短気でよかった。

基本的に「喜怒哀楽」のうち4つのどれかが、ひとを動かすエネルギーになると思う。

このエネルギー源の感情は、ひとによって違う。

 

ぼくの場合は「怒」の場合が多い。イライラしがちだ。

毎日、何かしらのイライラするポイントを見つけてしまう。

Facebookフィード眺めていただけでもイラっとしたり。

かなりの短気だ。

 

ただなるべく態度とか発言に出さないようにしようと、

幼少期からの性分なので、処世術を身に付いてきたつもりだ。

 

沖縄出身というスペシャルブランド(笑)の助けがあって、どうにか怒らない人と周りをごまかせてはいる。

でもいつも結構イライラしています。もう突き抜けて、イラっとしたら笑えるくらい。

 

少し話は変わる。

この前たまたま友人との話の流れで、

「インターネットは短気な人に向いてるよね」

との話になった。

 

「ブログを書きたいときはどんなとき?」

とぼくが投げた質問に対してその友人は、

想いが溜まりに溜まったとき、その拠り所が文章に、ブログ記事になる。

的なことを言っていた(あくまで「的な」ことなので、間違ってたらごめんなさい)

そういう時の方が、へんな迷いがなくて、書く文量が増え、書くスピードも早くなるそう。

溢れた想いをかたちにする=ブログを書く、みたいな考え方だろうか。

 

なるほどなー、というか、ぼくもそうだ、と納得した。

で、それはブログに限ったこと話ではなく、

TwitterやFacebookでも”インターネットでポストする”行為がぼくは多い。

 

これは、

自分が短気で、イラっと感情がぽこっと上がる瞬間が日常で多いから。

そこで生まれたエネルギーが、ポストする動きにつながっている。

のだと思う。きっとそうだ。

 

そう考えると、

インターネットは短気なひと向きだ。

ただ、発言方法には心底気をつけないとね。

感情にまかせて諸々ぶちまけるのは、ちっともカッコよくはない。

 

とりあえず、

ぼくはイラっとすることが多いから、

ブログを書いてるし、SNSをよく使うようです。

「短気 × インタ—ネット」のことばは、なんだか好感がもてる。

 

インターネットは、

自分の好きなひとやものを引き寄せるためのツール、

だと思うけど、短気なとこから好きなものが引き寄せられたらうれしいこと。

 

あー、短気でよかったー。

ちなみに、うちのおかあちゃんも短気だということに最近気付いた。

やっぱり、血筋なんだろうなぁ。

 

「さて困ったもんだ」を探しに地方にいく。

去年1年間ほど、地方をいろいろと訪ねてみて良かったこと。

それは、現地で“困っていること”を身を以て知れたこと。

 

みんな困っている。

あれが足りない、これが足りない、と。

どこもかしこも変えたいものがあるし、よくなろうと動きがある。

それは都市部も地方も同じだ。

 

ただ動きを加速させるための”人”がいない、

というのは大きいんじゃないかな。

 

東京は人が多いから、

ある程度のスキルを持ち合わせたひとも多くて、

そういう人が興味でわっと集まっちゃえばプロジェクトはすぐ動くし、

東京はメディアにおける影響力も多いから、広がり方にも差が出やすい。

少しだけ権威的、予定調和的なとこもあるけどさ。

 

京都でとある伝統産業の職人さん、マチづくりをする人とそれぞれ話を聞かせてもらった。

共通しているのは、自分たちのつくっているもの、やっていることを発信するひとが少ないということ。

誰かのくらしの一部をつくるような、良いものをつくっているのに。

「何かつくっているのに、それを広く知ってもらう機会はつくれない」、と困っている。

このとき、地方にはまだまだ発信するひと不足だと思った。

地方ではライターだったり、ブロガーでもあっても、価値はあがるよなぁ。

 

地元の沖縄でも困っていることがあった。

京都とおなじ、発信するひとが少ない、というのは一つ。

あとは、ずっと沖縄にいるからその魅力に気付けない、土地活かしがあまりできていない感じ。

「その土地にあるものを掘りおこして、編集して伝える人がいない」、と困っている。

一度沖縄を離れてみるからこそ見える沖縄だったり、

もともと沖縄の外にいるからこそ見える沖縄のよさを見つけれるひとは、

一つ役割を担えるかもしれない。

 

そうやって、困ってることが地方にあったから、

あ、これなら自分でも手伝えるかも、とか、

自分でもやれそうだな、とかいうものを見つけられる。

場所が変わるだけで、肯定できるものがひょいと現れるし、

自分がやれそうなことの技を磨こうと気持ちも上がる。

 

だから、何かじぶんにできるものが少ない、とか、自信がないとか、思ってる人は、

地方にちゃんと足を運んで、困っている人のはなしを聞きに行く。それがいいんじゃないか。

そこに何が足りないのか、を知って、

よければ一緒にうーんと悩んでみて、

どんなに些細なことでも自分が埋められることを知る。

で、東京に戻るか、そこに居続けるか、新しい土地に出向いてみるか、決めればいい。

きっとね。

 

とりあえず、東京だけが素晴らしいわけじゃないから。

おなじ自分でも、ちょっと大都会を離れてみて、価値に振れ幅がある場所に行ってみる。

ネットで調べて、知った気分になるのはダメだよ。知ったかぶっちゃさ。

 

と、何かじぶんにモヤモヤを感じる人は、思い切って、新たらしい境界線をまたいじゃえと思います。

もちろん、困っているとは反対に、地方だから満たされてるもの、あるものを見つけにいくのもいい。

 

今までの世界観、変わるだろうから。

ちっぽけだな、おれ、って、

夢なんてない。なくてもいい。

夢は叶う、とか、

夢は叶わない、とか、

そんなことはどうでもよくて、そもそもぼくは夢がない。

 

振り返ると、高校のときとか、自分の夢についてあーだこーだ吠えていたことはあったけど、

ちゃんと考え直してみると、夢なんてものをぼくは持ってなかった。

夢がある、というリア充っぽい状態に自己陶酔してたにすぎない。

 

夢は〜をすることですっ!

と「夢、夢、夢」と元気よく連呼されるのが苦手なんだと気付いた。

だから過去のじぶんを振り返ると、ちょっとオエッとなる。

 

もし無意識的に、ぼくが夢をもっていたとしても、おそらく気付いていない。

そして、その状態はきっと“夢中”であって、どっかしらの方向には進んでいる。

進んでいくにつれ、何かが必ずついてくると思う。

だから、夢中なものがあればそれでいい。

先のことより、今のこと、今目の前のひと。

 

夢はやっぱりない。幻だと思う。

 

それでも、ぼくは毎日たのしい。

人によっては、夢はあるにこしたことないのだろうけど、

夢を持たなくてもいいと思います。

夢がないひと、なんで悩んでんだろ。

 

きれいごと、きれいなことばがきらいなんです。

あ、ついでに言うと、

仲間、人生、生き方、努力、

なんてことばらは、ぼくにとっては最大のタブーです。

あまのじゃくな性格ですから。

 

ごめんなさい。

分度器でじぶんを測る。

あの頃はたいした関係じゃなかったけど、時間が経つにつれて、距離が近づいたり、逆に遠のいたりする人がいる。

ということは、誰かとの関係性は平行線でずっと進むわけじゃないのか。

 

これって不思議だよな。どう角度がずれていくかは毎日の過ごし方次第なのかも。

 

よく笑うひと、

いつも企んでるひと、

ゆるっと肩の力が抜けてるひと、

楽しみ続けようと裏ではこそこそやっているひと、

と同じ方向に向かえるように自分の角度を調整するひとでありたいよ。