LINEの使い方はどんなですか

世代がちょっと違うだけで、また職業がちょっと違うだけで、連絡するときのコミュニケーション・ツールも変わってくる。

ぼくの場合、公私ともに、FBメッセンジャーを使うのがかなり楽。で、みんなが使う「LINE」をほとんど使わないから、そこでコミュニケーションを求められると困るときがある(自分から連絡とりたい人が、LINEでしか連絡とれない人なら、もちろん積極的に使うけども)。

チャットという、即レスを求められるかんじが苦手なのと、例え通知オフにしていようが、相手からの見えない重圧を感じてしまうので、やっぱりなるべく使いたくない。

そのため、一時期、スマホのほうではアプリを消していた。今は、LINEでしか連絡とれない人との緊急のやり取りもあるなぁ、となってからアプリ復活させたけど、基本はパソコンから使っている。なので、意識的には、チャットではなく、メールとして寄り添いたいかんじ。

ただスタンプは便利だ。言葉要らずで、ポンと返せるのは、時間が無いときとかは助かる。だけど、一応、ことば(テキスト)のほうを大切にしたい職業柄というのはあって、スタンプを使うということは、若干サボってる気になっちゃうというか、「考えるのもあれだしちょっと雑でいいか!」と思うときに多用してるようです。振り返えれば、確かそうだ。

とはいえ、スタンプで、自分のちょっとした個性(好み)も出せるかもしれないのは、いい。Skypeでのやり取り中で、回線が悪いときは、LINEのほうが音いいからこっちに切り替えるときはある。そこは、サービスとしての優位性だよなぁ、と思う。

てなわけで、ぼくはこんなかんじだけど、みんなはLINEにかかわらず、SNSを相手との関係性に合わせてどのように使い分けてるのかなぁ、と気になったわけです。根本的には、相手が一番使い勝手のいいツールでやり取りできればといいとは思ってるので、世代や職業などで微妙に変わる、その感覚などについてシェアできる場とかありゃいいのにな。

居候のすすめ

変わった仕事をしてる人と、いっしょに生活をすることについて。

ぼくは1年半ほど居候生活をしていたときがあって、そのときに学んだものが本当に多かった。例えば、2年前の小豆島滞在時には、「四国食べる通信」編集長のポン真鍋さんの家に居させてもらっていたのだけど、彼は毎朝5時台に起き、寝起きと同時にすぐに仕事をし始める。おそらく、FBで更新しているポン真鍋新聞はこのときに書いている。

一先ずの作業が終えると、そそくさと着替えはじめランニングに出かけるというお決まりがあった。ぼくは、朝強くないので丁度ポンさんがランニングから戻る手前くらいに起き始め、ゴミ捨てなどを行うというなあんばいだった。ポンさんが起きてカタカタやっていることは、部屋は違えど、完全に起きれないぼくでも気付くのはたやすくて、彼を目覚ましにぼくも何度か作業をしようとしたが、なかなかできない。そういう意味で、習慣ってすごいよなぁ、と思ったわけで。

それ以外にも、暮らしと仕事の境界線があるようでないポンさんの生活をみていると、そして、これまでの仕事の話について聞く機会も多いなか、なんとなく見えてくるエッセンスみたいなものはあって、それが今の自分の動き方につながっているものもあると思う。小豆島を出てからも、ライターとして先輩のおうちでお世話になったりもしたけど、おなじ職種であっても、仕事の仕方は全く違うのから、こうやってるんだなぁ、と盗めたものも多かった気がする。

少し観点は違うけど、トキワ荘みたく漫画家の卵が集まっていた場の熱量はすごかっただろうし、互いが互いに、切磋琢磨にしれっと(ここ大事)技を盗み合っていったんだろうなぁ。そういう寝泊まりできる場があるというのは、正直うらやましいかぎりで。

結局のところ、ここでなにが言いたいかというと、そんな具合に、話を聞いてみるだけではなかなか想像もしにくい、変わった仕事をしている人がいれば、いっしょに住んでみるといい。そうすると、人物像だけじゃなくて、その人の仕事の表面の部分だけじゃなくて、裏側も見えてくるので、すごくおすすめ。

