ないちゃーという言葉がきえる日

ぼくは、違和感というのを大切にしようと心に決めている。違和感がなくなったときは、自分が死ぬときだな、というくらい呼吸にずーっと付きまとう、いや、もうむしろ可愛がってやりたいくらいの感覚が、違和感。よいものわるいもの、いろんなタイプの違和感があるんだけど、ぼくは特に言葉に対するそれが多い。沖縄には「ないちゃー」という言葉がある。

沖縄の人は「うちなーんちゅ」で、本土の人は「ないちゃー」。そう、ないちゃーは「沖縄の外の人」のことを指す。沖縄の人は、沖縄の外を「ないち / 内地」と呼ぶんだけど、それを英語みたく(fishに-erがついてfisherとなるように)人のかたちに変えたもの。ぼくは思うんだけど、ずっと思い続けてきたんだけど、この言葉がまちに溢れているうちは、沖縄の未来はあかるくないなぁと。

初対面で、沖縄の人はすぐに「あんた、ないちゃーね?」と聞く。いったいなんの確認なんだろう。外からきてたらなんなのか、なにが変わるのか? そうは思うものの、移住者はおろか、観光客まで聞かれるくえすちょん。実際に、沖縄のひとは、ないちゃーと知るとすこし身構えるふしがある。実際に、なにかが変わっている。

ウチの人、ソトの人と分けることで壁をつくる。大げさかもしれないけど、まるで西と東を隔てたベルリンの壁のよう。これは、みえない壁なんだけど、うまくコミュニティ(くらしとしごとのテリトリー)を分断している。そして、壁をつくってる側なのにその存在に気づいていなかったり、それがあることが問題だと考えるひとも少ない。

「ちゃんぷるー」という言葉も沖縄にはある。これは「混ぜること」。よくゴーヤちゃんぷるーとかソーメンちゃんぷるーとかご当地グルメにあるけど、そこにも使われてるから、わりとメジャーなのかな。こういう言葉があるわりには、沖縄はあまりちゃんぷるーされていない、地元の人と外からきた人が。だから、なんか、味にかたよりがあるんだよなぁ。

この島にずっと根ざしていたから知りうる文化と価値観が、外からやってきた知恵や技術とちゃんとタッグを組めれば、新しいものを、なによりも新しい関係性をつくれると思う、せつに思う。

歴史をながめれば、なぜ外からくる人を恐れるのか、けむたがるのか、というのはその時代を生きていないぼくでもちょっとは察しがつく。けども、沖縄に昔っからある本当にいいものを残したいなら、そのために変化をつくりたいなら、受け入れる姿勢はあったほうがいいよねと。でないと、お金にきたない、ほんとに嫌なタイプのないちゃーに島を侵略されちゃうよ。

言葉がもつ無意識的なちからはとても大きい。ぼくらの想像以上に。「ないちゃー」という言葉が、壁をひっそりとつくっているなら、その言葉がなくなる日はいつやってくるんだろうな。ほんとの意味で、ちゃんぷるーされるのはさ。きれいな海、リゾート、南国、などと、うかれてるだけ(うかれさせてるだけ)ではだめなのですよ。沖縄は。あーモヤっときたから、タコライスたべたい。

すぐ才能のせいにする人

 

全エントリで、「失敗」について書いたけど、なんとなくまだ絞りだせた気がしないので、引き続いて書いてみようかな。なんだろ、このしこりのようなものは。

ぼく自身、失敗というものを出会うと(というか、自分で生むだけ、やっちまうだけの話だけど)、「やっぱりおれに才能はないのか……」と弱気になることもある。ほんと絵心とかないんだ……。

文章を書くってことだって、毎度毎度、後から読み直してみると、ぎこちなさというか、欠落したなにかを感じる。ただそれでも好きなことだから続けるし、慣れていけば、それなりにましになっていくもの。反復でしかない。

で、よく思うことだけど、なにか「自分がやらない理由をすぐ才能のせいにする人」っているよね。すぐに、私とあなたは違う人間だからしょうがない、と一線を引いちゃうような。違う人間ではあるんだけど、そうなんだけど、ちょっと違う気がするこれは。

あの人は天才だから、とすぐに片付けたりすることは、実は、失礼なことだよな。世間一般的に「天才」と呼ばれる人たちだって、ひとつのことに膨大な時間を費やして、失敗を繰り返して、汗たらたら流して、偉業を達成させたはずだから。

なのに、これまでやってきた過程を見ないで、目の前の結果だけをみて、天才だから(才能がある人だから)と一言で片付けるのはちょっと違うよなぁ。天才と褒め称えているようで、敬意がないというか。に加えて、それを自分がなにかをやらない理由にこじつけちゃうなんて尚更ね。

そう、“選ばれしものとそうでないもの”みたく、おれ/わたしは才能ないからなにもやりません、って人はけっこー多い。けどさ、こういうのもあるんだよ。天才という言葉に対して「地才」という言葉もさ。地才は、ざっくりと、先人たちの知恵やつくってきたものを学んで、それらを組み合わせてなにか新しいものをつくりだすような才能のこと。たくさんのケーススタディから生めるものがあるよね、とぼくは解釈した。

