くらつく、はじめました。

沖縄と東京を行ったり来たりする2拠点ぐらし、

来年からはじめれるように、少しずつ準備を進めている。

 

で、同じようなことを考えてる人もいて、「Oターン(仮)」という会を、6月に1回でやった。

月1ペースでやろうよ、と決まり、今日はその第2回目。

 

結果、

沖縄というこだわらず、どこでくらすかには各々の好みとして、

自分たちが好きなくらしをつくれたらいいよね、

そういうことを一緒に考える場があったらいいよね、

という結論にいき着く。

 

ということで、「Oターン(仮)」というのは止めにして、

今後は「くらつく(くらしをつくる、の省略)」で動くことに決定。

 

“そもそも、くらしって何?”

 

を自分たちのなかでまずは消化しながら、

ミニイベント/ワークショップづくりから始めるつもり。

 

自分たちの“手”でつくる、

消費よりも生産、

五感を使う、

ってのはキーワードかもしれない。

 

ちなみに、「くらつく」と「ふらつく」の動詞が似てて、

「なんかふらついてそうなメンバーだからいいかもね(笑)」

というのが名前の決定打だったのは、ここだけの話…….。

 

くらつく、はじめました。

なまけものの原点

小学校のときだった。

 

ぼくは、神奈川にいたときからずっと、転校をくりかえし、

点々としながら、親の出身地である沖縄の伊平屋島まで辿り着いた。

 

神奈川時代からそうだったけど、

ぼくにはサボリ癖があった。

 

つまり、学校に行かない時期があった。

世間的に言えば、不登校児というやつ。

 

小学校2年くらいまでは学校が大好きだったのを覚えている。

けども、それ以降、繰り返し繰り返しの転校で、友達をつくることに疲れてたんだと今では思う。

幼いながらに、どうせ友達になってもまた離れるし、みたく冷めていた子どもがぼく。

 

何で学校に行かなかったのか?

と言えば、たいした原因も無かった気がする。

体が弱かったわけでもなければ、

いじめにあってたわけでもないし、

勉強が遅れてたわけでもないし、

「なんとなく」学校に行くのが嫌だった。

 

強いていうなら、もっと学校以外のことで遊びたかったんだろうな。

だから、単純にサボっていた、とはっきりと言える。

 

学校に行かなければ、何をするのか。

そう、勉強はほとんどしない。

当時入手したばかりの任天堂64や、ゲームボーイ、デジモンなどをぴこぴこ。

マンガを読んで、妖怪や恐竜の図鑑ばかり眺める。

男の子のわりには、人形劇とかやってたな。

ペットボトルや牛乳パック、ダンボールをばらして、図画工作なんかもしてた。

それがぼくの勉強道具で、学びだった気がする。

 

ぼくには弟がいる。ちなみにだけ行っておくと、兄も姉もいて4人兄妹だ。

ぼくが学校を休むもんだから、兄はずるい、と釣られて弟が一緒に休むようになった時期があった。

さっき挙げたような遊びを、ふたりでする。

今でも、何か弟には兄妹のなかでも、特に特異なつながりを感じるのは、

この時期、この時間を共有したからだろうな。

 

と、ここまで、僕の不登校、ないしサボりについて触れたけど、

多分、このときの経験が今の自分の土台をつくったんじゃないか?

と最近感じている。

 

ぼくは、自分で自分のことを「なまけもの」だと思っている。

多分、これはひとりの人間としてのコアな部分。

 

それでいて、

天の邪鬼な性格に、ドライで、冷めてて、

やりたいことよりも、やりたくないことにすぐ目がいく、怠惰。

友達も、自慢じゃないが少ない。

 

さっきまで書いてたのは、神奈川にいたときにしていたこと。

伊平屋島に行ってからは、やってたことも少し変わってくる。

今だから言えることだけど、高校もちょいちょいサボってたし、

大学なんてほとんどキャンパスにいても授業にも行かなかった。

昔からサボリ癖は変わらない。

 

不登校児だった小学時代から、今に至るまで。

ここらへんの記憶をひとつひとつ辿りながら、しっかりと書き綴っていこう。

トラウマとか、今も変わらずに大事にしてることとか、

そういうお宝が見つかるといいなあ。

 

