「地域おこし協力隊」は”肩書き”でなく”制度”のこと

ここ最近になってからか、地域おこし協力隊で働いている人と会ったとき、「地域おこし協力隊」以外の肩書きが記された名刺を受け取ることが増えた気がする。そう、地域おこし協力隊は”肩書き”だと思われがちだけど、あくまで活用すべき”制度”でしかないわけだ。

とはいえ、地域おこし協力隊としての肩書きを名乗ったままに活動を続けている人、地域はまだまだ多い。その肩書きがゆえに、何をやっている人なのかがわかりにくく、外の人だけでなく、自分が活動する地域住民にすら理解されていないケースがあったりもする。

「移住コンシェルジュ」「ライター」「作家」「シェフ」と伝えられるかどうかは大きく、伝わってないために、なんでもかんでも地域のことをやってくれる”何でも屋”と勘違いされた話もたまに聞く。

制度を肩書きとして名乗り続けることは、より自分の存在を曖昧にしてしまう。それは「フリーランス」も少し似ているかもな、と自身の経験に重ねると余計に感じることで、「フリーランスです」と伝えても、何をする人/できる人なのかは中々わかりにくいものなのだ。

あと、そもそも「地域おこし協力隊」のネーミングに触れると、「地域おこします」とどストレートな宣言をしてる様子は、「童貞を捨てたいからセックスしたいです」と声高らかに口にしているような気恥ずかしさをぼくは感じてしまう。

それは、地域おこし協力隊に限らない話で、「まちづくり」「移住」も、それ自体を目的とし「まちづくりをしよう」「移住しよう」と唱え続けているうちは、よいまちづくりも、よい移住のかたちも生み出せないのではないか。とFacebookのタイムラインを眺めながら思ったので、すかさずメモメモ。

仏教に紐づく移住観はあるのか

「妖怪」という現象ついて調べものをしていると、仏教の考え方にたどり着いてしまう。「輪廻転生」「六道」「閻魔」など、死後の世界について語るときには、さまざまな言葉が出てくるが、日本人にはわりと馴染みのあるものは多い。

『往生要集』に関する文を読んでて思ったのは、五戒(不殺生、不妄語、不偸盗、不邪婬、不飲酒)を破るように、人間の社会はつくられているな、ということ。そして、それは自分が望む/望まないの選択に関係なく、否応がなしに破らされているような感じ。

一つ気づいたのだけど、五戒と地域の関係性を考えてみるとおもしろい。都市部に行けば行くほど、五戒を破りやすい構造があるように感じる。自分の意思でくらし方を選び、五戒を極力犯さないように過ごそうとなれば、都市よりは地方、さらには田舎に行くという考えになるのは当然なのかもしれない(五戒を意識して生活している人なんてほぼほぼいないとは思うが)。

生物を殺すことなく、自分で作り育てる。自分を誤魔化すことなく、くらしたいかたちを模索する。当然ながら、盗むことは一切なく、そんな状況にならない治安が地域にはある。消費的に、身を滅ぼすような享楽からは遠ざかり、くらしにおける生産的な遊びをつくり、取り入れる。お酒は飲まないと決めたら飲まないような誘惑もない(田舎のコミュニケーションを考えると、実はこれが難易度が高い気はする)。

一個人の考えとしては、「五戒を破らずにくらすことは、果たして、ゆたかなのか」「それは、どうおもしろいのか」と甚だ疑問だが、クリスチャンが結婚前に肉体関係を持ってしまう様をあるように、時代が変わったことで軸となる価値観も変動していくわけであって、今の時代に生きるぼくたちが先代たちのくらしのなかに根付いていた考えをどのように辿り、学びとして抽出していくのかが、おそらく大切なのだろう。

民俗学からの歩み寄りから、人が移動することついて、または、昔も今も変わらないくらしにおけるエッセンスとは一体なんなのかについて、もうちょい考えてみたい。

 

くらし心地

「くらし心地がわるい」

思考がどんよりと鈍っているわけでもないけど、なんとなく自分に生気を感じない。感情に大きな振れ幅もないままにここ2ヶ月ほどを過ごしている。

そのなかには、純粋なるしんどさがあるものの、視点をちょいと変えれば、楽しいことは楽しいこととしてちゃんとあり、学びも多く充実はしているのはしている。ただ、どこかまどろみを感じながら、吹っ切れるというか突き抜けるというか、そんなプラスに向かう爆発を感じない自分がいて、「おもしろくねぇな、おまえ」という言葉を自分に浴びせ続けるような日々。

9月は自覚するまでに時間がかかり、10月は自覚したままに、自分なりの答えというか、自分で自分の処方箋探しをずっとしてきたなぁ、という感じ。

そういう気配をどことなく察した友人だったり、ひょんなことから久しぶりに会った先輩との会話があり、地方でくらしはたらく人への取材があったりで、自分の扱う言葉を改めなくてはなあ、と発見があった。

「生気を感じない」というよりは、「くらし心地がわるい」という表現が正しいようで、自分を動かすための歯車がどこか噛み合っていない。そんな感覚と言葉の組み合わせがしっくりとくる。

今の状態を自分なりに言い表せる言葉が見つかり、歯車がおかしくなっていた原因もわかってきた。また、こういう浮き沈みは自分の周期にあるものだとも理解はしているので、後はひたすら書き出す、吐き出す、整理する、まとめるという作業が必要になってくる。

となると、ゆっくりじっくりと考えることは一旦停止で、すばやくすかさず手を動かすことが大事になる。ここからの汗のかき方が、数ヶ月後の流れをつくっていくのだと信じて、やれることをやれるかぎり、がんばんないことをがんばろうと思う。

そういうまどろっこしい感情も含めて、明るいものだけでなく暗いものも扱いながら、くらしの実験は丁寧に続けていきたい。

全速力で走りたいなら書くしかない

モヤモヤしてるときは、結局、自分の頭のなかにあることが整理できていないとき。そんなときは、動きが非常に鈍る。気持ち的には、1歩進んでいるつもりが、0.1歩も進めていないことが多い。

ドロッとした重い感情を引きずって進むくらいなら、一度立ち止まってみて、それを振り払って、スッキリとした状態で走り出したほうが効率がいいし、パフォーマンスも上がる。と、自分と28年間を付き合ってみると感じる。

「一度立ち止まる」ためのやり方は人それぞれだとは思うけど、自分にとっては「書くこと」がそれに当たる。ぼくにとって、書くということは、だれかになにかを「伝える」ことでなく、散らかしてしまっている物事をしっかりと「整理する」という意味合いが強い。

複雑な感情を溜め込んで、なにか滞りを感じ、一向に進む気配がないときは、自分のために書くことをしなくちゃ、と思う。ライターとして記事を書くのではなく、一個人としてしてブログを書くことの価値はそこにある。

自分のテンションを保つ/上げる、そして、吹っ切って、”猛烈”と形容できるほどの全速力で走り出すためにも、書くという習慣を自分の暮らしのなかに組み込んでいきたい。

「書く=ライティング」というのは、ウォーミングアップのように、自分の心身を温めるものみたい。あと、あれだな、自分の「今」と、向かっていきたい「これから」をつなぐための間にある接着剤みたいなものかもしれない。