「すべてが興味ないわたし」と「すべてが興味あるわたし」

腹が減ったら飯をくう。そりゃ当たりまえかもしれんけどさ。仕事と仕事の合間を縫って、食べものを求めて、街中をさまよう。いつもいつも、いろいろと動きまわってはみるものの、結局口にするのは、カツキッチンのポーク玉子おにぎりか、田舎そばのソーキそば、あるいは、赤とんぼのタコライス、もう最悪の場合は、ドンキで買い込んだ大量のカップラーメンである。

そう、基本的に、そういうご飯のことで何を食べようかと悩んでるのがもったいないし、なんかその時間無駄だよなーと思ってしまう自分がいる。ざっくばらんに言えば、腹を満たせば何でもいいのだ、そのくらいぼくは食に興味がない、と一度思うのだ……が、全くそうでもないらしい。

一応は、元々飲食業界にいたわけで、それなりに美味しいものがあるということは舌が覚えてくれてるし、美味しいものを見つけたときには、それを誰かと共有したくなる気持ちがあったりする。じゃあ、「興味がない」と思える自分はなんなのか? それは、自分事か他人事かの違いでしかない、と気付く。

自分ひとりで食べるものであれば、何でもいいわけで、気にすることなく、とにかく腹に詰められればいい。つまりは、死ななきゃいい、という価値観でご飯を食べる。しかし、誰かと食べるということを意識し始めると、自分の五感が一気に奮い立って、一緒に食べる人に合いそうなものはなんだったか、と自分の脳の片隅にある記憶を必死で辿ろうとする。それなりに知識的なものも勉強する。美味しいものを食べたときも、こういう味、〇〇さん好きかもな、と一瞬考えるような繊細さもそれなりにあるわけだ。

その「自分事として考えると全く興味を持てないことが、他人事として考えると一変してすさまじく興味を持てるようになる」現象、実は「食」に限ったことではない。自分がいま仕事として掘り下げている「地域」「移住」「テクノロジー」なども、そのおもしろさ・可能性にひれ伏してはいるけども、個人的には言うほど興味はないみたいだ。それらについて情報を欲している人がいると思うから、その人たちに向けて情報を集め、自分なりに編集し、共有するための準備をしていく。

興味のない自分のための自分と、興味のある他人のための自分、言葉としてはややこしいが、そういう二つの人格を持てている。少し飛躍する話にはなるが、相手に「やりたいことはなんですか?」と聞かれたとき、ぼくはいつも答えにつまる。それは自分事の領域だけで考えると、ほとんどやりたいことがないからだ。物事に対する関心というのがないままに27年間を生きてきた。むしろ「やりたくないことはなんですか?」と聞かれたほうが、死ぬほど答えられる。

だけど、唯一ポジティブに答えられることがあるとすれば、「やりたいことがある人のやりたいを応援する」「やりたいことがない人のやりたいを見つける」ってことは、あながち嘘ではないだろう。自分の動きよりも、人の動きのほうが気になるのだ。その人の動きがつくられていく様子を見れることが嬉しいのだ。

かつてバーテンダーとしてカウンターの中にいたときも、自分が話すよりも、お客さんが話をしてくたほうがいいし、知らないお客さん同士をつなげてその二人で話が盛り上がってくれたほうが、断然うれしかった。そもそも、そういうタイプの人間なのだ。自分については、わりと何でもいい。

自分には必要のない情報でも、どこかでだれかにとっての必要な情報になる、それが彼ら彼女らの新たな変化の起爆剤になりえるかも、と思うと、どんなことにも興味は持ててしまう。どこかに「自分用」スイッチと、「他人用」スイッチがある。プライベートでは、他人用スイッチは押したくもないから、基本的には全ての情報を遮断したくなるし、もう情報を入れすらしたくないから、人に会いたくないってことも多い。

一匹のマグロは、解体師によって、見事にさまざまに部位にさばかれていく。それは、だれがなにを調理したいのか、というひとつのゴールに向けて、丁寧に切り分けられているのだろう。同様に、ひとつの領域/情報の塊に出くわしたとき、自分は調理する気はひとつもないけど、こういう人にはこれ、ああいう人にはあれ、というような振り分けができる。きっとそれがあって、自分はいろんな情報を頭にストックする癖がついてる、それをしかるべきに引き出せるように揃えることができているのだと思う。

「すべてに興味ないわたし」と「すべてに興味あるわたし」の違いについて、ずっと自分で自分に理解できていなかったが、こうやって書き留めてみることで、だいぶ整理できたかもしれない。とりあえずは、自分についてはそう解釈ができたので、お節介かもしれながい、ついでに他人に対して思うことも記しておこう。