 

とあるバーテンダーが好きな飲みものベスト3

最近気付いたこと。

白状すると、お酒も含めたうえで、一番好きな飲みものはコーラ。

 

ベスト3を並べると、こんな感じに。

 

1. コーラ(コカ・コーラ)

2. ルートビア(A&W)

3. トニックウォーター(フィーバーツリー)

 

全部、ノンアルコール。

 

沖縄出身で、バーテンダーという職種に関わってることもあり、

イメージだけで「お酒が好きな人」「酒飲み」と思われることが多い。

 

けど、お酒のしごとに関わっていても、酒飲みではないです。

(だけど、それなりにお酒は飲める…….はず)

 

普段は、飲めても、飲まない。

飲む理由が見つからないから。

きっと、お酒を飲まない人の気持ちのほうがわかるかもなぁ。

 

そして思うのが、

お酒飲めない人でもバーには行っていいでしょ、ということ。

そういう人にとっても、バーは心地よい空間であったほういい。

「わたし、お酒飲めないからバーに行くのはちょっと…….」という空気圧は変わればいいのに。

 

お酒飲めない人こそ、一緒に飲み(ノンアルコール含め)に行きましょう。

お酒入っていない人をほろ酔いさせることのできるカリスマ性を身につけたいものです。

ぼくは世界を変えられるか?

恥ずかしいよ。

 

初っぱな、言ってしまうと、

そもそも、世界を変えたい、だなんて大それたことをぼくは言えない。

 

でも、ぼくのまわりには、世界を変えようとがんばってるひとが沢山いる。

ほんとに、ほんとに沢山いる。

キラキラしすぎて眩しいや。

 

ただ、世界を変えたいという気持ちを一旦無視した上で、

“ぼくは世界を変えられるか?”

と質問を自分に投げかけてみる。

 

この答えを出す前に、先日の話をしたい。

友人と一緒にお酒を飲んだ話。

 

最後に会ったのはー年前ほどで、吉祥寺のBar Visionで飲んだ。

ぼくがお酒好きで(というかバー業界にいたこともあり)、

そこが足を運びたいお店だったから、連れて行ったんだと覚えている。

 

久しくあった彼と、ここ一年であった心境としごとの変化など、

近況を伝え合うなかで、友人が不意にこんなことを言った。

 

「あれ以来、たくさんバーに行ってるんだよね」

と、この一年で足を運んだお店の名前を指折りで教えてくれた。

 

あー、そのお店も行ったんだぁ、

むしろ俺よりいろいろと行ってるなぁ、と思うくらい。

 

続けて彼は言った、

「ほんと、バーってすごいわ。バーテンダーってかっこいいね。この世界を教えてくれて、ありがとう」

と。

 

これは、とてつもなく、うれしい言葉だった。

 

ぼくは、こっちに引き込みたいとか全然思ってなかったけど、

彼がバーにハマるひとつのきっかけに「ぼく」の存在が一役買えたようで。

 

その日は、彼と、

何がいいバーなんだろうね、とか

バーテンダーはこうであってほしいね、とか

吉祥寺の武蔵野珈琲の静かな空間でこそこそ話した。

その後、またそこいらのバーを飲み歩いた。

ほんと、いい日だった。

 

“ぼくは世界を変えられるか?”

この質問に立ち戻ってみたい。

 

脊髄反射で、ぼくの答えは「NO」だ。

やっぱり変えられる気がしない。

世界、は大きすぎるし、じぶんに力が無さすぎる。

じぶんが見るべきはそこじゃないとも思う。

 

ただ、その反射的回答を、もう一度だけ見直してみたい。

 

さっきの吉祥寺での話を振り返ると、

「YES」とも言えるんだなぁ、と思った。

 

ぼくの持っている何か、

ここでいえば、“お酒とかバーに対する興味とか情熱”が、

知らず知らずのうちに、友人の(もしかしたら、潜在的にあった)興味にも火をつけていた。

ぼくの知らないところで、バーに通い続ける、という行動で、

想像以上に、激しく燃えていた。

 

