主役は一体だれか – 福祉や教育における上から目線

学生時代は、外国系の大学にいたんだけど、教授とのご縁だけで、国際比較教育ゼミにまんまに入ってしまった。

ぼくの研究は、オランダのオルタナティブ教育(特にはイエナプラン)だった。まあ本題は次なんだけど、そのときに、先輩後輩含めてゼミ生はかなりいて、発展途上国の「開発教育」「教育開発」なんかをテーマにしてる人もそこそこいて、その人たちの基本的な研究をはじめるときの言い分って「(もろもろ)恵まれなくて、かわいそうだから」というのだった。

それって、感動ポルノの話に通じるものがあるよなぁ、と感じていて、「自分は恵まれた国に生まれたから」=「自分は五体満足だから」という一つ上から目線で、各対象を見ていて、物事を語っていて、そもそもズレてるよね、という気がしてならない。

だから、「与えてあげる」という傲慢なスタンスなんだろうし、それによって、「満足しているのは一体だれか?」という問いすら持っていないのだろう。そうやって自慰的行為を多産して、”やってる感”ばかりが生まれるけど、実質、動いたものは少ない、という状況になりかねない。

どういったかたちであれ、相手の個性や文化を尊重したうえで、「魚を与える」でなく、情報不足な知人に「魚の釣り方を共有する」というようなスタンスにならなければ、福祉も教育も、本質的には変えられないのかもしれない。

結局、一人ひとりが持つ人生であって、環境や周りの人が変わるきっかけはつくれるかもしれないけど、変わるためには本人の意思と、行動でしかないと思う。そして、その人の意思や行動力というものはあなどっちゃいけなくて、「すべてをこっちがしてあげなきゃいけない」というエゴは捨てたほうがいい。

「主役は一体だれなのか」

そんな意識を持って人と付き合っていくことは、どんな対人関係であっても、大切なんだよなきっと。

「離れ方」ないし「委ね方」というのは、ここ数年の一つのテーマだけど、たまたまFacebookで流れてきた記事を読んで、メモをば、と思って書いていたら、「これって、場づくりに通じることやな」と気づき、すべてのことには通じるエッセンスというものはあるのだなぁ、と改めて実感する。

(となれば、どんな人、物、事に関われど、それは自分の視点の置き方、切り取り方次第なのだろう)

ソーシャル系の人は見落としがちだけど、東京にも地域はあるし、東京に依存しないことが地域で生きることではない、と思う。

「地域で生きる、ということは、東京に依存しない、利用すらしない、ということとほぼ同義」というような発言を目にして、違和感があったので、記述しておく。

そもそものところ、「いやいや、東京にも地域はあるので、東京でも地域で生きる、ということは余裕でできるでしょ」というのが、ぼくの言いたいことである。

「地域」の定義が違うからこその視点のズレなのかもしれないけども、やはり「対東京」「脱東京」の悪としての構造を扱うような表現には、ほとほと疲れてしまう。東京崇拝はそれはそれでこわいけど、それ以外の地方崇拝みたいなもんもそれはそれで気持ちわるさを感じてしまう。もうそれは、場所と人の相性とバランスでしかない。

都会も田舎も、どちらであっても地域(ローカルなるもの)はあるわけで、そこに住む人たちがシビックプライドをみたいもんを持ちつつも、他地域とそこで暮らす人に対しての敬意を持てないのは、ちょっと残念な気がする。それは、やややもすれば「もったいない」の発想にもつながってくる。互いにできないことは、依存し合えばいい。それぞれの個性、良さ、持ち味を肯定せずに、どの場所が絶対的にいいとかわるいって話はバカげているし、子どもじみている。

極論、雑に言ってしまえば、地域なんてどこでもいいわけで「どこがいいか?」という問いをだれかに投げるのでなく、「どこがはまりそうか?」という問いに置き換えて自分に投げかけることでしか、自分が暮らしやすい働きやすい地域なんて見つかりっこない。で、他人が口にした言葉やネットの情報はヒントになるとはいえ、それが自分にとっての答えになることはないので、自分で足を運べ、自分の足で稼げ。

なにが哀しいかっていうと、さまざまな地域に関わっていて、影響力のあるような人がそのような考えで、各地へ足を踏み入れてるんだな、ということ。いいことを言っているように見えるが、浅はかで、地方も東京のどちらに対しても、消費的な目線しかないように見える。それだから「ソーシャルソーシャルしている人たちは…」と言われてしまうんだろうなぁ。