才能はそだてていくもんだ。種を蒔いたばかりのところで、すぐにあきらめちゃうのはもったいない。ちゃんと、水を遣らなきゃ、そだつもんもそだたない。だから、すぐに才能がうんちゃらじゃなくて、ある程度は(の時間と質と量に触れてみて)見守ってみる気持ちも必要じゃないか。ほんとのほんとの才能のかたまりのよう人(天才)はきっとごく一部だよ。

ちゃんとやることやっていれば(反省と反復)、それなりには技術は身につく。その技術をどう組み合わせていけるかのほうが大事だよねきっと。自分が才能あるのか、って頭だけで考えてなんもしないよりは、才能あるのかを試すために、ちゃんと手足を動かして、ある程度はそこに浸かってみたらどうだろか。もちろん、それは理不尽な我慢をすることとは別の話だからね(その話したらさらに長くなるから、またどっかで)。

あきらめられない才能、あきらめた才能、あきらめつつある才能、これってぜんぶ、やってみた人(水を遣ってみた人)が言葉にするから意味があるんだろうなぁ、ピリピリと想像している。そういえば、こんな話してたら『花さか天使テンテンくん』を思い出した。ついでに『植木の法則』なんかも。こりゃ全巻読み直しだな。

小さく失敗してみろよ

自分で言うのもなんだけど、ぼくは失敗してばっか。例えば、小さいところでいうと、この3年間でブログなんてのも、立ち上げたものの全く更新していない…….という駄ブログをいくつもつくってきた。どうやったら自分が書きやすくて、続けられるブログができるのかなぁ、と失敗ばかりみつめてきた。そうやって、今もブログと付き合ってるんだけど、昔よりはよくなっているつもり。最初はほんとにてんでダメだった。

ここ1〜2年で学生と話をする機会がめちゃくちゃ増えた。意識が高い学生がわりと多いのだけど、もちろんそうでない学生もいろいろと。「なにかやりたんですよねー」と漠然したものから、「ブログやってみたいんです」「ライターに興味あるんです」という話まで、なぜかちゃらんぽらんなぼくにしてくる。ありがたいことではある。

で、いろいろとぼくなりに頭の中で汗をかいて、言葉をおくるんだけど、そういう学生たちが後々なにかをしたという便りをあまり聞かない。話を聞いて終わりで、次、につながっていない。ぼくの話した内容、つたえ方に問題があった、という可能性は多いにあるけど、いっかいそこを抜きにして思うことを書こう。

そういう学生の傾向を自分なりに分析してみると、想像していることが、いきなり「起業するんだ」「世界を狙うんだ」と大きめのことだったり、「ハウツーさえ知ればすぐにできるんじゃないか」ときれいごとばかりだったりする。「失敗する」ということ、「小さくはじめる」という前提が欠けているように思うんだよね。

おまえら、成功者の明るーい部分だけを見過ぎだよ。泥くさい部分すごくあるよ、きっと言わないだけで。そんで、成功している人のほとんどは、それ以上に失敗してるし、いろんなことに挑戦してるから。アプリ関係だとUberの話をしてくる学生がいたけど、あの代表だって3度目の起業でヒットサービスをつくった。孫正義もかなり煮え湯を飲んできた人だという。

失敗という暗い部分をあまり見ない学生が多いのはなんでだろう。意味がわからのよね。失敗は大前提だよ。そして「トライ&エラー」で小さいことすら挑戦しないし。失敗しないために、先人の失敗例を学んでリスク回避しようとしても、やっぱりは失敗はどっかしらある。そうやって、自分自身で失敗を体感しているという学生は少ないよなぁ。

だから、思う。まずはやってみろよ。小さいことからでいいからさ、失敗してもいいから。というか、むしろ1回といわず何回も失敗しろよ(他人の不幸を願うわけでなくね。)3割打てるだけでも、すごいんだから。失敗は恥ずかしいとか、それ小さくてカッコよくないとか、言うけど、まずはsmall startでerrorを想定しながら、やりなよ。どんなにガーンと下がりに下がっても、死ななきゃいいし、まだ20代だからどうにでもなるでしょ。また挑める。

とにかく、かたちをつくろう。だれかの目にちゃんと映るようなかたちを。こういうのやりたいんですよー、と形がみえないものじゃなくてさ。ライターやりたいっていうなら、話をしてくる前にブログとかやっとけよ、こういう文章書いてるんです、っていうのがわかるやつ。

と、ぐだぐだ書いたけど、自分もやらなくてはと気合いが入る…….自戒をこめて……といのは全くなく、とりあえずは、小さい大きい関わらず自分の好奇心に素直に、たくさんの実験ができたらいいのかなぁ、と思うや。そら失敗はするわ、けど失敗しないように、失敗のなかでかしこくなってけばいい。と言いつつも、なんで毎回同じような雰囲気をもった女性に惹かれるんだろなぁ、と思うので、だれかこれを叱ってほしいです(できるだけ女性がいい)

 

いい子は、わるい子

だれかと話をしてると、「あの人、いい人だよね」とフレーズが出てくることがある。ぼくは、この「いい人」がとてもこわい。少なくとも、いい人と自分は言われたくないよなぁ、とその度に思ってしまう。いい人は言われた時点でいろいろなものを失った気がしてしまうのはぼくだけだろうか。