ぼくは、きっと、彼の世界を変えたのかもしれない。

こちらが意図することは一切なく。

 

だから、きっと、ぼくでも世界は変えられるんだろうな、と思える。

ただ、そこには条件はつけたい。

 

ぼくは世界を“大きく”は変えられない、

だけど

ぼくは世界を“小さく”は変えられる、

変える可能性をもっている。

自分でも気付かないだけで。

 

というような、ややこしくも、ちょっと弱気な言い草でつけた条件。

 

これは、ぼくだけじゃなくて、誰にも言えることじゃないだろうか。

意識的に、大きく世界を変えようと思ってなくても、

無意識的に、小さく世界は変えられる。

身近なひとの何かを変えるきっかけを、みんな持っている。

 

小さい変化が、あちこち、そちこちで起きれば、

その変化はうねりをあげ、大きくなっていく。

時代が変わるような大きな波は、そうやってやってくるのか、とぼくは想いを馳せた。

 

結局のところ、ぼくの言いたいことは次のこと。

 

今、

目の前のことを大事にする

目の前のことに関係するひとを大事にする

目の前のひとから、もっと聞く、理解しようとする

目の前のひとと、もっと話す、伝えられることは伝える

単純に、仲よく、共感し合えればいい。

 

それだけ。

 

それさえできれば、

じぶんが無理に大きく変わろうとしなくても、

そのままの、ありのままのじぶんでも、何かを変えられる。

へんに背伸びせず、小さく、自分らしく、せっせとくらしていこう、

と、今のぼくは思う。

獅子噴気(photo)

2014-03-24 15.15.29

 

シーサーがもしも怒ってたとしたら、

鼻息あらいイメージ、

ふんふんっ、言ってそうなかんじ。

あれなんだろね。

 

 

“昔からくらしのなかにあったもの、歴史とか文化を無視しちゃってさ、

沖縄観光の主戦力、お金にかわる象徴されてるおいらの身にもなれよ。”

 

シーサーは、笑みを浮かべながらも、心ではそう思ってる気がした。

2014年7月5日18時45分の、ぼくの恋愛観。

親指分くらいでいいから、

一緒にふわっと上に背伸びできる、

そんな彼氏になれたらいいよな、

と、言葉尻だけでもまずは伝えておく。

 

刺激し合えるとか、

一緒にいると落ち着くとか、

なんでも話せるとか、

適度に緊張感があるとか、

一緒に過ごすと時間を忘れるとか、

そういうのもとても素敵なんだけども、

 

ちょっとだけ一緒に背伸びできる、

という条件に、今の気持ちがピシャリとはまった。

 

ちょいと背伸びできることで、

半歩だけ、じぶんのフィールドを飛び出て、

新しい世界観を覗ける。

 

一歩以上はなされちゃうと、

なんだか疲れちゃいそう。

 

一緒に背伸びできることで、

未知へのわくわくを共有できるのはいい。

おなじ高さで背伸びをする。

おなじ目線で、だけどちがう視点で、ものを言い合いたい。

 

そういうのを自然体でできる彼氏になりたいし、

彼女さん、嫁候補さんには、そういうのを求めちゃうかも。

 

と2014年7月5日18時45分のぼくは思いました。

あたらしい価値観にぶつかるのはいつだろうか。

 

まずは相手をみつけよう。

こういう話ばかりしてないで。

ぼくもあなたも。

Facebookしばらく休みます。

“個人”Facebookをしばらく休みます。

 

なので、他のFacebookページ・グループとかは、いじります。

あと、メッセージ機能はやはり便利だから使うし、

なんかしらメディアで記事とか読んでて、備忘録でいいねボタンくらいは押すかな。

 

(あ、これ、休むことになるのかな……)

とりあえず、フィード読んだり、特に投稿したりを避けるかんじに。

 

 

今ちょっとPC、スマホ、タブレットの使い分けを見直していて、

そうすると、アプリの使い方も考えなくてはな、と思い、

まずはよく使うFacebookを休んでみて、

「今なんで無意識的にこれ使ってんだっけ?」を改めて考えてみる。

 

