「西新宿HAPON学園〜TWDW U-30の働き方」で気になるフレーズ

 

11/23にあったイベント@東京に参加して、話の中で吸収し、血肉化したいことが多かったです。

 

まずは整理として、

アッと驚いた、グサッと刺さった、頭に今もこびりついている、解釈が複雑、など記憶に残っているフレーズを箇条書きでメモっておきます。各フレーズ登壇者の誰が言ったかまでは書かないですが、もしパッと気になるものがあれば参考にしてみてください。

 

「HAPON新宿 :西新宿HAPON学園 1時間目」

 

・本当に価値があるものは言語化できない

・0→1より1→100が好き、1のパーツを見つけることが好き

・本能を引き出す

・ポリネーション=受粉

・鞄持ちの文化

・風の人、土の人

・就活は作業

・ラブコールはブラック企業の匂い

・居候力

・ヒモになる力

・封建社会ゆえに、上から引っ張ってもらう

・何をつくっているか分かんないとカッコ良くはない

・信用は金になるが、金で信用は買えない

 

—–

 

「TWDW :U-30の働き方」

 

・社会を編集する

・常識を切り離す

・売れない芸人になる

・気付かれずにやる

・逆サザエさん症候群

・楽しいと正しい

・基本的な軸がぶれてなければ、とりあえずやってみる

・社会と自分のリンク

・やろうとしている人とやっている人の差

 

—–

 

今こうやって書起してみて、改めて印象に残るのは、

 

「居候力」:2013年1月から家無し生活をしてる身として、自分では言葉にしきれなかった感覚をシンプルに表現してもらえた、また第三者への説明で応用できるから

「社会を編集する」:小さな社会として自分は「バー」を編集したいと感じたから

 

でしょうか。

 

どのフレーズも、くらし・しごとを振り返りたいときにまた眺めてみたいものばかり。

登壇された方は、どの言葉もご自身のさまざま(僕たちが思っている何倍以上のさまざま)な経験から捻り出した表現だと思うので、とても深みがあります。

だからそのようなフレーズを易々と借りて表現する事に慣れ過ぎないよう、自分なりのフレーズで自分のくらし・しごとを表現できるように動き続けなくてはなぁ。と思う1日でした。雑感ではありますが。

 

 

東京好きの京都人が東京にいきます。

 

京京京と3個も続くとうるさいですよね。

もはや京都移住してしまった感じが出始めてるので、タイトルもそんな感じ。

11月23,24,25,26の東京滞在スケジュールを整理整頓っと。

 

 

◎23日

14-19時:新宿HAPON2周年「西新宿HAPON学園(働き方、暮らし方、お金、地方がテーマ)/  http://hapon.asia/shinjuku/

19 -21時半:TWDW「U-30の働き方」/ https://www.facebook.com/events/721774571170413/

 

◎24日

??- 15時:TWDW「仕事旅行社支店」/ http://www.twdw.jp/taiken/index.html

17-20時 京都移住茶論@EDITORY (微妙にお話しする機会をもらいました)/ https://www.facebook.com/events/170282999840574/

 

◎25日

??-?? 「smalん」ミーティング with 江里 / http://www.smaln.com

 

◎26日

12時-15時:デジタルハリウッド・カフェテリア/ http://www.dhw.ac.jp/profile/facility/ 

 

 

空いてる時間は仕事したり、候補地に出かけたり。

 

◉候補地

-可能性(高)

・Cook & Co

・Fab Cafe

・BAR 石の華

・BAR TRAM or TRENCH

 

-可能性(低)

・BAR Zingaro

・Fuglen Tokyo

・SGHR

・井の頭公園

・武蔵野珈琲

 

思い付くのはこんなもんでしょうか。

スケジュールをガチガチにするタイプの人もいますけど、

ゆとり持たないと結構しんどいし、動きたいときに動けないっても嫌ですしね。

 

今の僕にとって、東京は感度が高い人が集まる場所(受信地であり発信地)って意識です。

感度が高いって意味では、京都も同じなんだけど。

人のエネルギーに触れて、何か熱いものを熱いまま持ち帰ってこれるようにしたいです。

 

ちなみに、タイトルを無駄なんだけど事実として訂正すると、

「東京好きの京都人? 京都好きの東京人? いえただの沖縄人が東京にいきます。」

です。しっくりくる。さあ楽しむし、苦しもう。

俺と僕と私の黄金比率

 

一人称の話。

 

どんな一人称を使って普段過ごしてるのか?