その流れで言いたいのが、いい子(女性)がこわい、というか、苦手だということ。ぼくの苦手発言はいまにはじまったわけでもないし、苦手を糧にどうにかくらしている気もしなくはない。話は逸れたけど、その子がいい子なのは分かる。悪気もないだろうし、それでもだめなんだ…….分かってもらえるのかなこれ。

いい子には二パターンいると思うだよね。ほんとはちょっとクセがあるけど、周りの目を気にすぎていい子から脱せない、なんだか煮え切らないタイプ。もうひとつは、ド天然で根っからのいい子。穢れを知らない、素直すぎてすぐに騙されちゃいそうなタイプ。そう、そのどちらも苦手だ。大事なことは二度言うんだ。

自分の見られ方ばかり気にしてずっと殻にこもってたり、ひとつも疑わずに見た目や言葉をそのまま受け取ったりだけど、そんな繊細で無垢で純粋すぎる彼女を守ってあげたい……とは全くならないわけだ。いい子、いい子なんだけど、なんかわるい子だなぁと思える。矛盾してるようだけど。

ちょっとまがってたり、ひねくれてる、ピンと張ってない性格のほうが安心する。なんかいいな。むしろ、こっちのほうが自分に対しては正直だったりして、実はいい子なんじゃないかって。まあ、かわいい子も苦手なわけだから、かわいくていい子とかまじ無理だわ。ぼくの女性関係は、もう詰みはじめている、そんな気がする。まだ26歳なのに……。どうしようもう夏が終わる。

 

 

それはね、ググらなくてもいいこと

ググれるんだからググろうよ、とおっちゃん世代(さらには、地域に携わる人)に特に言いたかったので、この前書いた。でも、逆にのケースもある。ググらなくてもいいことを、すぐにスマホとPCに頼って、画面にはり付く人たちがいる。おい、そこの若もの、都会っ子、そんなん調べなくていいで。

近くにいる人に聞けばすんじゃうことってあるでしょ。例えば、どこどこまでの道とか、電車やバスの乗り継ぎだとか、わかりにくい知識アイデアとか。へんな人見知りを発揮して、目の前の人に聞かずに、すぐにフリックしはじめる。これってもったいないし、非効率だよな、と思うのよ。

わかる、超便利だよね。Googleマップも使えばたいていどこでも行けちゃうし、Yahoo路線とか必須とも言えるサービスだし、wikiで概要はつかめちゃう。けどさ、それだけじゃわかりにくいこと、イメージ湧きにくいことだってあるでしょ。そういうのは聞いちゃえば、会話すれば一気に解決するから。

新宿で仕事していたとき、外国人観光客やおばちゃん’ずによく道を聞かれた。彼ら彼女らが、よく駅員さんに乗り方を聞いてる姿を目にすることもある。知らないことあるなら、素直に知らないから教えてと詳しい人に聞いたほうが納得いく回答がもらえるときもあるよね。なんだろう、男の人はプライドが高いのか、特に若ものよ。

テクノロジーには光と闇の部分があるけど、「ググる」ことの闇を先にあげると、コミュニケーションの機会損失につながる。そんで、場合によってはそれが非効率になるときもある。だれかとだれかをつなげるひとつの手段として、「わからないことを聞く」というのはあるからね。

もし聞かれたときに、自分の知らないことや場所、ハウツーだったり、あるいは言葉が通じないとき、すぐに断るんじゃなくて「ちょ、ちょっと待って下さい! 調べてみますね」と彼らの代わりにググってみて、解決へと向かっていく。これはテクノロジーの光の部分だと思う。そういえば、グーグル音声検索の動画CMはまさにそれを示していた気がする。

だれかと共通理解を深める、アイデアを練る、ひとりでも学ぶときは、ググることは大活躍する。もうヒーロー。逆に、知らないこと(場合によっちゃ、敢えて)聞くことで、スムーズになる物事や関係があるならググらずに、目の前に人に聞いちゃえよ(もちろん、だれかに聞くときに、ある程度は先に調べとけよってときもあるんだけど……。)

画面から目を離してみないと、見えないこと、気付けないこと、出会えないことはたっくさんあるだろうから。基本はね、ネットより、リアルのほうが大事。これは真実で、真理。人見知りであったとしても、恐そうだな、と思って聞くのがおっくうでも、案外やさしい人のほうが多いと思うよ。思い込みは「ちょっとすみません」の一言ですぐ塗り変えられる。

そういえば、「ちょっと好きだなと思う人がいたら、知ってることも知らんぷりして、その人にいろいろと聞いてみて距離を縮めるんだ」と恋愛の手のうちを教えてくれた女性がいたけど、あれは聞いててすこし笑ったなぁ。うん、たしかにそういうのもあり……なのか?

