振り幅はあるか、緩急はあるか

「振り幅ある人がいいよね」

最近は、お酒を飲むときには、そんな話をすることが多い。ぼくがよく口にする「振り幅」というのは、「バランスがとれているか」という意味を含むし、特には「都会と田舎(の価値観)の振り幅」という文脈で使うことが多いかもしれない。

全国各地を見渡してみれば、都会の仕事を軸にしたオンタイムで動くような価値観もあるし、田舎のように時間がゆったりとすぎ口約束でだらだらっと物事が進んでいくような価値観もある。個人のパーソナリティと進んでいきたい方向性との相性でしかないはずなので、どっちが絶対的に良いというのはない。

ただ片一方の価値観しか知らずに過ごしていくのと、両方を知って(どちらかを選択しているという感覚で)過ごしていくのでは雲泥の差はあると思う。(もちろん、その価値観が「頭でわかる」というのと「体に馴染んでいる」というのも雲泥の差でもある)。

それは自分の暮らしに対する見方が変わるだけじゃなく、他人に対する寛容さにも影響していくだろう。一つの価値観に縛られて、それでしか他人を評価できない人はたくさんいるけど、そういう人を見ていると、少し寂しくなるときが正直ある。

これは「都会〜田舎」の振り幅で考えるだけでなく、仕事の分野の振り幅として考えてもいいはずだ。例えば、IT畑だけにしかいない人の価値観は、若干偏ってるなぁと感じるときもある。それは、デザイン、法律、バーテンダー、農業、役人、ライターなど、どの分野にいたとしても、一つの畑のなかだけにしかいない人は「振り幅がない人かも」と感じられてもしょうがない。

他の分野の人はどんなことを考えているのか、目の前に同じ現象が起こったときにどんな視点で捉えるのか、その振り幅が多ければ多いほど、多角的に物事を見ることができるはずだ。だから、業種における振り幅がある人(例えば、哲学科出身のデザイナーとか農家出身のライター、エンジニア兼広報)というのは、ある意味、頭の中に2人分の人格が入っているような感じがする。

最近では「H型人材」や「越境者」がこれからのイノベーションを起こす、という話はあるが、これらは”思考(立場)の振れ幅”に通ずることだと思う。「あっちにも行けて、こっちに行ける、だけど中立も保てる」というコーディネーター的な存在は大きく、そういった立場の人が絡まないと、生み出せないものはきっとある。

(都会であれば余計にだが)専門性を掘り下げることに価値が生まれやすいからこそ、その二つ(以上)の専門性を重ねる技術は好まれるのではないだろうか。

ぼくは昔野球をやっていて、マウンドに立たせてもらうこともあったのだが、「ピッチングフォームが硬い」と言われることがよくあった。ボールを握って、投げ切る最後まで、全身に力が入りすぎていた。「力を入れるところ、抜くところ、この二つがバランスよくあるからこそ、いい球が投げられる」ということをここで学んだ。配球においても、ストレートだけじゃなくスローボールや変化球を混ぜることも含めて、「緩急」が必要ということだろう。

都会だけ、一つの職業だけ、というのは「力が入りすぎている」状態に近いとぼくは感じていて、そこの田舎や他の職業の価値観を取り入れ「力を抜くこと」で、伸びのある暮らし、明日に向かってのよい球が投げられるのではないか。そういう、振り幅、緩急というのは、いつもいつも社会(そして自分)の課題でもあるかもなぁー。

妖怪はエモい(暮しと妖怪の手帖、はじめました)

科学/化学で説明される、理論立てたものだけで、世界を捉えて暮していくなんて、窮屈でしかない。いつからか、そんなことを思いながら、今まで這いつくばってきている。感情的というか、神秘的というか、そういうものが人を動かしていることもあるな、と思うんですよ。もちろん、それも「絶対」ではないけど(偏ると、オカルトチックになりすぎるので注意)。

人は、そういった見えるもの(理論っぽいもの)と見えないもの(感情的ななにか)のバランスをとりながら暮しているように思える。昔の人は、おそらく、見えないものを信じながら、暮しをつくり、だからこそ慎ましげに、自然やその日々に感謝をしながら過ごせたのかもしれない。それに対して、(ぼくも含め)今の人は、見えるものに依存しがちで、「そんなものはない」と一蹴するかのように、見えないからこその曖昧さゆえに培えた謙虚さ/健気さを失いつつあるのではないか、とも思う。

ざっくりと、今風に言ってしまえば、「エモさ」が現代人に不足してるのかもしれない。そういった欠けたものを取り戻す方法は、いくらでもある。自然に身を投じてみるなど、多種多様なやり方のなかで、歴史を振り返るというのがある。今のようなデジタルで便利になった時代ではなく、もっとアナログで不便を知恵で補って暮していた頃を考えてみる。すると、「エモさ」は今も昔も変わらずにあったこと、その根源には、“アナログ的ななにか”があることに気づく。

その“アナログ的ななにか”は、現代の頭を持って考えると、もしかしたら非効率で、決して賢いものではないかもしれない。ただそれゆえに、感情に訴えかけるものも生まれやすいのだろう。そうやって過去/歴史を振り返るときには、いろんな切り口があるはずだ。古道具でも文学でも音楽でもスポーツでも着物でも、それは各々自分の好きなテーマで掘り下げていけばいい。入り口は違えど、出口は同じだろうから。

そんなこんなで、ぼくは「妖怪」をもとに、現代人が失いつつあるエモさについて考えてみたいと思った。ので、「アパートメント」というウェブマガジンで「暮しと妖怪の手帖」の連載を持たせてもらうことに。「妖怪=8日(ようか)い」という惰のつく駄洒落をもとに、毎月8日掲載。そう、妖怪はエモいし、そういう居ても居なくてもいい存在を、ぼくたちは忘れがちなんだよきっと。

「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』

妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)

よろしくお願いします。

暮しと妖怪の手帖