メガネと、まちライブラリー

昨日のこと。早朝からの怒濤のライティングが終わったと思ったら、夜はイベント。主催したメガネのイベント。メガネをかけた人だけが参加できる(伊達メガネもOK)やつで、メガネゲスト(通称メガゲス)を呼んで、その人がお熱なものについて話をしてもらう企画。昨日は「まちライブラリー」を沖縄で展開しはじめた友人をゲストに開催。

元々、本がそんなに好きでもなかった彼は、まちライブラリーと出会い、もっというと、その取り組みをはじめた磯井さんとの出会いから、本を読むようになったとか。そして、本という媒体(メディア)を通して、人がつながっていく感覚が好きみたい。「マイクロライブラリーサミット」とかそういった動きなんかも教えてもらって楽しかったなぁ。

イベントの雰囲気としては、大学生からリタイア移住をされた方まで、年齢幅も職業幅もあって、だいたい10人くらい。場所は、ぼくが管理させてもらっている「水上家」。実は実は、ここにまちライブラリーを置かせてもらってたりする。そんな縁もあっての今回の会だった。

ぼく自身は、文章でお仕事をもらってるにも関わらず、本を読むことが少ない(活字はかなり目を通すほうだと思うけど)。だいたい本を読むのは、リサーチで必要なときがほとんど。それ以外には、自分が気になっている人、信頼している人が本を紹介してくれるとき。その人が「ここが、こんなんで、こうこうおもしろいよ」と教えてくれたり、何も言わなくともスッと紹介してくれる本は、なにかしら心に染み入り、自分の価値観がグッと広がったことも多かった。

そういう意味では、本自体がそれほど好きとは言えないのだけど、本でつながる関係というのはいいなぁと思う。そして、水上家という場を持たせてもらう身としては、なにか人がつながる“きっかけ”というか“共通項”というか、そういうのは敏感で、ある種、日本語がわかれば伝え合える、コミュニケーションツールとしても意味合いは大きいよなぁ。

ちなみに「酒(食)」と「音楽」と「スポーツ」、それと「映像」「デザイン」は、世界共通言語だと思っていて、人が引き寄せ合うひとつの媒体としてのポテンシャルは高いよなぁ。と思ったり。なので振り返ってみると、昨日は「本」を真正面から向きあったというよりは、「本のある場」という切口で、あの場に参加していたのかな。興味関心性格が出るところだ。

ちょっと話を戻ってみて、そのゲスト友人、まちライブラリー@水上家の館長がさらっと言ってたのだけど、「本を通して、友達でも仲間でもない、家族のような関係性が生まれた」という発言は、けっこー響いた。かなり響いた。そういう場が生まれるってほんとにすごいよね。なんかこれからも一緒に、水上家のにぎやかしをお願いします、ってかんじ。

あと、本棚というものがあったとして、そこに本がむっちゃ並んでいたとしても、やっぱりそこに誰かのストーリーがないとおもしろくない。そして、そこを繋ぐというか、紡ぐというか、そんな立ち位置の人がいることの意味って大きい。家族のようなあたたかな関係性は、人が間にあってこそ生まれる。これから、どうやって本を通じて、だれかの想いが他のだれかへリレーされていくのか楽しみだ。ちなみに、ぼくは本棚にしれっとピーチジョンを置いている(怒られるまで置いとくよ)。

ライティングの専門領域をどうしよう

胃もたれだ。東京からアワモリカクテルコンペで来ている知人と飲んだ飲んだ。那覇の水上店舗にてまずかるく1杯ほど。それから、桜坂のお店を3軒、最後に久茂地のお店で〆というかんじ。ひさしぶりに、ぼくもこんなに飲んだ、というかハシゴしたかも…..という反省まじりの現状報告。

朝起きたら、酒はあまり残ってない、けど胃がすこしだけ重い。まあこの状態で、シャキリと、締切原稿に手を付けはじめている。あと、手づくり市をやるための準備も進めなくちゃなぁ。あ、明日の夜はイベントだったや、と(準備が悪いもんだから)いつもバタバタ。いっしょにやってくれてるメンバーには、ほんと感謝だ。

