400字執筆は、ジョギングみたいなもん

ブログをいつものごとくサボっていました。ですが、手書きは変わらずに続けています。月末までに、400字原稿用紙×50枚をぜんぶ埋めると決めてから、25枚ほどを書けた。といっても、1万字ほどなので、数字だけでみれば、いたって、大したことはない。

1枚1テーマと決めているので、記すなかで、25個ほどのネタの卵が見つかったかんじかな。ただ埋めるだけでは筋トレにもならないので、以前書いたように文章構成にルールを置いている。5段構成の設計図。それなりに制限つけなきゃ、意識はどっかに必要だよね。

もっかいルールを確認しとく。【段落の数は、だいたい5個か6個くらい】【最初の段落には「導入」】【2段落目がとても重要で、なにか「おもしろいこと」】【3段落目は、その説明】【4段落目は、さらにハードルが高くて、なにか「新しい視点」】【5段落目に、さわやかにさらっとまとめ】。

それを400字詰めで考えてみると、文字のバランスとして、ぼくが考えのは【1段目:60字】【2段目:100字】【3段目:100字】【4段目:100字】【5段目:40字】というひとつの指標。単純計算で、各段落80字だと書きたいことが書きにくいと気付いたので。

懲りずにずっと思ってることは、文章はトレーニング次第で、ある程度の力量までは上達できるってこと。そのためには、量をこなすことだと思う。絶対的な量(時間)が圧倒的な質を生む、と信じながら。津田大介さんもそんなこと言ってたしなぁ。だけど、ただ量をこなすだけだと、伸びるスピードは遅いと思うので、その中でも意識が大切だと思う。ぼくは、そこに、文章構成を今のフェーズで取り入れてみてる。

きれいに整った升目を、滑稽な字で、黒く書き染める。実は、残り20枚分は「2枚、3枚、5枚、10枚でひとテーマについて書く」決めていて、ちょっとずつ筆の走行距離を増やしてみようと思っている。いきなり42.195キロは無理でも、数キロであれば、どうにかなる。その積み重ねってことなんじゃないか。それを試したい。

とにもかくも、時期が時期なので、夏バテには気をつけようっと。へばるなよ、おれ(心配すぎる)。

 

名桜大学のあたらしい奨学金制度は、どうなっていくのか

11日の夜から福岡にはいり、やがて5日目。いつまで九州にいるかわからないけど、とりあえず今は久留米にいる。河童が有名なんだってね。仕事の合間を縫って、ミイラかなんかを見れたらと思う。

そんなことを思いながら、福岡から沖縄の話をすこし。沖縄には、いくつか大学があるのだけど、奨学制度もいくつかある。そりゃ、各大学に奨学金があるのは、あたり前なんだけど、違和感を覚えたものついて。最近、新しい奨学制度がはじまったらしい。

「学生・教育支援等プロジェクト経費」というもので、学生が個人・団体でやりたいプロジェクトに対して、最大100万円が支援されるというもの。返済は不要だとか。いや、表向きで言えば、「こりゃいいねー、学生、いろいろとやれるね」とか思うんだけど、やっぱりこれは違和感がある。

そこらへんに触れるには、このFB投稿を見てもらわなくちゃ。この投稿者曰く、「何かをやりたい!」と思っていて、想いは持ってるけどお金が原因で何もできない学生は多いとか。そんな壁にぶつかっている(自分以外の)学生にぜひ使ってもらいたいそう。

そこそこシェアされてて、いいねも付いて、なんかイキってる感じがするのだけど、これ「ちょっとおかしくないか?」と、ぼくは感じる。だって、本当にやりたいことがあるなら、お金がなくても、できることからまず始めるよね。お金がなくちゃできないよ、という甘えの強い学生を、さらに甘やかすきっかえを与えちゃっていいもんだろうか。

そんな学生がポンポン承認されるようなら、あまりやらない方がいい気がする。すでに何かをやっていて、その活動を広げるために資金が必要ならわかるのよね。すでにアイデアのβ版が見えていて「そこが足りないんです、、」と理由が明確だから。「お金がないなら知恵を絞って」タイプの応援をまずできたらいいじゃん。

「なんでこんな奨学金ができたのか?」と思想の潮流的なものを自分なりに追ってみると、やっぱり大人がわるい。沖縄は、他県に比べると、かなり公費だの補助金だののお金が動いてて、それありきで物事をはじめようとする大人が多いから、そりゃそれ見てる若者まで、そういう考え方にはなるわな。スモールスタートでいいじゃんね。想いがあるなら余計にね。