 

女のかわいいを、おれは信じない

話がずれることがよくある。「誰がかわいいのか」について女性と話をすると、たいてい話がずれる。ぼくがAさんがかわいいと思っても、Bさんがかわいいと言う。感性の問題だからそんなもんか、と思ったりはする。

けど、男女間においては、あまりにもズレることが多いのは不思議だ。もうひとつ言うと、共通の知り合いの女性について話をすると「かわいくない」の単語が出てこないこと。あれってなんだ。

女性の「かわいい」という言葉を、ぼくは信じない。だって、女性はすぐに「かわいい〜」って連呼するでしょ。ほんとにそう思ってんかよ、と感じちゃうよ。使われる頻度が多いほど、その言葉の価値って下がる。一日何度も何度も「愛してる」なんて言われたら、怪しいすぎ。結婚詐欺かなんかか。かわいい、は胡散くさい。

あと、ルールというか、マナーなのか、かわいいと言わなければいけない暗黙のなにかが女性同士の関係に潜んでいるようにも見える。女子会というか、あーいう集まりの女性同士の話を聞いてると、「こんにちは」「ひさしぶりね」の代わりにかわいいを浴びせ合う。“かわいい教”かなにかか、あんたたちは。

おそらくなんだけど、男性に対しても女性に対しても「かわいい」と投げる女性って、どっかに「わたしの方がかわいいけどね」とう含みを持ってると思うんだよね。「Cちゃん、ほんとかわいいよね!(わたしの方がかわいいけど)」みたいな。そんで、その人は対してかわいくない。だって、優劣をつけようとするから、性格もぶさいく。

女性同士の会話はだから嫌なんだ。かわいいと言い合って、けなし合ってるから。そういえば、「あの子かわいいよー」というおすすめをしてくる女性もこれまたいるんだけど、黙っとけ、と思う。かわいいかどうかはこっちで判断するわボケ。

いろいろ言ったみたけど、どんなに言葉の「かわいい」を疑おうと、見た目の「かわいい」には疑いがない。かわいい子の容姿だけはすぐ受け入れる。多分、男はバカなんだと思う。

 

市長さん、コピペはだめだよ

学生時代にwikipediaの使い方については、さんざん言われたのを覚えている。あたり前なんだけど、論文でwikiコピペとかやっちゃだめだよと。こっからだろうか、コピペへの警戒心が生まれたのは。最近のバイラルメディアに対する違和感も、きっとここからだと思う。選んで並び替えて価値を付け加えるキュレーションはいいけど、ただのコピペはどうなの、っていう感覚だ。

ところで、ぼくは地方都市にむなしさを感じることがよくある。それは、東京にあるような建物、仕事、文化などのスタイルを猿まねしているだけの場所をみつけてしまうとき。コピーペーストされたような町づくりがされているとウワァァとなる。しかもクオリティの低いコピペをみかけたら余計に。

大手会社の支社なども、地方都市にあることが多い。東京に合わせて歯車が動いていくせかせか感は、なんだろうなぁと思ってしまう。地方都市のような中途半端な都会でそだった子どもは、中途半端にいなかのくらしや自然の雰囲気も知らずに大人になっていく。なんだかそれはもの寂しい。地方のよさってなんだろう。

沖縄でいえば那覇が地方都市にあたるけど、この場にいると、前述したことをつくづくと感じる。特に「新都心」と呼ばれるエリア。もともと米軍基地があったんだけど、撤去後に、高い建物が建ち並ぶ淡々とした場所となった。生活するぶんには便利だけど、違和感だらけ。ちなみに、おばぁに話を聞くと、このエリアは戦時にたくさんの死者が埋められたとのことで、おばぁおじぃ世代はあまり行きたがらないらしい。

地方にいる人からすれば、大都会への憧れがあるのはわかる気がする。それは自分が上京した理由に重なる部分もあるから。だけど、そこじゃない気がする。地方でやるべきことは、お土地柄と共存しながら、昔ながらのもの、独特のものをうまく生かした町づくりじゃないかなあ。

だから、コピペはだめだよ。市長なのか、自治体なのか、どこが主体なのかはわからないけど、都市計画を担う人はさ、どっかをまねるだけで、土地との相性を考えないままに、新しいものをつくろうとするのはやめてほしい。どこでもできること、どこでもつくれるものを、敢えてそこでつくる意味を考え直してほしいよな。まったく。まずはよいキュレーターでいておくれよ。

 

ふざけんなよ、そこのかわいい人

おそらく、だれにでもいるんじゃないか、苦手な人。もう天敵でしかない。25年ほどの短い生涯のなかでも、仲良くなれる人と、そうなれない人を、初対面の一目で見分けられるくらいにはなった。不思議なことに、人間は、自分がえらく過敏になっていることに対しては、特殊な力を発揮するみたいだ。

「人から好かれるのがあたり前だと思っている人」っているけど、あーいう人はそもそもが仲良くなれるタイプではない。なんか人との関係性を築く大前提が狂ってる気がしちゃって、やっぱり苦手なんだよな。自分がやること言うことぜんぶ、あるいは自分のスタイルや考え方、もっと言えば容姿にまで、好感もってもらえるのが当然で、なんでやねん、の一言につきる。

きっと昔からちやほやされてきたんだろう。大切にそだてられたんだろうし、挫折をさせないようさせないように細心の注意が払われてきた親心までみえる気がする。そう、それがために、ありとあらゆるものが整っている人なんだろう。

「人から好かれるわけがない」を基本にしている自分としては、やはり理解しがたい存在だ。ものごとは、プラスからじゃなくて、マイナスからはじまるのがあたり前で、だからこそ、下手にでる姿勢から人に対するマナーを身に付けていくもの。それをギュギュッと心にしまって、ぼくはこれまでをやってきた。調子にのってはいけないと。