ということで、仕事しなくちゃね。と思っている最中のブログ(はよ、やれよ)。さっき原稿を書くといったけど、自分のライティング領域について確認してみようかな。ライターに専門性がある(必要だ)と思うんですよ。

一口にライターといっても、いろんな人がいて、紙かウェブか、専門領域はどうかなんて違いがある。とはいえ、ぼくみたいな3年目の若手ライターは、いうほどの専門性はなく、「ここらへんが自分の領域なのかなぁ」程度を探り探り、相性と将来を確かめるかのように記事を書かせてもらっている。

自分の領域以外のもの(ちょっと自分っぽくないやつ)を書くときだって、もちろんある。それはそれで、どんなジャンルでも、どんな記事形態(レポート、インタビューなど)でも書けるようにと、できるだけの仕事もさせてもらって、やり方を探ってきたとも思う。眼中になかった領域から、学べる知識・経験も多いから、やって損はないしね。そうやって、広げてきたからこそ、いったん狭めていってみようか、と領域を定める1年間として2015年を絶賛取り組み中だ。

長ったらしくなったけど「自分がここらへんを待ってるぜ」という領域(切口とも言えるのかな)は、「地域」「カクテル」「職人」「くらし」らへん。そのキーワードに引っ掛かりそうなメディアでやらせてもらえるように、奔走している。

もっとキーワードを切り分けてみると、「地域」は「商店街」「場づくり」「シビックテック」「離島」、「カクテル」は「ハーブ」「モクテル」「ご当地」「ルートビア」、「職人」は「手しごと」「伝統産業」「テクノロジー」「継承」、「くらし」は「田舎と都会」「働き方」「二拠点/多拠点」「移住」「民俗」「おばあちゃん」とか。

思い当たるものをバッと並べてみたけど、「くらし」比率が若干高いのかなぁ。というのと、なんだかんだ「地域」「カクテル」「職人」も自分の中では「くらし」にどう落とし込めるか、っていう課題に取り組んでいるみたい。

あと、どの領域でも「編集」とか「デザイン」って言葉がどう絡むのか、ということが気になるな。こうやってまとめていると、いろいろ気付かされちゃうから、“とにかく書く”って作業は大事やね。

今関わらせてもらっている「マチノコト」は、自分の中で大事にしているキーワードをかなり拾えるメディアだと感じていてて、もっとしっかりとやれたらな、とへたれな自分に喝を入れなきゃとも思う。ちょっと止まっちゃてるけど「おうち菜園」は、カクテルとかけ算できる可能性も高くて、余力がでてきたら、文章提案できるように。

とにかく、ひたすら書け、書いて書きまくれ、頭だけ考えている暇あれば、紙とペンを持って1枚まとめてみるとか、ワードを開いてみて構成などひとまず気にせずダッと書いてみるとか、指を動かせ、指で考えろ、ってことなんでしょうね。自分で自分をうまく叱れたっぽいので、仕事に戻ります。

 

書起こしで変わる「取材」と「価値観」

文字の「書起こし」は苦手だ、ということもあって、そういった作業には自分からはなるべく触れないようにしている。とはいえ、お世話になっている人から(ありがたいことに)依頼される仕事では、書起こしをすることはしばしば。ぼくの場合、苦手との戦いは、たいていご縁によって幕を開ける。

耳に集中して、同時に、手を動かす。たったこれだけのことなんだけど、慣れてないと当然てこずるし、そこそこ奥が深い。たしか、一番最初に引き受けたのは、約3時間ほどの音源だったんだけど、これが地獄だった……。コツが分かってないもんだから、非効率でスピードもかなり遅かったのを覚えている。もうやらねぇーー!と思うくらい。

けど、結局は、同じように引き受けちゃう。そうすると、苦手だ苦手だと思ってやっていても、前回よりはスルッとやれるようになる。量をこなすと、ましにはなっていくもんだねぇ。それでも、苦手意識というのはすぐには拭えないのだ。

