職業ライター、26歳で東京から沖縄にUターンしてみて、かんじた憤りや、学生への心からのお願いなど

東京から沖縄へUターンしてから早2ヶ月が過ぎた。那覇・浦添・宜野湾エリアを中心にうろちょろと動きまわっては、家にこもりながら作業をする、という生活をしている。そういうふうに動いてるなかで、縁もあってか引き合わせてもらえる県内の学生さんは多い。

ぼくは東京で学生生活を送ってきたので、余計に感じるのだけど、沖縄の学生はすこし違う。ほんと、純粋すぎる。そして、純粋すぎるうえに恐いよなと思うわけだ。穢れのない白いキャンバスには、どんなことも描き入れることができる。そこに付け込むわるい大人もいるわけで。

端的に言うと、沖縄では、きれいごとをいう大人が、しごとを通じて、学生を囲い込むという現象が起こっている。そう、彼らが言ってることは、ほんときれいごとなのだ。言葉がきれいでも、実際にやってることはきたない。中身がない。「マルチに引っ掛かってるなぁ」「アフィ系だ、こいつは」と、正直言わせてもらえば、イケてない大人のフォロワーになっている学生が多すぎる。

「すばらしい人生」「カッコいい生き方」「新しい働き方」だの、きれいごと(多用するとクソださい言葉だと思うんだけど)で、しょーもない内容に学生が引っ張られるのには、理由がある。それは、良くも悪くも沖縄が狭いからだろう。そして、狭いゆえに”いろんな”大人が少なく、そういう大人との接点が少ないのだ。出会った大人がひとつの社会規範になってしまう。ほんと恐いよ。

東京から沖縄にIターン移住した知人と話していたときに、ぼくはハッとした。「沖縄の女の子は、ほんと純粋だ」ということ。その理由を彼なりに分析すると、東京はいろんな男性との接点が多すぎて、悪知恵がつくのか、いろんな男性のなかから選りすぐって、彼氏なのか愛人なのかを決める。選択肢が多いからだ。

その話を聞いて思ったのが、やはりモデルにできる大人の種類が少ない、選択肢が少ないのが沖縄の学生が、わるい大人にはまる原因だな。残念だなぁと。ただでさえ、物理的に他県からの情報が入りにくいのにね。Webから情報を得るというリテラシーも全くないのにね。

だから、学生を食ってかかろうとする狼的な大人に、スッと食われてしまう。純粋すぎるがために、赤ずきんちゃんのように疑うことをせずに、悪い流れに巻きこまれてゆく。一生はそれなりに長いので、そこでバッドエンディングではないけど、時間も体力もあって、なにものにも染まりやすいその時期をわるい大人にそそのかされてる学生をみてると心がチクチク痛む。

その反面で、きれいごとばかりの、ダサい大人をなにも疑わずにスゴイスゴイとすぐに付いていっちゃう学生は、ほんとアホだよなぁ、とも思うわけで。ぼくもアホな学生代表だったと思うけど、それ以上にアホだと思っちゃうのよね。彼らはスゴくないから。そんなんすぐに追い越せるから。知らないだろうけど、クオリティは実際めっちゃ低いよ。

ちゃんとフォローする大人を考えようよ。そんで、フォローする相手の信者になっちゃだめだよ、どんなことがあっても。半信半疑が絶対に大切。そして、おもしろい大人はもっといるから。君たちが見えてないだけで、見ていないだけで。井の中の蛙じゃないけど、今いるところから飛び出してみればいいじゃん。

それと、もうひとつ。沖縄がずっとながらく患っている病気を治療していけるのは、若い人たちなんだよね。権力と金にがめつい、勉強すらしない老いぼれという“ガン”を取り除くには、やっぱり若い人のエネルギーが必要不可欠。今、そういう嫌ぁ〜な、きたない大人の思惑と戦っている、数少ないおっちゃんおばちゃんたちもいて、そこに協力してまともに加勢できるのは若い人。だから、どこに自分のエネルギーを注ぐのかは選んだ方がいいよ、まじで。

ぶわぁーーっとつらつらと書いたけども、発散させるかのように書いたけども、これは沖縄の大きな大きな問題なんだと思う。お金にくらんだわるい大人が沖縄を行き来させちゃいけない。沖縄にいる&沖縄の外にいる、もっとおもしろい大人との接点をつくれないか、と頭で汗をたらたら(それなりに)かいてるわけです。