だから「ふざけんなよ」と思うわけ。好いてもらうのがあたり前だ? はやくどっかでその鼻をポキッとへし折られて、もっとましな表現力とか、発想とかを身につけてみろよ、と、くろい言葉ばかりがひっきしなしに頭に浮かびあがってくる。大学時代は、そんなことばっかり考えたなぁ。今でも、かわいい/きれいな人をみかけると、すぐ“どす黒”スイッチが入ってしまう

へんくつな人間でしかない。もはや、自分のやっかみでしかないことは認めるけど、それでもあの妙な自身に満ちた態度はいつみても苦手だわな。男性だったら最悪、女性ならかわいかったりきれいだったりはするから「性格悪いだろうな、こいつ」と心のなかで罵声を浴びせながらも、自分の目の保養をしながら、彼女らのエネルギーを吸いつくすという暗黙の抵抗をしています。

 

ああ、ググらない大人たち

ぼくの話は「ちっちゃいいらいら」からはじまることがほとんど。なんで調べないんだろう。分らないものがあったり、知りたいことがあれば、「検索する」という手段があるのに、なんでやらないのか。なんでもだれかに聞きゃいいってもんでもない。プライベートだったら、ハハハで済むんだけど、しごとというか真面目なシーンでもそれをしない人たちってなんのか。特に、そこのおっちゃんたち!

ぼくはwikipedia好きだ。真実かどうか怪しいとかいろいろと言われるけど、ものごとの骨組みをつかむのにはとてもいいものだと思う。大学時代もゼミ教員のおじさまから「まずはリサーチからだよ」と言われてたのが今に効いてるのか、たいていはまず調べる。「ググる」という言葉はいつまにか世間に出てきていたな。

調べることができるってのは時代と文明の恩恵だから、それは使ってなんぼだと思う。特にぼくなんか若造は経験が足りてない部分を、ちょっとは知識で埋めていくこともできるし。少なくとも、昔よりは学習環境は整っているのは間違いない。それと、調べることができるからこそ、コミュニケーションがなだらかになりやすい。

会話をするなかで、片方が知らないものが出てきたときに、イメージや内容をディスプレイを通して共有することができる。あーこういうものか、という感覚がつかめないままに話が進むとモヤモヤが溜まることがあるけど、これは回避できる。話に関連すること(資料)も調べられるし、ブレストするなら超便利。

単純にだれかに新しいものを教えるとき、プレゼンするときに、全くなにも用意しないで「これって知ってる?」と言わないよね。その知ってるかどうかを、共有するときにググったものを軽くみせるだけでも、全然違うよねって話。

だから、だれかとがっつり話すとき、ミーティングであれば尚更だけど,スマホ/パソコンは必須でしょ。いじっててなにが悪いんだろう? 知らないことをだんまりと、なにもしないまま聞いてるだけとかつまらんわ。今だとfbでもなんでも、リンクシェアできるから、物事の共有と理解は進みやすい。それがあって、新しいこと、楽しそうなことについての話ができるのだとも思う。

基本的には、だれか話すときも、だれかと案を練るときも「井の中の蛙」状態に陥ってると思いながら、「ググる」を基礎スキルにして、その場のものごとが進んでいくといいなぁ。

特に言いたかったことを最後に。地域づくりに関わるならさ、ケーススタディはしといたほうがいいよ絶対。だからまずは調べようよ、おっちゃんたち。あ、あとわりと学生もそうだよ。というのをはじめると長くなるから、またどっかで。ぼくは無名のグラビアアイドルを雑誌で見つけたら、とことん調べまくるけどね。ブログとか2ちゃんとか。

尻軽なひと

みんなで集まって、わいわい話をしていると、「それおもしろそう!」とわくわくするアイデアが出てくることがある。「〇〇にみんなで旅行しよう」みたいなゆるいものから、「とことんくだらんことしよう」「こういうビジネスできたらいいよね」とかちょっと飛躍したものまで。こういうワッと盛り上がる瞬間は、会議中のブレストでよくあったりする。

だけど、こういう話って「やれたらいいね」「やれたらやろう」レベルでとどまって、実際に実行される前に、シャボンが割れるように話がなくなってしまうことがしばしば。だから、こういうときに「じゃ、次どうしよっか?」と言える人の存在はとっても貴重。

それは「おもしろい」をちゃんと育てられる人。なにがやるときのリスクなのか,壁になるのか。まず“できない理由”を洗いだすことができる。そして、なにから始めると、準備できると、次に進めるのか。“できる理由”を考えていくことができる。できない理由よりは、そりゃできる理由だよね。そういう風に、アイデアをかたちになるに具体的に考えすすめる。

スモールスタートを切れるというか、そうやって軽く動ける人。いわゆる“尻軽な人”がチームにひとりでもいると、機動力が一気に上がる。ジェットブースターがついたみたいに。「とりあえずやってみようよ、やってから考えよう」でも全然いい。0から1が生まれること、それまでの過程から学べることも多いし。

よく「アイデアは口にしただけではアイデアではない」と言う。ここらへん学生とか新社会人はよく勘違いをする。本当のアイデアマンはかたちにするまでをトータルでアイデアをだす。口だけじゃなくて、手足もちゃんと動かす。ちなみに、アイデアは「Why→How→What」の順に考えていくといいそうだ。なんでそれをやるのか、想いの部分ありき、ってのはやっぱり大事なこと。やり方や見せ方にばかり囚われちゃだめ。

