「ショーケースに並んだ”対象”としての愛」あるいは「相手との間に見いだす”技術”としての愛」

愛は技術だろうか。

エーリッヒ・フロムの著『愛するということ』では、そのような問いがあり、「愛とは技術である」という前提で、愛と技術についての話が展開していく。さらに、フロムはこのように記述している。

技術だとしたら、知力と努力が必要だ。

愛とは、運で「落ちる」ようなものではなく、生きる技術があるように、学び、知り、習得していくものだという。

先に断っておくと、本音を言えば、「愛」という言葉は照れるうんぬんではなく、日常的に使われると気持ちわるさを感じるし、愛がうんぬんをFBで語りたがる人は苦手なんだけど、やはり思考するためのカテゴリとしての「愛」というのは、人間だれにも引っかかりがあるもので、人を読み解くための記号としての「愛」にはかなり興味が断然湧く。

それは、ぼくの周りにもいるが、「愛されたい」と嘆く人がいるから余計であるし、「愛」という言葉を掲げながらも、その裏には対価としての地位・名声・金を得ようとしているような輩もいるからである。

本書でも触れられているのが、ほとんどの人は「愛すること」よりも「愛されること」ばかりを考え、そちらに重きをおく。それはなぜだろう、と28年生きてきて、ずっとその疑問が頭にこびりついてきた。どうすれば愛されるか、とういうのは、SNSで体現される”承認欲求”がそれを示唆しているようにも思う。

社会的地位を上げ、外見を磨くことが、愛されるための「魅力」をより高めていくことで、愛される(選ばれる)ための準備をしていく。という事ばかりに、意識的・無意識的のどちらであろうが囚われているのは、人としてのむなしさを感じてしまう。

孤独の裏には、「愛」という言葉が隠れていて、寂しくてたまらない人ほどに(内に秘めておけばいいものを)愛について語りたがる。「愛」と「性」の関係性をどう捉えるかにもよるが、孤独に向き合えていない人ほど、恋愛、セックスに依存するという傾向があるのように思えるのは、その証拠でもあるはずだ。

話を本書に戻すと、かつては、親や周りによって結婚が決められた中で「愛とは結婚の後に育んでいくもの」という考え方が主にあったと指摘している。だからこそ、”技術”が必要であると。これは、日本にもあるお見合いの文化の中にある現象と重なる気がする。『ゲゲゲの女房』では、夫婦の姿にはその愛が育っていく過程が描かれていたようにぼくの目には映った。

しかし、その”技術(あるいは能力)”より愛の”対象”のほうが重要になってきたのが現代社会であり、それは、欲しいものを欲しいがままに手に入れることができる時代が到来したことが原因である、とフロムは考察する。ようは、「魅力的な異性」というのは「掘り出し物」なのであり、あたかも人が商品であり、取引きがそこにあるかのように、自分の価値との等価交換として、最良の相手を選び、恋に落ち、愛を感じるようになった、と続ける。

ここまでは一章「愛は技術か」をもとに、自分の整理としてまとめたものだが、ふんふんと頷くことばかり。自分がなんとなく思っていたことが、言語化されているという意味では、やはり先人とは素晴らしいなぁ、と思うわけで。さらには、「人を嫌いにのは簡単だが、好きになるのも同じくらい簡単だ」と思う自分としては妙に”技術”という言葉しっくりときた。

苦手な人、嫌いな人が多い自分にとっては、年を重ねる中で、職業的に、処世術的に、相手にどんな嫌悪感を持とうが、おもしろがれる、言い方を変えれば、ある程度は好きにはなれる、くらいの対人術があるということを学んできた。好かれるかどうかを考えるよりも前に、自分が関心を持って、相手のツボさえつかんでしまえば、勝手に相手からも関心を持ってもらえると、経験値を蓄積してきたからこそ、この”技術”という響きは心地よい。

友人から勧められたので、手に取って、読み進めている今なのだけど、自分の性質を理解している人に勧められた本というのは、やはり浸りやすくなるものだなぁ、とあらためて感じる。そして、こんなことを記している間にはずっと、KinKi Kidsの「愛されるよりも愛したいまじで」というフレーズがなぜかずっとリフレインされるのである。

刷り込みってすごいし、こわいな。

神輿を間違えるな

だれと暮らすか、はたまた、だれと仕事をするかは、言わずもがな、その日々の積み重ね方は変え、その人の顔つきもどことなく変えるものじゃないか。

それは神輿に似ている気がしてて、どんな神輿をかつごう、どんな人に神輿を一緒にかついでもらおう、という話で、ここ数年ずっと考えている「なにを」するかではなく、「だれと」するかという問題意識に触れるものかもしれない。

自分がどんな神輿をかつぐか(だれと一緒に暮らすか、はたらくか)、はたまた、一人ではかつぎきれない自分の神輿を一緒にだれにかついでもらうのか、ということ。

「いい歳の重ね方」だのなんのって話をよく聞くが、それと同じで「よい日々の積み重ね方」は、その神輿にかかっているんじゃあないか。今、ありがたくも、ぼくがかつがせてもらってる神輿はいくつかあって、そこには自分としては縁と信頼を感じるからこそ、そこに体力と時間を注げるわけでもある。そして、少しずつ、自分の神輿をかついでもらう人を探りはじめるという段階にもきた。

いろいろと悩むことだらけで、葛藤だらけで、すぐこじらせてしまいそうになるけども、まあそれはそれで楽しみながら、賑わいの祭りにできれば、そこで広がる関係性も込みで、伝統行事ばりに長く長く続いていければいいなぁと思う。

神輿を間違えないこと。