そうやって、何度も書起こしの仕事を繰り返していると、自分なりのこなし方が確立されてきて、ある程度の時間の段取りもできるようになってくる。そして、ふとした瞬間に「あれ、なんか書起こしも楽しいかもな」と錯覚に陥る。あくまで錯覚なので、苦手は苦手ということ。

でもね、錯覚を起こせるようになれば、こっちもんだよ。だから今はちょっとだけ書起こしの仕事を増やせたらいいなぁ、と思っている。自分に足りないスキルも補える気もするしね。

書起こしの良い点は、自分以外のインタビュアーの「取材方法を学べる」ってことがある。どのように、相手と距離を縮めて話を引き出すのか、話がブレたときに本題に引き戻すのか、自分の話をどう織り交ぜるのか、など勉強できることは多い。

また、他人の声を文字化する作業のなかで、その人の「価値観を疑似体験できる」おもしろさもある。以前、都会から田舎へ移住した人の取材音源を書起したときに、自分がひとつも想像もできなった暮らしを語る話者の言葉一つひとつが、体に染み入ってくるような感覚があった。自分のなかで、ここぞと使える引用フレーズが増えていくみたいな。

書起こしについての雑感がざっくりし過ぎてるし、「書起しやると、これ身に付くよ(身に付いたよ)」ということはまだまだあるので、またどっかでまとめ直したいなぁ。

とりあえずね、自分の知らない世界にいるだれかの体験と言葉に触れることができるのは、楽しい。そして、指を動かしながら、少しずつ自分の中にも蓄積するものが増えていくのは、うれしい。まあ、苦手っちゃ苦手だけども……もっとやろう。書起こし協力隊になろう。

そして、ライターでなくとも、ライティングに興味あったり、ある分野についてのただならない関心があるなら、まずは気になる人の音源探して書起おこしてみるといいかもよ。おすすめです。

汚ない文章でいこうぜーーブログという生活実験

汚さなければ、晒さなければいけない、そんな気がしている。

どこまで続くはわからないし、何度も何度もくじけたことだけど、またブログを書き続けてみようか思う。とはいえ、そもそもブログを止めてたわけではなく、その頻度が1ヶ月に1回更新できるかできないかという、いわゆる中途半端なかんじだった。気が向いたときだけ書くスタイルというか。

恥ずかしながら、仕事でぱつぱつになって、そのときは書くのを伏せておこう……と書きたいのに書かないことも多かった。けど、今度にかぎっては、ほぼ日で更新できるようにしよう。そうだ、しよう。

仕事でウワーーーーっとなっているときほど、自分の頭の中がちゃんと整理できていないんだよなぁ。自分が今まさに取り組むことに対する想いとか、そこで得た情報とか、どこに向かっているのか、なにをその瞬間に感じているのか、ここらへんはきれいにまとまっていたほうがいい。

それができないと更に効率が悪くなって、余計にブログの投稿画面に手をつけれないという負のスパイラルになるってことは、何回も痛い程に経験している。「きついときほど書け」と自分に言い聞かせなくちゃ。

「これが終わったらこうする」という準備ばかりを待っていたら何も始まらない。無理くりにでも、こじ開けちゃって、始めちゃわないと、次には進みにくい。きっとそうだと思う。だから、もっと書かなければ、とね。

実は、このブログ以外にもいくつかブログをやっている。「ハチナナハチハチ」と「OTTO」。このふたつも更新頻度は高くない。とはいえ、ちょっとしたテーマを持って、だれかに見られることを想定して書いてはいるようで(振り返るって気付いたけど)少しだけ“メディア”を意識している。

「自分のためだけに書く」のがブログだ、という解釈を持って、このゲゲゲについては、書き進めていこうと思う。自分が気持ちよくなるために、スムーズに仕事も捗るように。変にテーマを意識せずに、思ったままのこと、自分の中にある感情の変化や、物事に対する考えを殴り書いていく。

テーマや文章量など、なにか枠組みを決めすぎると、きれいに書かなきゃいけないと自分で自分で苦しめることになる。汚くていいんだ。どうせきれいに書こうとしても、そもそも汚い文章しか書けないのだから。