いろいろ書いたけど、“尻軽な人”の存在は貴重だよねってこと。たいてい人はひとりでなにかをできる人は少ない。それはひとりだと恥ずかしいとか、やり方がわからないとか理由はある。ひとりよりも一緒に、だと例え赤信号だとしても踏み出せたりする。尻軽というと、聞こえは悪いけど、こういう人がものづくりとかクリエイティブといわれる分野を開拓するんだろうなぁ。全然関係ないけど、尻軽な人ってデート誘うのうまそうだよね。

 

 

 

色っぽさはわけがわからない

女性のタイプを無粋に分類すると、かわいい人、きれいな人、(たまに、きれかわな人)、とそうでない人、みたいに分けられるかと思う。で、ちょっと考えてみると、実はもうひとつあるんじゃないかと。「色っぽい人」っているよな。だけど、色っぽい人は少ないし、どこかわけがわからない存在にみえる。

かわいい人、きれいな人が色っぽい人とされがちだけど、実は違うんじゃないか。どちらにも当たらない人でも、どこか色っぽい人がいる。大学時代「あの子、なんかわからないけど、色っぽいよね」というような会話をしたのを覚えている。そう、たいてい「なんかわからないけど」の枕がつく。色っぽいは不思議だ。

だからか、「かわいいはつくれる」のコピーみたく、必死でかわいいをつくろうとする中身のない女性は多いけど、色っぽいを追いかける女性をなかなか見かけない。色っぽいのからくりがつかめていない証拠ではないだろうか。ぼくが知らないだけ、調べてないだけかもしれないけど。いや、がっつり調べていたらなんかイヤだ。どっちにしろ、色っぽいは貴重ということ。

で、もうこれは独断と偏見でしかないけど、色っぽい人はどこかに闇がある。なんというか私生活の裏に複雑な人間関係、事件をかかえているような。ある種、そのような人間としての経験が重なった、人生の深みそのものが色っぽさの正体かもしれない。「それでもあたいは生きるのよ」みたいな、きらめきなのか。

かわいい系、きれい系、きれかわ系のような表現のひとつとして、色っぽい人を「人妻系」とぼくは呼んでいる。すごい勝手だなぁと思いながらも…….。もちろん、実際に人妻であっても、人妻系ではない人がいるのは、わけがわからず矛盾を感じてはいる。女性はむつかしい。

自分のまわりにいる、かわいい人、きれいな人、色っぽい人をすこし思い浮かべてみほしい。色っぽいの奥深さに気付いてもらえるはず。大学のときの色っぽかった子、今どうなってるんだろうか。こういうときだけ、同窓会っていいなと思うぼくがいる。

 

 

おじさんは一緒に休むよ

前にちょっと触れたけど、ぼくは小学校のときに行っていない時期があった。たしか1年くらいだったかな。そして、あの時「学校行ってなくてよかった」とも思ったりする。無理やり学校に行かされていたら、そこでのストレスが今に影響してるんじゃないかと思うほどに。

義務教育だからしょうがない、と言えばそうなんだけど「本当に学校って行かないとだめなの?」とそんな気がする。ぼくには小学5年の甥っ子がいるんだけど、ここ1年ほど学校を休みがちらしい。甥っ子自身、なにが嫌なのか分らないけど学校に行く気力が出ないようだ。

直接口にはしないけど、行きたくなら別に行かなくてもいいよ、というのがぼくの考え。それは自分自身の経験もあってこそ思う。「勉強が…」というのも、別に学校をサボりがちだったぼくでも大学まで行けたし、「友達が…」とか「学校はだれかと一緒に生活する訓練を…」というのも、学校じゃないところで友達はできたし、今では居候生活できるくらいまでに逞しくもなった。人はどっかしらのタイミングで変われる。

なにかを押しつけるほうがトラウマとして残る。そうなっちゃうと長い目でみたときに、手がつけられなくなる。大人が子どもに対してやることは、押しつけるより、引き出すことでしょ。後からどうにでもなる勉強なんかよりも、もっと大事なのは「自分ひとりで考える力をそだてること」「なにかを共有できるコミュニティをみつけること」「自分を表現できる手段をみつけること」だとぼくは思う。

今振り返ると、ありがたいことに、ぼくは親に学校を休むことを受け入れてもらえてた。その代わり、自分の菜園をつくって、野菜を育てたり、魚を釣ったり貝を採ったりしていた。漫画やテレビゲームだって大きな学びだった。学校に行かなくても、近所のおじぃおばぁは優しくしてくれたし、いとこも何ら変わりなく接してくれた。口うるさかったけど、素直につたえられないぼくは、書くことを覚えた。

だから、無理には学校は行かなくてもいい。壊れるくらいなら。行かなくてもできることはあるし、学校以外の場所に行けるし、会える人だっている。学校に行っても行かなくても大人にはなれる。そんで、楽しい大人になれるかどうかは、学校に行ってる行ってないは全く関係ないよ。

ずっと楽しんでくれること、そしてそのお手伝いができると、おじさんとしては嬉しいこと。甥っ子は一眼レフにとても興味持ってくれた。自分の口でつたえることが苦手そうな甥っ子には写真で表現できることはいいことだと思う。だから、たまに学校休むよ、ってときはおじさんと写真でも撮りにいこうか。アイスクリームくらいママに内緒でおごるし。

 