会社でインターンするとか、仕事旅行社のようなサービスで、仕事人と触れ合うのっては、仕事のやり方・価値観のような「裏側をのぞく」という意味合いも少なからずあるだろうし。もしかしたら、そこに尽きるのかもしれない。

お金はいらないから、丁稚奉公をさせてくれ、という働き方の根本には、そういった、教えてもらうのではなく盗み取る、という経験を積むためにもあるんじゃないだろうか。ぼくは、恥ずかしながら25歳のときにそんな学べるような居候をさせてもらっていたのだけど、それよりも若い人、特に大学生や新社会人になってみたはいいけど早くして退職ちゃった人などは、そういう経験しておくと、なんか変わってくるのかもな。たまに、そう思う。

確信より勇気を

なにか行動を起こしてみようと思うとき、「確信」と「勇気」のどちらが大切だろうか。すでに動き回っている人、これから動こうとする人を、遠目・近目で見たり、実際にその想いの変遷について話を聞いてみると、ぼくなりの答えがでた。勇気、だ。

その「勇気」とは、こわいと思ってても、しっかりと足を踏み入れる(まずはスタートしてみる)勇気。また、自分の知識・経験・技術的に、できるかできないかわからないけど、試してみる勇気。もしかしたら、それは、自分でもできるかもしれない、という可能性への時間とエネルギーの投資とも言える。

反対に、これは100%できる、という想定内・案パイの「確信」だけで動こうとしている人は、どこか動きが鈍い。あれができたらこれをする、というような順序ばかりを気にしてて、その100%の確信がくるのを待っている間に時間だけが過ぎていくことは少なくない。一歩踏み出せとは言わないから、半歩でも踏み出して、背伸びしてみる勇気がこういった類の人には必要なのではないか。

そもそもの話、人間がなにか物事をやれるかどうかは「慣れ」の部分に起因していることが多い、とぼくは思っている。それにも関わらず、手を出してみたこともなく、その感覚も分からない状態で、他人からもらった理論だけで確信に迫ろうとするもんだから、たちが悪いの。精神論のように聞こえるかもしれないけど、「やってみないとわからないことばかりだから、まずはやってみろ」という一言は的を得ているはずなのだ。

例えば、よくいるタイプで「ライターになりたい」という人が「何も書いていない」という状態だったらどうだろうか。作文用紙でも、ブログであっても、SNSでも、なにかしら書く鍛錬をしている、そうして、他人に見せられるかたちがある人とない人では、段階に雲泥の差があることは明白だ。童貞のセックス論ほど、聞き耳を持たない(いや、視点を変えて、ほじくりはじめると、これはこれはおもしろいのだけど)。

ぼくのまわりにも「ライティングをやってみたい」と口にする輩が何人もいた。その言葉を放ったほとんどが、一年以上経ったいまになっても、何もやっていない。理由を聞くと「もうちょい人に見せられるようになるまでこそこそとやるんだ」とか「他のことが忙しくて」とか、「そうか、ここは無心を心得よう」と感じる返答ばかり。

そして、そうではない、ごく一部の人たちが、なにかしらをなにかしらの媒体で書きはじめた。その一人は、自分でブログをはじめて、自分の文章の気持ち悪さに気付いて、おえつしそうになりながらも、定期的に、少しずつ少しずつ更新していた。そのなかで、Webの性質もあって、わりと反応のもらえる記事を書くことがあったようだ。

そこで、はじめて、自分のつくったものに対しての、他人の反応・声を肌感覚で得ることができた。ここで大事なことは、“肌感覚”で掴めたことであり、やっている人にしかわからいことをやり続けることで、自分の手でつかみ取ったことである。童貞を卒業したからこそ、少し、あか抜けたというか、一皮むけたというか、表情がひとつ変わったというか、そんなところだ。

その彼を見ていて、ぼくが思ったのは、最初にものべたように、これは確信でなく、彼の「やってみる」という勇気の勝利であるな、ということ。自分にできるかできないか分からないけど、やってみることで「なにができるのかできないのか/なにが得意で、なにが苦手か/輪郭のある課題や感想」がごっそりと出てきたようだ。

