誰のためのボトルか

バーという場所で、そこそこ働いていると分かることがある。お客さんからよく注文される、人気のカクテルがなんなのか。反対に、あまり頼まれないものがなんなのか。

そして、カクテルには、当たり前だけど、いろんなお酒のボトルが使われれる。お酒となんかを混ぜるのが、カクテルだから。

 

よく注文されるカクテルに必要なボトルは、発注管理も気をつけなくてはいけない。モヒートがよく出るならハバナラムとか、ジントニックがよく出るならモンキー47とか、お店に寄ってもここの管理内容はちょっと違う。

ただバーというところは(もちろんお店のタイプにも寄るんだけど)、なかなか出ないカクテルや、そのボトル自身を飲みたいと、いらっしゃるお客さんを待っていたりもする。

 

経営観点で考えれば、あまり出ないボトルを置いとくなんて、効率が悪いわけ。だって、場所をそもそも取るし、ボトルによっては一度開栓しちゃうと劣化しやすいものだってある。

だけど、それを求めてくる人がいて、そのお酒によって、なにかしらの癒しだったり、励ましになることがある。すごく大袈裟な言いようだけど、ほんとに、そういう時間を過ごしてもらえるときがある。

 

お酒には「味わい」だけでなくて、それがつくられてきた「ストーリー」がある。そして人は、自分の人生というストーリーと重ねながらお酒を飲むから、“ただ酔う”とは違った酔い方ができるのだとも思う。

そういった一段上の酔いを味わってほしい、そのために必要なボトルであれば、どんなに場所をとろうと、コスパが悪かろうと、バックバーに置いておきたいと思うバーテンダーは少なからずいる。

 

すこし振り返ってみる。わりかし幅広いカクテルに使えて、お客さんからのニーズがあるし、消費されやすいボトルをバックバーに並べておくのは、よく分かる。

そうじゃなきゃ、回らないものがあるよね。だけど、ごく一部の限られた人に向けて、ひっそりと待ち構えるようなボトルだってある。個人的な気持ちでいうと、それが並んでいてほしい。

 

他のバーにはなかったけど、ここで「やっと巡りあえた」というお酒と人が出会って、ひとつの空間のなかで混ざりあう時間があるのって、素直にうれしい。そんな瞬間のために、人とお酒の“あいだ”にうまく入れるのが、いいバーテンダーなんだろう。

 

そして、考える。よいメディアとはなにか。たくさんの人に読まれる記事ばかり並べておけばいいのか。いや、きっとそうじゃない。

それを心から(本人が気付いてなくても)求めている人に、ちゃんと寄り添えるボトルがあるように、体温を感じられる記事もあるはずだ。

 

対多数じゃなくて、対個人のために、ひっそりと並べられる記事が、ひとつやふたつあってもいい。

人と文章が化学反応的に混ざりあう、そんな場をつくるメディアはどこにあるのか。そんなカクテル的メディアは、だれがつくるのか。

 

さいごに、問う。そのボトルは誰のためにあるのか?

 

おんなじ顔、おんなじ言葉、おんなじ行動

場所は、那覇、国際通り。カフェにいる。道路沿い、窓際で、街行くひとたちを眺めながら、手を動かしている。なんか似てるんだよね。それぞれ、右から左からやってきては、通り過ぎていく人たちが。

厳密にいうと、みーんな、違うんだけども、なんか似ているんだよね。同じような顔をしていて、同じような言葉(単語)を使い、同じようなところを目指し、同じような場所から出てくる。ちょっとこわい。

 

個性というのは、どこに行ったのだろう。いや、他人のどうのこうの言っている場合ではなく、自分の個性とはどこにあるのだろう。なんて、ことをお昼過ぎから考えちゃってる。不思議なかんじ。

そんなことを考えながらも、原稿の下書きを進めていたり、メールを送っていたり、手はちゃんと動いているわけだ。手が動いているのはいいのだけど、この手が「同じ」という画一化された方向へと動いていたら、と思うとちょっとゾッとする。

 

同じだということには、ふたつの可能性がある。自分の好きなものを集めて集めて、たまたま、隣の人と似たようなもんだったということ。これは、趣味が合う、感覚が合ういうところだろうか。うれしいパターン。

もうひとつは、それが自分にとってよいのか、わるいのかも考えることなく、あるひとつの偶像に向かって、集団でマネっこするもんだから、同じようなあんばいになる。こちらには、嫌悪感。

 

なんだかんだ、ひとつの、いや、ふたつとか、みっつくらいの「型」にビュビュッと向かっていき、スポッとはまろうとしてしまうのだろう。それは、自分の型(おそらく「場」とか「コミュニティ」に近いもの)がないと、寂しいから。

型が、わるいわけじゃない。自然発生的に、他人が当てはめるときは、よい気がする。ただ、意図的に、自分から当てはまろうとすると、薄気味わるいし、いやらしい。

 

うまくまとめることはできないけど、自分が「いい」とか「おもしろい」とか思ったものを、そのまま身に纏える、カタチにできる、堂々とだれかに見せることができるのが、カッコいいよね。

だれかの「いい」とか「おもしろい」を借りているうちは、「おんなじ」ばかりが蔓延ってるうちは、そこに自分の存在はあるようでないかのかもね。

 

まあ、かわいらしい子は、おんなじような雰囲気でも、かわいらしいよね。ただ、それだけじゃ、チェンジされてもしょうがない状況もある。ぼくは「チェンジ」があるようなお店に行ったことがない(一度くらいは、、先輩がた、ぜひ)

