倩兮女(けらけらおんな)はいないよ。

あんまり自己啓発っぽすぎることは言いたくないけど、物事は自分の心の構え方ひとつで決まってしまうことが多い。心(なのか、頭なのか)で思ってることが、時間をかけて、目の前で具現化されてしまうような。

失敗するなぁ、と思ってたら、やっぱり失敗する可能性はびゅんと高くなる。たとえ失敗が頭によぎったとしても、失敗しないイメージだったり、対策をそれなりに練っておけば、心は落ち着くし、場合によってはどしんと強気で構えていられる。そうやって物事はつくられていく(のだと思う)。

 

問題は、異常にビビってしまうこと。身体がこわばり、パフォーマンスが下がってしまうこと。なにかに怯えて、自分がやろうとしていることが、まわりに監視されている気分になってしまう。もっと大きく言えば、世間体ばかりが気になってしまう。

「それをやると、笑われてしまうんじゃないか?」「失敗したら、もっと笑われてしまうんじゃないか?」と、動きはじめる前から、心での迷いが生まれ、苦しんでしまう。笑いは、喜びの象徴に見えるけども、笑われる人からすれば、ただの恐怖でしかない。

 

「倩兮女(けらけらおんな)」という妖怪がいる。そう、言葉の通りなんだけども「けらけらと笑う女の妖怪」のことだ。シンプルでしょ。それだけだと、説明不適切かと思うので、もう少しだけ彼女(?)についてのお話を。

 

寂しい道を歩いていると、なんだか不安になってくる。なにか出るんじゃないか、とさらに心落ち着かなくなる。そんなときに、どこからとも聞こえてくるのが「けらけら」という女の笑い声。その声がする方向を振り向くと、大きな女がこっちを見て笑っているではないか。

びっくりして、慌てて駆け出すと、さらに大きな「けらけら」が聞こえてくる。ここで気が弱い人なら、気絶してしまうそうな。倩兮女の笑い声は、大抵その人ひとりにしか聞こえないから、倩兮女に遭遇した話を他人にすると、返ってまた笑われてしまう。

 

そんな倩兮女という妖怪の存在を知って、26年そこそこしか生きていないぼくが、自分の体験も踏まえて思うことがある。自信がなかったり、弱りきった心でいると、身のまわりのことに過敏になる。目には見えないなにかが、そこにひゅるりと入り込んでくる。

実際はそうでなくても、だれかが自分を悪く言っているような、罵られているような、笑われているような気持ちになってしまう。これは特定の「だれが」ではなく、「みんな」がそうなる可能性を秘めているだろう。

 

これはとても繊細な話ではあるけども、時折読み返す『ブラックジャックによろしく』の精神科編を読みながら、倩兮女という妖怪が頭に浮かび上がってきた。

真実として、“なにを表現するために生まれた妖怪なのか”はわからないけど、倩兮女は、鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』で描かれている。江戸時代から、そのように内気な人がいた、あるいは病として患っていた人はいただろう。あくまで推測でしかないけど、倩兮女はそんな人の象徴だったのかもしれない。

 

ここからは、いったん精神疾患の方は切り離して考えてみる。現在でも「なにかを気にしすぎたり、(錯覚のように)気にしすぎてしまう人」は多いだろう。いや、昔よりも増えてしまったのではないか。

まわりの目線や言葉に過敏であることは、言い方次第では、「自意識過剰」だし、「承認欲求」のあらわれとも言えるだろう。よく見られたい自分や、だれかに認めてもらいたい自分ばかりが先行して、現状の自分を汚せないわけだ。

失敗を恐れてなにも手をつけない人はあたり前にいるし、Facebookには俗にいう“リア充”あるいは“意識の高い”投稿ばかりが目に映り込んでくる。見栄えだけはよくしちゃって強がって、実際にはなんだか弱くて脆いその心には、やはり「けらけら」の声が響きわたっている気もする。

 

とね、ここまでだらだら書いたけれど、雑な言いようだけども、まとめると言いたいことは、ただひとつ。

気にすんな。そんな周りなんて、気にしちゃいけない。倩兮女はいないよ。倩兮女という“妖怪”はいるかもしれないけど、あなたや君をけらけらと笑う人はいない。

あなたはあなた、君は君、自分は自分で、やるべきこと、やりたいこと、やることを進めていけばいいじゃないの。反対に、まわりもガヤガヤと人のことばかりにチャチャ入れちゃいけないのだ。そういう輩も、自分に自信がないから、他人の足を引っ張ろうとするだけ。

だれも否定できるわけないのだから、もっと自分を認めたほうがいい、信じてあげたほうがいい、今はどんな姿であってもね。自分をもっと見つめて、そこで見つけたものを磨いていけばいい。よい意味で、自分の世界の中でくらしてみること、ではないだろうか。と思うのだ。

 

妖怪という存在を見つめることは、今と昔の人のくらしを考えること。世間を賑わせてる『妖怪ウォッチ』じゃこんなことは考えられないよな。「〜は妖怪のせい」と都合よく押しつけるんじゃなくて、「〜(現象)を妖怪という存在が引き取ってくれた」と存在理由を考えたほうが楽しいよね。

またなんかしら、妖怪について書こうかな。妖怪が消費的な存在になってしまうことが、なんとなく哀しいから。よければ、こちらもぜひ。「いなくてもいい存在をかわいがること|アパートメント」。

こんなに「妖怪」を連呼したのも久しぶりだ。でもその存在が好きなんだ。ちなみに、このエントリ書きながらずっと聴いていたのは、ハンバートハンバートの『蝙蝠傘』。特に意味はないのだけど、気分的に。