近況報告と、なにかアイデアがないものか、学生ちゃんと読んどけよ、とみっつの想いを込めて書いておいたよ。何度も言うけど、ぼくのエネルギーは(&このブログは)、基本「ずるい」「いらいら」「おもしろい」という感情だから、そこんとこ、よろしくお願いいたします。

 

親を越えられない人たち

沖縄というところは、とことん特殊な場所だなぁと思う。わりと若い人でもずっとずっと沖縄にいて、外に出ない、という人がいるから。それはもちろん、他県のように土地続きで県をまたげる地理ではなく、海を越えなくてはならないという物理的な理由があるから。

沖縄を出られるタイミングは、ほとんどが高校を卒業するときだ。専門学校や大学から県外に出るという選択(ぼくはここで上京した)。もうひとつは就職を機に。人によっては転職や転勤がきっかけでいうこともある。ただここで、気になることがひとつ。

なぜかしら、県外に出ない人の理由として「親が許してくれないから」というのがある。これってほんとなに?なんなの? こればっかりは理解しにくいなぁ、と思うわけですよ。

もちろん、金銭的に負担も大きくなるし、身内の体調の問題など深い深い理由はそれなりにあるはず。だけど、親が許してくれないということを大きな理由にするのは少し話をすり替えてないか?と。自分が出たい、外を見たい、外で学びたい遊びたいという気持ちがあるなら、それをさ、「親」で言い訳にしちゃいけないよね。

高校のときの担任が、進学を決めるタイミングでこんな話をしてくれた。やっぱり沖縄の場合(わりと、田舎はそうなのかもしれないけど)親が県外に出るのを反対することは多いから「ほんとに出たいと思ったら、まずは親をちゃんと説得しなさい」と。つよく言われたのを鮮明に覚えている。勉強よりもなによりも、人生で一番最初の壁ってじつは親で、そこを越えられないと突き破れないものをある、と考えさせられた高校2年生。

で、やっぱり進学のときに親の壁を越えられない人って、数年経ってからの就職のときもまったく同じで、仕事での命令がないかぎりは外にでない。いや、出れないんだろう。尻込みして。親を言い訳にして。

実家を離れてみて、県外でいろんなものひとことに触れて、沖縄を外から眺めてみて、見えてくるものめちゃくちゃあると思うんだ。無理強いして「出ろ」とは口が裂けても言えないけど、外に出たいなら“親を説得すらできない”という情けない理由で動かないのはほんとにやめていただきたい。井の中の蛙状態の若者が増えると、沖縄はもっとバカになるから。

親は肉親なんだけど、実は他人だよ。その他人に応援されるようにしないと。親と子という関係は変わらずに、他人というひとりの人間としての付き合い方もできなければ、親を越えることはできないと思うわけ。どこで他人として、彼/彼女といい関係性を築けるのか、きっと試されてるよ。

さいごに、話それるけど、沖縄の外に出ない理由として「地元が好きだから」というの、ほんとのほんに止めて。地元が好きなら、余計に外でてみて比較したほういいし、外から何か持ち帰ってきたほうが、その「好き」の思いをかたちにしやすいだろうから。できない理由より、まずはできる理由考えようよ。なんくるないなさぁなんくるないさぁばっか言ってないで。観光街に並んだシーサー達の表情もゆがんでる気がするさ。

 

魔法にかけられて(願望)

TVをみてると、いやみてなくも(最近はネットでも)最近は子役で活躍している子がたくさん登場する。タレントとまでいかなくても、〇〇の天才児、神童と言われる子どもがひっきしなしに出てくるのがメディアなんだよね。みんな、そういう話はやっぱ好きなんだろう。

で、そういう子どもたちをみてて、すげぇよな、と素直に思う気持ちはぼくもある。けどそれ以上に、そこでその分野で活躍してるけど、ほんとのほんとに子どもは望んでることなのか?というクエスチョンマーク。だって、結局は親とそのまわりの大人のプロデュース力がものをいう世界な気がするから。現実としてさ。

そういう子どもは「将来どうなりたい?」と聞かれたら、だいたいが「こうなりたい!」という像を持っていて、それをインタビューでずけずけと答えている。けど、それってほんとかい? なんだかんだ大人に刷りこまされてるんじゃないかって。思惑の真只中にいやしないのか、と。