そんな偉そうにいえる立場ではないけど(これから彼がライバルになるかもしれないし)、素直に彼を賞賛したい、やるじゃん、と思った。そして、同じように「やろうと思ってるのに、なかなかはじめられない人」は、確信を待つのではなく、ただすでにあるはずだけど隠れている勇気を振りしぼってみるといいのではないかとも思った。

半年後、一年後くらいに、その勇気が、いま自分の周辺にある物・事・場所、あるいは、すぐ近くにいる人に対する目線を変えてくれるかもしれない。

 

“知らない”仕事につくことはできない→“知ってる”仕事だけでぼくらは生きていくのか

田舎でも、都会でも、よく耳にするなぁ、SNSでもよく議論されてるなぁ、と思ったので、それについて。

「仕事がない」と口にする人は多いけど、実際はそんことなくて、「知っているもののなかで選びすぎている」か、そもそも「“ある”ことを知らない」かのどちらかのケースは多そう。前者はもう個人レベルでどうにかしてよ、と思うばかりだけど、後者はその情報が入ってくる環境(メディアとの付き合い方、まわりにいる大人、そういった情報を得る場所など含めて)自体が問題なこともある。仕事の選択肢という話でいれば、実は、「ない仕事をつくる」という発想というか選択も本当はあるわけだ。

日本でも近代化にともなって、畑を追い出された、あるいは、出ざるを得なかった農民が、街に繰り出していったあのときは、別にいまのような「やったるで起業」みたいな仰々しいものでもなく、今風にいうと「小商い」というかんじに捉えたのか、自分の仕事をつくっていって、(サラリーマンだけじゃなくて)自営業の人も増えていった。その過程のなかで商店街も発展したときがあったんだろうな。

本題が逸れてしまったけど、「ない仕事をつくる」よりかは「“ある”ことを知る」ほうが大多数向きだろうから、まずは“ある”の届く範囲を広げられるようにしていけるといいのかもね。もしかしたら「“あることを知る」を体験すれば、「ない仕事をつくる」という方向に、段階的に進むかもしれない。知らないことを知ることは、おそらく自分の暮らしや仕事の価値観を大きく覆しちゃうこともあるわけで、そういう機会はもうちょい増えたほうがいいと個人的には思っている。

2016年、ますます「移住」という言葉のファッション化が進んでいくはずだけど、自分の暮らしやはたらき方を考え、その実践をしていくなかで、「移住」という選択肢がでてくるわけで、あくまでそれは“ひとつの選択肢”でしかない。にも関わらず、それ自体が目的になってしまう、あるいは、それを達成すれば苦から逃れられる、というような妄信的救済となっている事実も少なからずある。実際には、そんなことないのに。

東京にもローカルはたくさんあるし、近郊でも田舎暮らしっぽいはそれなりにできる。コミュニティを求めて、都会を出ようとしてるなら、実は探してみれば、居心地のよいコミュニティの一個や二個は見つかるはずだ。「移住したい、って言ってるけど、本当にそれって移住しないとだめなの?そこじゃできないの?」といやらしい問掛けは大事にしていきたいな。

そこらへんについて思い老けたときに、「抜け道をつくるメディア」とか「想像税を、払う東京」とか「地域おこし協力隊になって、自分探しをしようとする若者の風潮について」「田舎者はどこでもいるぞ」「移住イベントは、だいたい二パターンに分かれる」とか、をまとめた。

バーテンダーが自分のオリジナルカクテルをつくりたい、ってときは、まずは世界中にあるカクテルについて知らないといけない。いろいろと知って、吟味してみて、悩んでみて、それから自分らしい一杯が生まれる。井の中の蛙のように、狭い見聞のなかだけで広げられるものには限界がある。その中で自分がハマるものがあればいいけど、ハマれないものがでてきたときは、多少しんどくなる。そのとき、“知らない”から“知ってる”への変化をつくれる人は、得するよな、といつもいつもぼくは思う。

多様性を認められた社会といいつつも、その多様性をのぞけていない人の生き方と、好奇心をもってのぞけている人の生き方は、どこか違ってみるのだけど、おそらく、それは知ってるがゆえの“ゆとり”にあるのかもしれない。今ある自分の“知ってる”から、ちょっと抜け出してみる勇気、ただそれだけの違い。