基本的にはTwitterとInstagram、Pathだけを動かすかんじになりそう。

こっちのほうがのびのびと不思議と使えるから。

 

毒々しいというか、偏屈というか、天の邪鬼なことはだいたいTwitterだし。

キラキラとしたFacebookは、最近だとちょっとだけまぶしい。

 

ということで、Twitterはこちら。

https://twitter.com/0mija

 

期間は特に決めてなくて、

何かよい気付きがあれば、

すぐ戻っているかもしれないし。

 

とりあえず、Facebookしばらく休みます。

“使役”でまわる世界なんて嫌だ。

使役というと誰かに「〜させる」みたいなやつ。

 

誰かに「〜させよう」という企みって、

勝手だよな、傲慢だよな、

と、ただただ思う。

 

読ませる、

買わせる、

手伝わせる、

好きにさせる、

 

という卑しげな目的をもって、

有ること無いこと上手いこと、相手に言って、

煽る、煽り立てる。

 

使役から生まれる消費行動はうんざり。

 

ぼくは、使役でつながる関係性で人と関わりたくない。

というか関われない。生理的に。

 

だから、

自分をこーさせよう、あーさせようと、

相手の意図がちょっとでも見えたらぼくは萎える。

もう、気持ち悪くなっちゃう。

 

ぼくは、弱い。

その気持ち悪さを抑えてまで、人と付き合うのができない。

ぼくは、疑り深い。

相手が自分にたいして、何かしら使役の気持ちがあるんじゃないかと、どんなに距離が近い人でも勘ぐってしまう。

ぼくは、嫌だ。

“使役”でまわる世界なんて。

 

「〜させる」よりも、

「〜してもらう」という、

相手への敬意とか謙虚さとか、

そういう気持ちでつながる関係性が好ましい。

健全だし、気持ちいい、自然だ、と思う。

 

読んでもらう、

買ってもらう、

手伝ってもらう、

好きになってもらう、

 

みたいなさ。

 

まずは自分の中にある、誰かに対しての使役の気持ちを滅殺しなきゃな。

人のことを、どうこう言う前に。

知らず知らずのうちに、自分が誰かを気持ち悪くしちゃってるかもしれないから。

そういう、無自覚な自分が一番気持ち悪いんだよなぁ。

やりたくない、を濃く、もっと濃く。

やりたくないこと、だってエネルギーに変わる……

よね。きっと。

 

いくつかの土地に行って、その土地の人に会って、いくつもある暮らしを知って、感じること。

自分のやりたいことは未だに掴めないけど、自分のやりたくないことは少しずつ浮き彫りになってくる。

 

新しい誰かのどこかでの暮らしに直に触れて、

こういうのいいなぁ、うらやましいなぁ、という気持ちは勿論あるんだけど、

どちらかと言うと、それに比べて

今やってる自分のあれ、これ、は“嫌だなぁ”と感じてしまう。

 

いつも違和感があって、自分の毎日は動いている。

やりたくないことをやってる、

いたくない場所にいる、

みたいなことで違和感は繰り返す。

 

その違和感を限りなく取り除きたいから、

今いる場所、能力、人間性を脱したいから、

嫌なことだらけ、やりたくないことだらけだから、

前に進もうと体が動く。必死になる。

 

ぼくの基本は、

哀しいかな、

消去法。

 

やりたいことより、やりたくないこと。

やりたくないことから潰していく。

ご飯もなるべく苦手なものから先に片付けるタイプ。

 

だから夢はないし、どれだけ自分の違和感を減らして、ストレスを減らせるか。

そうやって自分が心地よいくらしをつくれればと思う。

 

そして、やりたくないことを濃くすればするほどに、

世間的にいう、“やりたいこと”というキラキラ(笑)したものが目の前に現れるんじゃないかなぁ。

 

だからやっぱり、

自分のやりたくことと向き合う時間をもっと。

やりたくないことを並べたほうがスッキリするよ。

まじで。

 

あ、単純に素直になればいいだけか。

背伸びし過ぎず、強がらず、ただ無垢なままに。