そもそも、この奨学金をつくりたいと思って、実際に動かしたFB投稿者はすごいし、すでに形になっちゃってるものだから、あとは考え方、選び方、使い方次第。なにかを「やろうとしている」じゃなくて、すでに「やっている」学生を応援できるように、せっかくの制度だからなるといいな。ちっちゃく動き出してる人にみんな目を向けてあげてよ。

(まあ、ぼくは学生のときはバイト三昧で、特になにかを意識高く「やっていた」タイプでなかったから大口は叩けないけど・・・)

 

400字詰の原稿用紙、はじめました

もろもろのブログを再開するにあたって、最近から、手書きの作業にも力を入れはじめた。何をはじめたかといえば、400字の原稿用紙に、ひとつの切口で1枚をまとめてみること。サラサラッと、後から、自分でも、読めるか読めないかわからないような文字を書きなぐって、400字を埋めていく。

意外にもこの作業が楽しい。むちゃくちゃ楽しい。中学校とか高校のときに、読書感想文だとか、意見発表文だとかを書けと言われていたあの頃は、どうしても原稿用紙というのが、ただの白い、だけども大きな大きな壁であったのを覚えている。特に、書き出しが苦手だったけなぁ。

それが今となると、楽しくなるのは、なんぞこれ。多分だけど、手書きという昔の感覚を思い出せているノスタルジーと、どんなに不格好とはいえども、自分にしか生めないような、統一感のない文字に対する生々しさが、要因なんじゃないかってね。それと、過去のトラウマというか、壁を乗り越えたという、技術の変化に自分自身がときめく。

「とにかく、筋トレなのよ」と誰かが言った気がするし、いつからか、呪文のように、ぼく自身もそう自分に言い聞かせている。整った文章を書くのは、メディアという神聖な場所で、ライターとして書かせてもらっているのだから、裏舞台として、手書きとブログはどろんこまみれの遊びのある文章を書けたらいいな。

そんなこんなで、原稿用紙は「400字×50枚」ある。現在、10枚ほどを黒く汚した。7月中、ちょうど沖縄を離れての、九州遠征中にでも、この50枚にすべて吐き出せるように、手を動かしてみようかと思う。とにかく、立ち止らず、まずは量を、書く。ペンの握り方が変なもんだから、インクでむちゃくちゃ手が汚れることよ。

言いわけからの、場づくりの余白など

「ほぼ日で、書きます」宣言から、はや数日で、更新が止まるというのが、いつもと同じだよな、と反省しつつも、ここ数日を振り返ってみると、確かに書き留める時間はなかったかも、と言い訳の余地もちょっと探してみる。

4日は「水上学舎」で、5日は「すいすい市」、6日〜7日は伊平屋(いへや)島までのアテンド。ご無沙汰の人も、初めての人も、たくさんの人と会える機会となり、濃密で、次の動き方も見えた気がするし、ギュッと詰めてやったことへの意味も感じてはいる。誰かと一緒にいると、目の前の人に全部気持ちを持っていかれるから、作業をやろうなんて気持ちになれないのは、飲食(サービス)経験で詰み重ねてしまった感覚なのかも、と気付いた。

この数日、同じ「ぺとぺと」として活動するコバヤシさんをはじめ、ナースじゃないけど病院勤めのツバサさん、まちライブラリーの館長のゴウくん、そして、その奥さんのミシオさん、神主のゴリさん、大宜味のミゾくん、いつもお手伝いもらってる学生のナオユキには、(日頃からお世話になってるけど)いろんなサポートをもらい、ほんとに、感謝、感謝です。

ぼくはレス下手なので、あまりちゃんと言葉にできていない部分もあるけど、一緒に進めさせてもらう上で「自分のできないこと」「一人じゃできないこと」を、まざまざと痛感させられる。とういうか「おれ、できないこと多過ぎでしょ」と思うことばっかだったなぁ(苦笑)

「場づくり」については、毎度毎度どうなるかわからない、むしろ、「どうなるかわからない余白をどう残しておくのか」ということは考えるんだけど、こうやって自分以外の人が、ある意味、勝手にやってくれるから、安心できるから余白づくりをやろうと思えるのだろう。

どうやって人が集まったのかは、振り返ってみると、計算できたものは一つももなく、どっちかというと“偶然”に近いものばかりだったし、なにかしらの波長が合ったから、なにか大きな取り決めをしたわけでもなく、自然とまた来てもらえるようになったのかな、としみじみ感じるわけで。