自分には無関心・無価値でも、立場や視点を変えてみれば、今目の前にある情報が、ある人にとってはお宝になるよね。それと、「編集」という作為は、そこらへんを常に悶悶と考えながらやっているものではないのか、っていうことを。そんなこんなを思いつつ、この記事は一体だれに響くのかしら(ハマる人なんているのか?)、と思い悩むのです。

いつまでもそこに居(れ)るとは思うなよ

始まりがあれば、終わりがある。よく聞く言葉だ。新しい一歩のために、物事をどうやって始めるのか。それは多くの人の関心事らしく、「〜の始め方」という切口の議論を、最近ではよく耳にするようになった。

ただ、その「始め方」は「終わり方」に対する意識が若干薄いのではないかとも感じる。始まりがあるなら、その先の終わりのことも一緒に考えてみるのはどうだろう。それをどうやって終わらせるかということを。

それは、「人が流動的な存在で、いつまでも同じ場所にはいられない」からこそだ。自分がずっとそこに居続けると思い込むのも危ういし、他人がずっとそこに居続けると思い込むのも、いささか横暴なのかもしれない。

人は変化し続け、ステップを踏んで、新しい場所へと進もうとする。そのときに、同じ場所にいられなくなる理由ができる。

あるひとつのことを、一緒に始めたとしても、終わるときは一緒ではないかもしれない。人の人生は摩訶不思議で、予定調和に全てが動いているわけじゃない。だから、始め方を考えると同時に、終わり方も考えていく。では、なにがよい終わり方なのだろうか。

終わり方は、各々が持つシチュエーションによって勿論異なるだろう。だが、終わり方には「捨てる」と「離れる」というふたつの終わり方があるように思える。捨てると、もう二度と戻れないが、離れるのは、また戻ってくることができる。

つまり、今までその場所で築いてきた関係性をぶち切って、その場を去っていくのが「捨てる」終わり方。反対に、関係性を継続して、やり取りは続きながら、なにかの際に立ち寄れたり、あるいは戻ってこれる可能性を残して、その場を去るのが「離れる」終わり方。

例えば、これを「移住」の話で考えてみる。とある地域に移住してはみたものの、文化が違うためか、地域の人とうまくコミュニケーション取れず、自分からもアプローチせず、馴染めず、2〜3年でそこを後にするAタイプ。もう一人は、移住後、地域の人とのやり取りに苦労しながらも、少しずつ馴染み、お互いに信頼できる関係性を築けたが、実家や仕事(キャリア)の都合でどうしてもその地域を出ざる得なくて、そこを後にするBタイプ。

すぐに察してもらえるだろうが、Aタイプの人は「捨てた」人、Bタイプの人は「離れた」人である。Bの人は、おそらく定期的に、その地域に遊びに行ったりして、宿泊もさせてもらえるだろう。ある意味、「さようなら」ー「さようなら」でなはく、「いってきます」ー「いってらっしゃい」と地域の人とお互いに言えるような関係性がある。

移住の話に限らずに、子はいつまでも親の元にはいられないし、チームだったけど個人としてやりたくなることもあれば、いつまでも部下は同じ上司の元にいるわけでなく、教師は次へと進もうとする生徒を留まらせることはできない。

すべて始まりは一緒だろうが、いつしかは(物理的な)終わりが確実にくる。だからこそ、再三言わせてもらうが、「どのように終わるのか」そして欲をいえば「どのように離れるのか」までを頭の片隅に置きつつ、物事を始めていけるといい。

話は飛んでしまうかもしれないが、自分が、あるいは、その人が、離れたとしても成り立つ「関係性」と「仕組み」をつくれる人こそ、よいリーダーなのだとも思う。いつまでも自分がそこに居れると、他人がそこに居てくれると甘んじるのはダメだ。人は絶え間なく変化し続ける。その変化を見抜けず、認めず、見送ることのできない人は、上に立つのはきっと向いてない。

こんな居場所が理想的だ ー その場所に足を踏み入れたからこそ、あらゆる挑戦でき、得るものがあり、次へとステップを進められる、登竜門的な存在としてそこから飛び立てるような、そんな人が“離れる”ことを好しとした場所。

みんな、行きたい場所があるなら、見つけたなら、そこへ行けばいい。人が行きたい方向を邪魔するほど、そんな野暮ったいことはない。それはしたくない。

温もりのある「離れる」をデザインできるよう、もっともっと経験を積まなきゃだなぁ。