アマチュア向け、ネタみせオーディション会場としてのFACEBOOK

かかわる時間が長ければ長いほど、それについて思うことも募っていく。毎日、ふつうに過ごしていても、SNSがあたり前のように付いてくる。これは「猫の手」なのか、あるいは「金魚の糞」みたいなものか。人をよくも、わるくもするツールであることは間違いない。

ぼくが使うSNSは、「facebook」「twitter」「 instagaram」「path」の4つ。気持ちよく使えてるのは、faecbook以外の3つ。というのもあって、 最近facebookに関してだけ使い方を一変した。これまでに何度も使い方を見直してきたのがfacebookなわけで、腐れ縁じゃないけど、かかわる時間はむちゃくちゃ長い。

それを踏まえて最近思うことは、facebookは「ネタみせオーディション会場」みたいなところだなぁと。なんというか、真実より「つくりこまれたもの」が多いよなぁ、というのがそう思った理由で。

基本的に「妖怪・リア充もどき」がはびこっている、と思いつつぼくはfacebookを眺めている。そのまま、素のまま、の人柄を感じられるような人もいる。けど、それ以上に、なにかをよく見せたい人が多い。だから、「こういう自分」よりも「こうありたい自分」がネットに出やすいのだろう。それが、プライベートと仕事で雰囲気が違うような芸人(や役者、タレント)と重なって見える。だから、facebook投稿はネタみせの場だということ。

その芸がおもしろいのか、ある種、お金になるのか、仕事になるのか、みたいなものが遠巻きに見られることもあるので、オーディション会場のような感覚。facebookには、オーディションに無意識のまま参加する人たちばかり。逆に、意識を強く持って、練りこんだネタで参加するweb界隈の人もいる。

個人的には、アンタッチャブル山崎のような感じがいい。直接的には知らないけど、彼は裏表がない、仕事もプライベートも変わらずにうるさい(笑)、よく喋る、ボケるそうだ。ほんとに楽しいのが好きなんだろうなぁ。そういえばむかし、矢沢永吉を目の前にしたことがあるが、ブラビアのTVCMのままだった。YAZAWAだった、どこに居てもそうなのだろう。

つくりこまれたもの、は「作為」からどこかで気持ちわるさを感じてしまう。それは他人に対しても、自分に対しても同じ。facebookはたいていがネタだから、実際に会ったとき、本人のイメージが違う!なんてざらにある。これ、facebookだけを安易に信じちゃいけないってことだよね。リアルとネットのキャラが一致するように気を付けたいもんだ。

万が一、ネタとしてやるなら、あからさまに、とことこん突き抜けれるようにがいい。よくもわるくも「ネタ」と思えば、いらいらしないで見られる。これまでにfaeebookでたくさんのネタ見てきたけど、モノマネじゃないただのパクリ芸、猫の曲芸、キラキラ女子の女子力高いでしょ芸には、もう飽きてる人が多いんじゃないかなあ。ぼくだけだろうか。

 

こんな上司は飲みに誘うな(鉄拳っぽく)

好きな芸人に鉄拳がいる。ここ最近だと「振り子」などのパラパラ漫画でブレイクしたことで記憶に新しいかもしれない。「こんな〇〇は××だ!」のネタは、画のタッチとともに秀逸だと思う。本も買ってくすくすと笑った。よく「こんな〇〇は××だ!」というので、「こんなクレーンゲームは田舎に帰れ」「こんな忍者には将軍暗殺を依頼するな」みたいなのが一枚の画に描かれる。こういうフリップ芸は個人的にはツボだ。

というのを、急に思い出したんだけど、ぼくが言いたかったのは「こんな上司は」という話。上司は、先輩とかにも置き換えてもいいだろうか。どんな人でも、たいてい会社や部活に所属すれば、上司や先輩という存在がポンと自分のうえに登場する。これまでぼくはいい上司にめぐまれてきたなぁ、と勝手に思っているんだけど、もちろん反対に「なんだかなぁ」という人もいた。こんな上司は嫌だ、をひとつあげてみよう。

自分に対して、他の人(スタッフ)の良くないところをベラベラしゃべる上司。これが嫌だ。なぜかと言うと、一見、自分を信頼してくれてるから上司は話してくれているんだ、という風にとれるけど、実は他の人にも同じようにしてるんじゃないかと勘ぐってしまうからだ。自分もどっかで言われてるんだろうな、とどっかで上司に対するあきらめが出てくる。

完璧はないから、自分のだめだめな点はたくさんあると思うし、それは自分で認めていたとしても、自分の知らない陰で言われてるかもしれないという憶測だから、余計にこわい。

実際には違っていたとしても、そうなんじゃないか?と部下にすこしでも怪しまれたら、上司はおわりだと思う。信頼を取り戻すのには時間もかなりかかる。ぼくみたいな、もともと不信なタイプからすれば、ああ仕事はできるんだろけど、この人ないな、と激烈に思ってしまう。何を言っても、どうせ聞いてくれないよねとか、他の人に話が流れるんだ、とかまでいったら最悪だ。

みんな、どっかのタイミングで上司のような上の立場になるんだけど、そうなる前に、今のうちに、嫌な上司を見てしっかりと学んでおかないとね。「おれ / わたしはこうされた、だから自分もそうする」じゃなくて、自分が嫌だったことはしないように。同じことを繰り返しちゃったら、なんてもったいない部下の時間なんだろう。