今回の件で、ぼくのズボラさとか、弱みとかは、かなり公開された気はするので、できないところをどう乗り越えるのかとか、できることをより尖らせるためにどうしようとか、今後の動くときの規模を狭めるとか広げるとか、はもっかい考え直したいし、次どうしたいかは他の人たちに委ねられたらとも思う。

今ぼくのすぐ側にある場は、“プライベート”から“パブリック”の領域へ変わってきている。プライベートだからできることは自己完結で終わらせられるようにちっちゃく仕掛けながら、パブリックだからこそできることは、この場に集まってくれる人の意志に委ね、その意志が混ざり合うことの化学反応を楽しみにしながら、しばらくは、そのまま進んでいこうと思う。

大事なことは、続くこと。その場があり続けることで、だれかが(ちょっとした背伸びではなく)ひどく無理するような場は続かないし、そういうのは、おもしろくも、楽しくもないので、場の空気、温度には過敏なくらい敏感でありたいです。

すいすい市、打ち上げのホルモン焼きは楽しかったし、うれしかったので、あれがまたできたらいいなぁ。それとかも、続くように。

南城 × しごと × トライアルステイ

今朝のこと、家からバス停に向かっていると、目の前を先行くおばあちゃん。小さくまるっとした後ろ姿が、ほのほのとした雰囲気があった。杖をついてて、ゆっくりゆっくりと歩いてるので、当たりまえだけど、すたすたと歩くぼくが途中で抜いてしまう。追い抜いたあたりで、おばあちゃんの顔を見る。そしたら、目が合い、にっこりとした表情で「おはようございます」と声かけてくれた。ぼくも「おはようございます」とできるかぎりの、だけど不自然かもしれない笑顔で返す。

これって、ちょうど昨日まとめてみた「あいさつ」の話だよなぁ、と思って、こうやって作業場所についてからメモしている。知らないおばあちゃんだし、言っても、それほど近所なわけでもなく、今後会うのかわからないよね、っていう関係性であったとしても、こんな感じで「おはようございます」の一言がある地域というか、コミュニティに住めているのは、正直うれしいことです。

というのが、ひとつあっての今。ついでに、一昨日足を運んだ南城市のメモをしておこうかな。「なんじょう地域デザインセンター」で活動する秋本さんと、「沖縄移住ライフハック」のご夫婦と一緒にお茶をしてきた。南城という場所で「コミュニティスペース、コワーキングスペースづくりができないもんかなぁ?」と話に出たのがあって、それについて。個人的に「移住」に関する話も聞きたかったもあったかな。

南城は、沖縄本島の南部にあって、那覇よりもずっと下、自然に恵まれていて、ゆったりとした地域だ。「斎場御嶽」とか世界遺産もあったりするけど、あまり観光に特化してるわけでないので、というか、「そもそも観光系のプレーヤーがいない」という話を聞いてて驚いた。交通網も、バスなども通ってなくて、裏技的に乗り合いバスが南城市内なら300円で乗れるというのがあるくらいで、車がないとしんどい場所。

となると、観光客も南城市でゆっくりして〜というのは考えにくいわけかぁ。「浜辺の茶屋」のような絶景のロケーションにあるカフェも多くて、ちょっと立ち寄るくらいはできても、そこで1泊するって選択肢はやりにくて(数と価格の宿泊先問題で)レンタカーを借りた人なら、たいてい那覇に戻って、そこで夜を過ごすことになるのは分かりやすい。

夜の話をすると、やっぱり遅くまでやってるお店は少なく、特に、地元の高校生や大学生などの若者が集まるようなスペースがないとのこと。クリエーターンのような作業場所が欲しい人からしても、やっぱり電源あってWi-Fiあって、みたいな場所は皆無みたい。個人的には、観光という視点ではなく、ゆったりとした環境のなかで仕事できる場所としての開拓&提案ができないかなぁと想いを馳せた。

千葉の「KANAYA BASE」とか福岡の「SALT」のような、海辺あるいは海が見える場所で、作業をする。それによって、生産性が上がればいいだろうし、どこでも仕事ができるようなタイプの人にとっては、いつもとは違う場所で作業ができるのは、結構いい気分転換にもなるし、新しいアイデアが生まれるきっかけにもなりやすい。

関西、関東、九州あたりのクリエーターが一定期間、南城に滞在しながら、ゆったりしつつも仕事もするという環境づくりの可能性を感じた。だけども、そこで作業場所だけじゃなくて、同時に宿泊施設をどうするかという問題も出てくるよなぁ。それは、ワークスペースと宿泊スペースが併設タイプなのか、あるいは、提携できすスペースを見つけるのか。やっぱり問題はある。