 

おもしろくない人をみつけた

ふと気付いてしまうと、ちょっと哀しくなることがある。それは、「ああ、自分って、おもしろくないよな。」と自分で自分という人間について感じるとき。

あの人はおもしろいなぁ、反対に、あの人はおもしろくないよね、みたいなことを、だれかに対してとやかくは言うけれど(言葉にせずとも思うけれど)、何より自分がおもしろくないって感じると、心底、ビビる。そして、焦る。汗タラタラ。

 

なんで、おもしろくないのか。それは、最近の自分を振り返ってみて、よーく考えてみると、ちょっとわかった気がした。淡々としているから。平たんな道をスーッと進んでいる。

ほんとは、ジェットコースターのようなアップダウンだったり、右往左往するような振れ幅のある進み方をしたいのだろう。それが、ちょっとした冒険もせずにきてるのだから、ああ、こいつはつまらんな、と感じてしまう。

 

そもそもなんだけど、おもしろくない時期というのは、こうやってブログで文章にすることさえも忘れていることが多い。自分に対しての“面白味”というのは、ストレスのない表現にもあるように思える。ブログは、ストレスなく、のびのびとやれているし、ここでの吐き出し感はやっぱり大切みたいね。

ブログがあっての自分で、それがあって、ちょっとは自分に対してワクワクできる。もっとこうしたい、こうできたらいいのに、を普段の仕事や生活のなかで閉じ込めているときは、つらい。つらいのは、そういったブログ(のびのび表現)を禁止してるからで、自分のつまらなさに面と向きあわないといけなくなるから。

 

ぼくは、人にどうこう(超勝手ながら)思うことはあるけど、人にどうこう思われようが言われようが、そんなのは気にしない。気にしたくはない。自分で、自分を、おもしろいと思えるか。そこだけを気にしたい。それができないと、世間一般でいう「おもしろい」物事をつくれないだろうし。一番のお客さんは、自分そのもの。

 

とにもかくも、最近の自分はおもしろくない。つまらない。なんかまとまろうとしている。枠にはまろうとしている。予定調和だ。えらく真面目だ。真面目なのは悪いことではないけど、方向性がズレている。

自分で自分を泣かしてやるくらい、ボロクソに、グサグサ、スパスパと言葉を刺していくこともたやすい。ただ、それをすんなり受け入れるのもシャクなので、抵抗したいわけで。その抵抗は、おもしろくなること、つまること。

 

びっくりするほど、自分で言葉にすると恥ずかしいんだけど、おもしろい人でいたい。「なんか読めない、読めないけどおもしろい、読めないからおもしろい」と自分で、自分に、驚きつづけたい。

 

救いは、超おもしろくない、いまの道の進み方に気付いたからかもしれないな。気を抜くと、淡々と、まっすぐ進んでいこうとする。くねくね行こう。

どんな道を進んでいこうか。どこでどう寄り道しよう。最短距離はもういいや。とりあえず、もう進む進まないとかでなく、恋の落とし穴にはまるとかでもいい。だれかズボリと落としておくれ。

メッセが「タスク」になるなんて、お既の読すぎる

メールって、本来はコミュニケーションのひとつだよね。そう思ってはいても、どうしても「作業」と捉えがちなんだよなぁ。これどうしたもんか。

データとして、必要な情報交換をしたりするんだけど、それだけじゃなくて、その人に対する思いやりとかをかたちする“場”だよね。きっと、本質的には。

 

ちょっと寂しくなったから、侘しくなったから、こんなことを書いている。そんで、Facebookのメッセすら、いまは「タスク化」してると感じることがある。メールどころの話じゃなくなってる。

スマホが「ピキーンっ!」となるのが億劫になるときがある。こっちのタイミングでやらせてよ、とかついつい思っちゃうことはあるよ。そりゃね。

 

メールも、Facebookも、追われるような感覚の「タスク」とか超つまんないよね。実際のところ。だってさ、よりよい関係を築いていきたいから、送信というボタンはそもそも押されるわけだし。

そこを煩わしく思ってしまうのは、自分の余裕の無さか、自信の無さか、軸の無さか。あるいは、相手の文章のぶしつけさとか、冷ややかさとかかな。文字には体温がないとな。

 

これは考えもんで、即レスがないと、人間的にダメとか、社会人としてカスとか、一切の弁解もさせずに、否定するような空気感もどうしたもんか。都会的だ。「既読」とかホント「既毒」。お気の毒なシステム。

時代とともに、「会って話す→手紙(歌)のやりとり→電話→メール→SNS」という風に、コミュニケーション手段は変化を遂げてきたのかな。とにかく、伝え方の種類は、増えてきた。

 

基本はさ、「会って話す」なんだよね。それだけで、埋め合わせれない気持ちとか、相手への思いやりを、手紙とか、電話やメール、SNSで埋め合わせるんだろうな。

SNSとかメールが第一になるって、なんか不自然。そこだけで、人間性を疑われるのって、なんか変。とりあえずは、まずは会ってみて、それから人となりをみてから、その人の文章を読みとったらとか思うんだ。

 

人間らしくあろう。本当の意味でね。デジタルでくらしてるんじゃなくて、アナログにくらしてるよ、ぼくらは。

アナログにくらすために、サプリメントとして、デジタルを摂取すべきなんだ、本来は。会って話すじかんを増やす努力しなきゃ。あ、デートしたいな(ご無沙汰すぎるや)。