教えられる側として、教え方もじっくりと眺めてやればいと思う。上司はぼくらを試しているのかもしれないけど、こっちも試してんだ、ということを内に秘めているかどうかで、今後がずいぶん違うだろうね。こういうことを、文章じゃなくて、鉄拳のようにフリップで表現できたらいいのになぁ。できない自分をうらむわな。

割れないこと、生き存えること

普段から考えていることが、気になる言葉を引き寄せちゃうんだろうな。最近『ツレがうつになりまして』という映画を観た。堺雅人と宮崎あおいが主演の作品。ざっくりいうと、しっかり者のサラリーマンである旦那(ツレ)がうつ病にかかり、それを売れない漫画家である嫁(ハル)が支えていくものがたり。この作品のなかで、引っかかる言葉があった。

うつ病だと医者に宣告されたにもかかわらず、その原因をつくった会社に通い続けるツレ。その様子が気がかりのハル。そんな状況のなか、ハルは行きつけの骨董品屋さんへ。店主が紹介するヴィンテージの瓶がとても気に入り、購入することに。そこで店主が「その瓶もたかがぁガラス瓶だが、割れなかったら今ここにある」とさりげなく語る。ハッとするハル。ハルさんと一緒にぼくもハッとした。「割れない」って表現いいなと。

ちょっと続きを話すと、その夜、くたくたに帰ってくるツレ。椿が飾られた瓶を眺めたハルは、ツレにこんなことを言う。「ツレ、割れないであることに価値があるんだよ。会社辞めないなら、離婚する」。店主のあれが、ハルのこれに繋がる。この「離婚する」という思い切りのよさがカッコいいし、いい嫁さんだとよね。

ぼくは「割れないこと」がとても気になった。それは、なにはともあれなんとか生きてければいいのかな、死ななきゃいいじゃん、と最近よく考えるから。煮詰まらずに考えてばっか、苦しいばっかなら、一回そこから抜け出してみること。ちゃんとやることやってれば、どっかで良いことあるから。そうやって、生き存えることが大事じゃないかって。そう、きっと作品の「割れないこと」と「生き存えること」が絶妙にリンクしていた。

作品中の「割れること」の定義はいろいろと考えられる。大胆に“死”を意味するかもしれないし、何もできなくなってだれかの補助がなければ生活ができない、という程度もあるのかな。どうであれ「生きる意志が弱くなる、なくなる」とうのが「割れること」なのかもしれない。

仕事でも学校でも、そこでの出来事や人間関係が自分を悪意をもって割ろうとしてきたら、ぼくは逃げればいいと思う。「逃げる」というのは、「責任がない」とか「卑怯だ」とか他人は言うかもしれないけど、それは強者の言い分でしかない。それがアレルギーなら、無理に食べたり触れたりしないのと同じように、逃げちゃえばいい。それでも何かぶつぶつ言うやつがいたら「逃げるのにも体力と根性がいるんですよ」と言ってやれ。

ドラクエを思い出した。戦闘画面で「逃げる」を選択したら、逃げ切れずに敵から会心の一撃をもらって、気付いたら協会にいた……みたいなことあったなぁ。ほら、逃げるのにもそれなりに強くないといけないよね。

たまにはサボって昼寝とかもいいじゃないか。たまには。

 

 

 

 

残念だけど、根暗だからね

基本的に、ひとりで居たいことが多いし、ネガティブなことから考えちゃうし(最終的にはポジティブに気合いで持っていくけど)、なるべく狭いところでおさまってたいと思うし、頭のまわりには暗黒の雲がうようよしている。そうだ、ぼくは根っから暗い。根暗(ネクラ)だ。別になげくわけじゃないんだけど。

根暗だからなのか、根明(ネアカ)な人がものすっごい苦手。たいていは、根暗だからこそ、根明な人に憧れたり、好奇心を抱いたりするのかもしれないけど、ぼくはそれから外れてしまった。根暗中の根暗なのか。

根明な人って、当たり前だけど、とことん明るい。いつもピカピカしてるし、陽気だし、やっぱり人から好かれるよな、とみてると素直に思うんだ。でもパワーありすぎ。なんかもうそれが、そっちにその気がなくても、こっちは押しつけられる気分になる。facebookもそっとフォローを外したくなる。

彼、彼女らは、まぶしすぎる。ほんとやめてってくらいにfacebookでは名を轟かせるよね。サングラスでもかけないと、目も当てられない。お気づきだろうけど、すこしfacebookへの皮肉混じり。

そういや、facebookにおいては“根明の振りをしてる人”も多いから気をつけないとね。ほんとは根暗だろうに、根明っぽく見せたいのか、いやらしいSNSの使い方をする。ぼくはこういう人を「妖怪/リア充もどき」と呼ぶようにしている。本家の根明と同じように、あちらも苦手だし、絶対にお前にはだまされんわ、と思うわけ。

とにかく根明業界の人が苦手だなぁ。ぼくみたいな根暗は、ほっておくと、すぐへんくつなことばっか考えるから、まわりは気を付けてほしい。あ、ぼくの場合は根暗に、天邪鬼な性格が足されてるから余計やっかいなのかもな。天邪鬼、リア充もどきじゃない妖怪を、自分のなかにめっけたわ。人類みな妖怪。