ふと浮かんできた疑問に気持ち傾けて、ここ最近を振り返ってみたんです。

 

「僕」「俺」「私」

3択が僕の一人称の手札なわけですが、圧倒的に「僕」が多いです。

それも辿りに辿って考えてみると2013年1月に京都に来てから。

 

京都ではゲストハウスを仮住まいとしてたので、日々遠方から訪れるゲストと初対面で接する機会が多かったことが一つ。

もう一つは、京都で知り合った人が不思議と自分よりも年上の人ばかりだったから。

今現在ルームシェアさせてもらってる人も年上。

自ずと「僕」が出て来てしまっていたわけです。

 

「俺」はたまに連絡を取る同級生や家族くらい。

もちろんタメや年下の人に会っても初対面はやっぱり「僕」です。

控え選手みたく、出番がかなり少ない「俺」です。

 

「私」はゲストハウスで電話対応で使ってたくらいで、ほぼ姿は見せず。

去年都内で仕事をしてたときには頻繁に使っていた一人称だったとは思うんですけど。

 

現在の比率でいうと、

僕:85%

俺:10%

私:5%

 

で、ここで新たな仮説が生まれました。

“一人称の使用頻度と気持ちの持ち用”って変わるかもしれない…と。

「僕」が多いとヘコヘコ、「俺」が多いとオラオラ、「私」が多いとビシバシ、

ザックリとした印象ではありますけど。

 

僕の場合(ちなみにブログでは「僕」ユーザーです)、

「僕」の比率が多いので、もうちょういオラオラ感を出すために「俺」を増やしたほうがいいんじゃないかって。

「俺」を増やすためには、そんな関係性でやり取りできる人との接点を増やしたいな、と思っちゃいます。

 

なんとなぁくですが、

僕:50%

俺:40%

私:10%

くらいが僕の場合の黄金比率だと思い込んでます。

精神性をもっとも健康的に保てる比率なんじゃないかと(現在、そこまで病的というわけでもないですが)

そのバランスを意識して、人付き合いを考えてみるのも時折はありなのかもしれない。

 

気持ちの持ち用がどうのこうの…ってのはあくまで僕の戯れ言なんですけど、

自分の使う「一人称比率」を考えてみるのはちょっとおもしろいかもです。

ただ、すごくおもしろいわけでは無いです。

大企業のほうが成長できるとか完全にウソ、はわりと本当だと思う。

 

ちきりんさんが自ブログで書いていた記事「大企業のほうが成長できるとか完全にウソ」:http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131113

最近めっちゃバズってたんだけど、今さら読んだ。

 

ぼくは個人経営のバーと外資系IT系ベンチャーを経て、今はライターとかプランナーの仕事にちょっと関わらせてもらってます。

 

だから大企業で勤めた経験もなく、分からない感覚も多い。

ただ「成長」という単語を使うことであれば、更に「成長スピード」を考えるなら、

なるべく自分ひとりで多くのことをこなせる環境が必要だとは感じる。

 

数千(もっとかな?)という社員を抱え、仕事を細分化しなくちゃならない大企業では、

やはり出来る仕事の幅も最初は「こんなもんなのか」ってため息もんじゃないだろうか。

それは割と大手に進んだ友人や先輩の話を聞いててなんとなく思ったこと。

 

ちきりんさん曰く、

 

人を成長させるのは「研修制度」なんかじゃなくて、

「いかにストレッチさせるか」(いかに高い目標と裁量権が与えられるか)であり、

「いかにぐちゃぐちゃな環境で成果を求められるか」なんだよ。

 