とはいえね、なんとなくではあるけど、それをやれる土壌はあるんじゃないかと具体的な話は聞けたので、なんだかよい南城でのひと時でしたよ。カフェの名前は忘れちゃったけど、ちょっと高台にあって、海を見下ろせるお店があったんだよね。あの景色は、沖縄でもなかなか見れない気がしてて、内湾と山と雲がふぁーっと広がる海は、南城らしさなのかなと思った。

ぼくの個人テーマに「移住」があって、そのなかでも「試住」というトライアルステイがあるんだけど、仕事という入口で、きっかけで、移住ということを考えるフィールドが増えたらおもろいよな。あくまで大切なのは「くらし」なんだけど、その一部としての仕事を切りとって、自分のあり方を考えるかどうかはさー。ちょっと長くなったけど、メモはここらへんで終了。

あ、南城市はよく「♡」を使っているけどこれなんなの? と思っていたんだけど、南城市のかたちがハートに近いとのことらしい。やっと腹オチしました。ただ「♡」の記号が苦手である。これを多用する女性とか超苦手なんだよなあ…トラウマが……ね。

田舎にあって、都会にないもの

この前、自分の領域について考えてみたけど、その中の「地域」と「くらし」というテーマで、その2つになんとなく重なるのが「田舎と都会」。ざっくりとではあるけど、田舎は「生産」する場所、都会は「消費」する場所だ、という大きなイメージを持っている。1次産業から3次産業までの流れを意識してみるとそれがよくわかる。

とはいえ、別に田舎でも消費的にくらすことはできるし、都会でもより生産的にくらすことはできる。気持ちの持ち様とか、そのためのツールと関係性をどうやって築いていけるのかが大きいんだろう。だから、「田舎もしくは、都会が絶対的にいい」とかは無いんだよね。それは、ほんとに。自分という人間とその地域との相性でしかないと思う。そこらへんはここで書いた。

「そもそもなんで、いま、そこにいるの?」「何がいいとこ?わるいとこ?」「仕事があるから?」「地元だから?」みたいなことは考えられたらいいよね。惰性でその地域でいるんじゃなくて、積極的にその地域にいられたら、なんか動きもグググッと変わってくるだろうしさ。

と、ウダウダ書いてみたのだけど、今回はタイトルを先につけてみたのを思い出した。「田舎にあって、都会にないもの」。それについて言うと、かなりシンプルなことで「あいさつ」なんじゃないかなーと思う。あいさつなんてのは、気持ちひとつでどこでもだれでもできるもの。

だけど、都会だと、通りすぎる人みんなにはしてられないし、面と向かっても、「おはようございます」とか「こんにちは」とかが瞬時には出てきにくい。心ではつぶやけても、急に、口だけが金縛りに合うような変な空気が都会にはあるような気がする。あと、社交辞令的なあいさつが多いよなぁ。

それに比べると、田舎は、そもそも人が少なくて、町を歩いていると見かける人もあまりいない。という条件は基本的に違うなかではあるけど、たまたま会った人にさりげなくあいさつをする人は、都会に比べたら多い(だろうな)。赤の他人であっても、あいさつの姿勢は変わらないし、ある意味、区別的あいさつをする人は少ないようにも思える。

たかがあいさつ、されどあいさつで、その一言があるだけで、その場所にいる「気持ちよさ」って全然違う。一日まともに口をきかずに過ごすなんて人もいるような社会があるなかで、その一言って大きい。言葉のぬくもりってすごいよね。一言から関係性が生まれることだって大いにあるし。街並としてはパッとしない地域であっても、この一言に触れられるだけで、そこを好きになっちゃう可能性だってある。「また来ようかなぁ」って思うくらいに。

あいさつの存在によってある、密な関係性というか、カジュアルコミュニケーションというか、そういったものは田舎の魅力なんじゃないか。田舎暮らしすると「自然がきれいだ」とか「静かに過ごせるわ」とか「ご飯がおいしいよ」とかいろいろあるんだけど、そういったものをPRしがちなんだけど、意外と「あいさつが気持ちいい」というのはもっと出せるといいかもね。

最近の1週間でも、昨日の1日でも振り返ってみてほしい。家を出てから帰るまでに、どんな人とどんなあいさつをしたのか。最近、地元のいへや島に戻ったときに感じたのだけど、島の小中学生の「おはようございます」が気持ちよかったんだ。いいところで育ったなぁと思いつつも、それが今の自分はできてるのかなぁと考えると、ちょっぴり恥ずかしくもなった。