「いじめだ」「それは間違っている」「侮辱だ」「民意がまるでない」ー「で、なにやるの?」

ある物事について、議論されることは好ましいことだ。良いことでも、悪いことでも、話題にならなければ、広く知ってもらうことも、改善されることもないだろうから。

そして、議論になっていれば、必ずといっていいほど「批判」を耳にする。注意深く言わせてもらうけど、批判自体は悪いことではない。その“姿勢”が問われる。

 

なにか批判するときには、ルールを設けたい。批判したいことに対する物事の「よい(とされる)面」はまず押さえておくこと。だれかの短所を言うなら、長所も言えるようにしておこうよ、みたいな。

 

そのルールに、もうひとつ付け加えるとしよう。批判したうえで「じゃあなにやるの?」という次のアクションを考えること。それを考えるためのヒントを共有すること。

批判するだけで、口だけで終わるのってなんか寂しい。ダサい。そんな気がしてしまうのは、ぼくだけではないだろう。批判するってことは、変えたいこと、変わってほしいことが根底にはあるはずだよね。

それに対して、だれかが変えてくれるのを待つのじゃなくて、自分から(自分のできる範囲で)アプロ—チしているのかが重要じゃあないか。地に足がつくような形で、できることをやる。言葉よりも行動として。

 

基地批判、原発批判、安倍首相批判、数えあげたらキリがないってくらい、批判の声があがっている今日この頃。とっても偏っているなぁ、とも、言いたい放題言ってるよなぁ(しかも匿名かよ)とも、思うことばかり。

特に、沖縄にいる身としては、辺野古のことが知人のFacebookにもすんげーあがってくる。その賛否はおいといて、とりあえず批判が偏り過ぎてて、気持ちがわるい。ほんとフォロー外すこと増えたよ最近。

 

言いたいことはわかるし、事実もあるのだろうけど、被害者意識ばかりを主張してたら、主張したいことの質が下がるということに気付いていない。あちらとこちらの立場を理解したうえで、批判するというバランス感覚がない。

そして、いろいろとSNSやメディアでは論じてはいるけども、実際に行動として「なにをしてるんだ?」という話だとも思える。言いたいことだけ投げ捨てて、なにもしないって相手に響くわけがないよ。

 

沖縄についての注意点を言えば、あーやって、人がわんさか集まってデモやって、抗議すればいいってもんじゃない。あれは行動(アクション)のうちに、ぼくは入れていない。あんなのその日だけの“祭り”でしかない。洗脳めいたものにも見える。

「〜万人集まって抗議した」とかそんなことはどうでもいいのよ。もっと身近なことで、小さく、ポジティブに変えていける行動がなんなのか考えたほうがいい。そういった思考を拒否してるってことが、そもそも問題なんだよ。と同時に、そういうことを“考えない”ですぐに他人にのっかる恐さもある。

 

一応、自分の立場を言っておくと、基地とか原発とか安倍さんのこととかをね、すんなり許容してるわけでもなんでもない。なければないほうがいいに決まっている。

そういった問題に対する意見はたくさんあっていい。あったほうがいい。さまざま視点が考える材料にもなるから。ただ、その主張の仕方をもっと考えたほうがいいんじゃないの、と思うわけ。偏りすぎないように。

それと、言うだけじゃなくて、なにやるの、という話で。みんなで集まって、声を大きくしただけじゃ、行動したことにならないでしょ、とぼくは言いたい。

 

うんうん、君が言いたいことも、熱意もわかった。それができたら、世の中変わるよね。おもしろくなるよね。でも、最後にひとつだけ質問してもいいだろうか。

「で、なにやるの?」「なにやってるの?」これらは自分に対して、いつなんどきでも問うべきことだ。口だけでなく、手足を動かせ、きれいな汗をかけ。どんなに小さくても、形をつくれよ。“個”として。

 

ライター以外の人が、ライティングする意味

ライターという仕事を関わらせてもらってて、やっぱりこの仕事っていいよな、とか、ここらへんはしんどいよな、とかつねに両面を感じながらやっている。

 

記事を書くことで、誰かと誰かがつながる瞬間に出くわしたり、普段の自分なら関わることのない領域の人に会ったり、その知識を深めたりできるのは、素直にうれしい。身になる。幅が広がっている感覚がある。

その反面、ネタ選定のためのリサーチや、構成をがちっと決めることだったり、依頼主さんから好み/NGポイントを深読みしたり、入稿までのスピード感だったりは、ぼくは苦手なので、大変だなぁと感じることはしばしば。

 

「文章が好きだから」という理由でライターはじめた人は大変なんだろうなぁ、とも、そういう人はどれくらいいるんだろう、とも不思議に思う。それくらい、ぼくは文章自体への愛着はないのだろう。残念ながら。

 

そんなふうに良し悪しはあるけど、良いほうに魅力を感じているから、いまだにこの仕事に関わらせてもらっているし、まだまだ未熟なので、力もつけたいとも思う。自分のライティング領域もちょっとずつ定まってきた。

ただ、その領域のことを考えると、「“ライターとして”ライティングしなくてもいいのではないか?」という疑問がちらつく時がある。むしろ、その領域にどっぷり浸かったうえで、ライティングもできればいいんじゃないかって。

 

例えば、ぼくは「カクテル」について書きたいのだけど、ライターが記事が書くのと、バーテンダーが書くのでは、まったく違った質のものになるはずだ。

そりゃそうだろう。酒を飲む側なのか、つくる側なのかの視点で大きく変わってくる。そして、バーテンダーでライティングができる人は少ない(あまり表に出てこないという意味でも)。

 

だから、元バーテンダーのぼくは、ライティングを関わらせてもらってはいるけど、現在休業中のバーテンダーに戻って、修業し直して、その上で書けるものを増やしていくつもりだ。

がっつりとライターやりたいから、ライティングしているわけじゃない。だからこそ余計に、本業としてライターをやっている人はすごいなぁと思うし、中途半端に「ライターやりたいんです」という言葉を放つ人にはちょっと冷めがちだ。

 

プロレスラー、芸人、セクシー女優、板前、バリスタ、漁師、いろんな領域の人が、その中で動き回っている人が、その世界のことをつぶさに書けたほうが、情報のリアリティもある。

書かれる立場にもある人が、自分で筆をとって、書く立場になる。そういった人が増えることが、その領域を広く知らしめる手段になる。その世界のリアルを共有したり、盛り上がるためのきっかけとなりうる。

 

だから、ぼく一個人としては、ライター以外の人こそ、ライティングに対して興味を持ってもらえたらいいな、と勝手ながら思っている。その入口として、ブログっていいよね。

やるかやらないか、続けるか続けないか、気持ちがあるかないか、それだけのこと。ライター以外の人でも書いていいし、そっちのほうが世の中おもしろくなるよ(編集者も、そういう人を探してるんじゃないかなぁ)。