど、ばくだん岩のようにせつない感じにならないように、ギリギリのラインを狙いながら、よき発散、いわゆる”昇華”をするという方向で一件落着させたいと願う。

ぼくは芸術なんてものにてんで理解もないのだけど、岡本太郎の言葉を都合よく拾っちゃえば、自分のなかにある人間としての負と正のふたつの感情に揺れながら、自分の暮らしにちゃんと向き合うことで、自分らしい爆発のかたちを探すことができたなら、もう、それだけでいい。

暮らしていく、というのは、自分をごまかさないことであり、むやみやたらに他人/社会(構造)に引きずられないことであり、自分を楽しませるためのツボをちゃんと押さえていて、”そうなってしまっている”自分を肯定したうえで表現する場をつくることなのだ、きっと。まとまりもクソもあったもんじゃないけど、そう思えてきた、今この瞬間は(明日になったらわからない)。