「書く」って、できる人がやるとか、高尚でもなんでもなくて、自分のためにあるはずだ。自分の頭にあることを言語化して、文字にして、鏡のように自分自身と向きあうための作業。

そうやって自分のためにある文章で、白紙のような投稿フォームを汚しまくる。頭の中に棲みつく生き物のように、激しく動きまわる思考と感情を文字にして晒してみる。それを毎日のように続けたならどうなるのか。

たかがブログなんだけど、自分にとっては新鮮なチャレンジ。そして、ワクワクもドキドキもヒヤヒヤもする実験だ。結果はどうなるかわからないけど、されどブログ、となるように楽しみたいなぁ。自分をもっとおもしろがれるように、のせられるように。

 

闇と向きあい、光をみつける

勝手ながらに思うのは、みんな、どっかしらに闇を抱えて日々を過ごしているんじゃないかってこと。どんなに見栄えがよくて、何かできたり、目立つようだったり、順風満帆であっても、やっぱりどこかに黒々としたものはあるのかもしれない。

それを「ダメだ」とか「最悪」とか言うつもりは毛頭なくて、闇があるのが常であって、それとの向きあい方が大切なことなんだろう。

闇には、コンプレックスだとか、トラウマとかがある。そういったものは、辿りに辿ってみると、自分の昔の経験が基になっていて、今の自分をつくっているわけだから、過去をじっくりと振り返ることをまずやれたらいい。

そして、過去にあったことを整理して、自分の今の闇がどうつくられてきたのかを観察すること、否定せずにちゃんと受け入れ、肯定すること。この“肯定”がなければ次には進みにくい。

肯定してみて、闇を生みだす根源がわかるとする。そういうのは、結局、ある「人」が関わっている。その人との対話を避けていると、本当の意味での闇と向きあうことにはならない。そんな気がする。

ぼく自身のことに置き換えてみる。闇はあっていいと思っているし、その闇も活かしようっては昇華できるとも思っていて、負のエネルギーというのもそんなに悪くないと信じている。

ここ1年程で、自分の闇とかネガティブ感情をどのように扱うかを考えてきたし、やっと扱い方も見えてきたなぁと思う。だけど、それは少し違ったのかもしれない。

それは、あくまで、小手先の闇との向きあい方で、本質的には、解決にはつながりにくい、と直近で気付かされた。ダイエットも、リバウンドしやすい痩せ方と、体質改善ができるやり方とがあるが、それで言うと、前者の向きあい方をしてきたのかもしれない。

ぼくの場合、やっぱりコンプレックスがあるようで、それが妬みひがみ、あまのじゃくといった、基本的にはやべぇやつの性格を持ち合わせている。おそらく、その原因は、家族との関係性にあったのかもしれないと思うのだ。

だからこそ、もう少しだけ、家族との時間をより深く持てるようにしたい。話すことが億劫なことを、ちゃんと伝えてみようかな、とね。

自分が前に進んでいく、ある種、明るい光差すほうに進んでいくには、過去を振り返り、闇を見つめることにある。そうやって暗いところと対峙することによって、閃光が見えるのだろう。

光のあるところだけを見つめていると、痛い目に合う。自分のどうしようもないってくらいの弱さを認め、弱さを全うし、強くなる。それが自分にとっては大事なんだなぁ、とあらためて実感。

すんごく抽象的なことをまとめているのだけど、気持ちと自分のなかでのライフアクシデントを整理する意味での備忘録として。バァーーっと書いてみたけど、これでちょっとスッキリ。自分の“便秘感”が見えてきた。言語化してみるって大事やね。

とにもかくも、「うへー、こじらせんなぁ、こいつ」という自分に対しての感情がわかった分、こじらせ男子であることを楽しみたいなあ。どんなことにもビシッと向きあって、おもしろがって、ネタにできる、そんな大人になろうと、アラサーっぽさの出てくる27歳に考えたよー。

いい大人はきっと闇を呑みこむんだ、きっと。いや、おそらく……。