これは結局、ぐちゃぐちゃしてる環境だと、頭の中で汗をかく機会が、

大企業の”落ち着きある”環境とは非ではない。

だから大企業にいては成長しにくい、ってことなんだろう。

わりと本当だ、とぼくは思う。

 

究極言ってしまえば、大企業であれベンチャーであれ、はたまたNPOであれ、

その会社に「なんとなくいるのか」「意図しているのか」の自身と会社の関係性をどう捉えるかの問題かもしれない。

ただぼくが外資系のベンチャーにいた時を振り返ると、やっぱり物事の移り変わりは目紛るしかったし、

やらせてもらえたことも同世代の大企業勤めの人に比べると広かったように見えた。

勉強させてもらえたことに感謝だ。

 

ある環境のなかでできることを最大限にがんばる。

でも、その最大値には限界もある。

内部要因と外部要因があって、内に求めたい気持ちも分かるけど、

根本的には外に目を向けなきゃどうにもならない、って事も少なくない。

これは25歳の若造が偉そうに言えることではないけど、

古い体質を変えないまま、内にばっか原因を追及したり、他の社員にも押し付けたりするのが日本企業の傾向じゃないだろうか。

その環境(システム)の最大値がどうしようもなければ、どうしようもないのに。

内ばっか求めさせた結果、ど根性論などを掲げ、うつ社員を生産するはめになる。

だから内も見つつ、外に気を配れる人は日本ではかなり貴重なんだろう。

 

大企業、NPO、外資系企業、ベンチャーあるけど、

その一つ一つの最大値を想定して選ばなきゃいけないんだろうな。

 

「とりあえず大企業にいっとけば問題ないでしょ」という、この”とりあえず”は、

“考えるよりもとりあえず書こう”がテーマのこのブログでも嫌うタイプの”とりあえず”です。

 

勝手なことだけど言わせてもらうと、

ぼくは”考えている振りをして考えてない人”が一番嫌い。

自分自身もそうならないようにと日々細心の注意を払いつつ、

生ぬるさから抜け出せるようにもがくしかないと思ってます。

もがくのに必死なので、生ぬるいところにゆっくりと浸かる人も気にもできない。

余裕がないんです。

 

ただ、

意志を感じずにとりあえず大企業という学生にはニヤッとしちゃうし、

大企業に勤めの、自分は”選ばれしもの”と勘違いしてるイケイケ社員も飲み会のネタとしては大好物だ。

大企業に対する考えはそんなとこ。

 

 

p.s.「成長」の単語をやたらめったら日常的に使う人も苦手。成長なんて勝手にするもんだから、言葉にするもんでなく、基本的に結果として引っ張られるものだと思うから。「成長」を連呼するのは、なんか一種の宗教のような気がしちゃうんです。

自分が自分の読者になる⇔ブログを続ける人だけに与えられたプリヴィレッジ

 

自分探しの旅に出ました。といっても、自分がこれまでに書いたブログ過去記事100本を読んだだけ。だけど発見はもの凄くあった。

 

まず、どんなテーマについて多く書いてるのか?を分類してみると自分の趣向が見えてきた。

ブログのこと、

個性のこと、

お酒のこと、

妖怪のこと、

暮らし方や働き方のこと、

ある程度のテーマは固まっていた。

 

また、過去の文章に怒られたり元気づけられることもあった。

昔よりは今はましになっていてしかるべきだけど、

かなりへっぽこな文章や構成を取っているじゃないか?と怪しみながら読み進めてみたところ、

思っていた以上にいい表現(もちろん自分にとって)には出会えた。

グサッと今の心情をブッさし、えぐるような言葉があった。

これはいいこと。

ただやっぱり、ダせぇな、と思える文章もかなりのもんだ。

変化があったからこそ、感じられる恥ずかしさと考え、これからも磨かなければってやつだ。

突き進め、書き続けろ、って受け止める。

 