ぼくは、子どもの「やりたい」が具体的になっていることが正直こわいし、あまり信じられない。ひくつな大人かもしれない。ただ、もっと子どもの「やりたい」気持ちって純粋な気がするんですよ。「仮面ライダーになりたい」とか「プリキュアになりたい」とか突拍子も無くなりたいものがあって、「食べたい」「寝たい」「触りたい」と本能から訴えるような、好奇心から生まれるような「やりたい」とかならものすごく分かるんだ。うん。

それが「〜のような立派な役者さんになりたい」とか言われると、はいマニュアルね、と思っちゃうわけ。でも、そうでしょ。おおかたは。子どもの「やりたい」は非現実的だからいいのであって、夢があるのがいいのであって、だから純粋無垢なわけで、何色にも染まってなくて。現実的な「やりたい」が口にされたとき、ぼくは大人の汚さを感じてしまう。信じがたくなる。

どんな名子役でも、天才児でも、やっぱり子どもだよ。だから、現実的な、大人がまざるような場所に幼いうちから無理くりつっこませちゃいけないとぼくは思う。だって、そういう子たちは早いうちから名声をつかめるのだけど、多分本人たちはその現象にあまり興味なくて、ニコニコしてるのはブランド意識の高い大人たちなのだから。

普通の子たちよりも抜きん出てるからといって、普通の子たちよりもはやく魔法を解くのはやめてほしい。そんなことを思いながら、子役の活躍を遠目からジッと、ぼくは眺めている。

「意識高い」の正体とは

なぜだか信用ならんよね、意識高すぎる人ってさ。とても高尚なひとたちだなぁとは思うんだけど。というのは、すっごく意識高いなぁ、ほえぇーとなるような人がぼくのまわりには溢れているから。ほんと、うじゃうじゃいるよ。

意識高い人に対して感じてしまう(そう感じたいわけではぜんぜんないのよ)違和感および気持ちわるさってのには、きっと正体があると思う。こういう人が意識高いよね、というだいたいの傾向はやっぱりある。なにが意識高いことなのかは、時代の流れで変化してる。もっと言えば、定義がそもそも個人で異なるわけで。

確実に言える、ぼくが見つけた(気持ち悪さを感じる)意識高い人の傾向として、「他人/社会のため」っていう口癖がある。自分よりも他人、そして社会、すごいよね、彼らは。どこかに偽善性があるような、そんな気がしちゃうのが今回のクレーム。

その偽善性を感じる根っこは、幼少期にある。子どものころに持っていた、誰よりも何よりも、自分だけがよくなりたい気持ち。他人もまず自分という。これがある意味、自然なことだと思う。

あの頃は、他人とか社会とかそんなノイズは一切考えずに、120%以上の好奇心だけで、動き回っていたわけだよ。それで、自分が一番なんだけど、なぜかその姿をみてる親たちも笑顔で巻き込まれちゃう構造があるかんじ。こういうのがいい。

自分が楽しんで、他人にも楽しんでもらう、というスタンス。自分の好奇心からはじまり、それを他人の好奇心とつなげる。点と点を結びあわせるように。それを動きに、社会的なこと、仕事につなげていく。のが、人間の欲求にも素直さを感じる。

偽善性の話に戻るけど、意識高いと感じちゃう人は、自分の欲があまりにも見えなすぎて嫌なんだ。自分が先にこず、いきなり、他人とか社会にいくのってなんだかこわくないすか。こわいよ。なんだか、だれかわるい大人にそそのかされてるようで。

だから、(最初にすっと言えばいいだけなんけど:18番のだらだら芸です)、まずは自分でしょ、と。まず自分に根づいた感情からはじめようよ、と。言ってることもやってることもきれいなのはわかるけど、どこかに体温を感じないから、そういうのやめようよ、と。すり替えるのはさ。

そして、自分以外に「~のため」と理由付けをするのは、むずかしいことのようで、実は簡単なことだからね。自分の好奇心からはじめて、それを他人と、社会とどうやって散らばった点をつなげて線にするかのほうが、ずぅーーーと頭使うんだから。汗かくんだから。楽なほうに行かないでおくれよ。

自分のためになにかをしてないと、どっかの瞬間にふと心が空っぽになるんじゃないか、とそんな心配をぼくは超勝手にしている。ちなみに、ぼくは、ぼくに対しては、意識は高いとも低いとも言えない。とりあえず、こいつは、意識がなんとなく「ある」だけの奴なんだろうなぁ。そんなわけで、意識高い人からはたいてい嫌われちゃうから、すこしは抵抗をね。でも……もっと嫌われるんだろうな苦笑。