すこし記事の特徴をみてみると、自分への問いかけや言い聞かせも多い。

記事のタイプや書き方を眺めても、おーこいつ試行錯誤してんなぁ、と分かりやすいのがおもしろい笑

過去の自分から現在の自分へのメッセージを、ログとして送り続けらるのはブログの良さだなまったく。

 

一番の気付きはこれ。

>ブログは、書き終わって時間がそこそこ空いてから、やっと自分の記事の読者になれる。

書いた当時は、主観性が強いというか、書き上げた自分に陶酔しがちだった(と言っても今もある現象だとは思う)

熱々の、出来たての弁当は、当然のようにその熱で味が引き立ち、おいしく感じやすい。

本当においしいかは別として、そう感じやすいから舌が鈍る、正確さが鈍る。

出来立ての弁当と書き立ての記事は似ているのかも。

ただ本当においしい弁当は、冷めても旨い!はずだ。

時間をそこそこ空けて、今じっくり味わえているからこそ、自分の記事をわりと落ち着いて読めているのだと思う。

だからこそ、反省も、自分なりに良いと思える点も、見つけることはできた。

やっと自分の読者になれた。

 

未来を見つめてばかりじゃ、ちょっとしんどいな、と最近では思う。

だから過去を振り返るのは大事なのかもしれない。

すがる過去でなく、現在を取り出すための過去として。

 

未来と過去の真ん中に現在がある。

書き続けるブログには、未来も過去を見つめ、現在を切り取る特権があるみたいだ。

 

0と1と2

 

あるTED動画をみてて、なんとなく思ったこと。

TEDの映像を撮ってる人がいるわけで、あれって一番最初TEDサービスが始まったときは「どうやって撮るとプレゼンテーションが映えるのか?」「YouTubeの向こう側の人に伝わりやすいのか?」なんて試行錯誤してたんだろう、と勝手な想像をしてしまった。

でも今はわりと撮るパターンが決まっていて、パターンを受け継いじゃえば誰でもTEDらしい映像を撮れるようになっているのではないかって。

もちろんパターンを受け継いだ時点でも少し枝分かれして、「こうやったらもっと良くないですか?」とパターンをいじれる/改良/調整できる人と、何も考えずただ言われたパターンをこなすだけの人と2方向なはずで。

 

「TED映像の取り方」を1つの「システム」だとしたら、以下の分類ができる。

1. システムを作る人

2. システムを調整する

3. システムを遵守する

 

一番頭を使う人はシステムを作る人で「0→1」型。次に頭を使うのはある程度のベースから変化させるシステムを調整する人で「1→2」型。何も考えずにただ動くのがシステムを遵守する人で「1→1」型。

何か大きなものを揺り動かす人は「0→1」型でありたい。それなりに結果を残す人でも「1→2」型に。世の中の仕組みなんて目もくれず取り込まれてこなしたいなら「1→1」型でいい。

自分は「1→2」なのかもしれない…と思いつつも、「0→1」になれたらとも思ってしまう自分がいやしないか。でもそれじゃダメだ。「0→1」になれたら…なんて弱気なことを言ってるのではなく、「0→1」になるんだの気概がないと。やりきった結果「1→2」になれたらそれはそれで汗のある納得だから受け入れる事はできる。

最初から「1→1」は眼中にない。もう無心にただ言われたことをやるなんて体が反応しない/できない。”我を捨てる”どうこうの問題ではないレベルで。

 

ああ、こんなに数字と矢印を頻出させた文章は久しぶりだ。

0と1と2の数字の狭間で、もっと遊べるオトナになりたい。

不自然な情報を断つとき

 

なんだか煮詰まらない…そんな時は、不自然な情報を一切遮断するのがいい。

 

不自然とは、テレビであり、スマホであり、そしてパソコンである。人工的な作為ある情報物と僕は捉えている。

反対に自然な情報とは、散歩でもしながら自分の五感を使えることだったり、友達との雑談だったりする。

 

不自然な情報はやたらめったら量が多くて、頭を引っ掻き回すし、常にスピーディな選択を求められる。あちらから「どうすんのさ?」といつも突き付けられているようで、少しは休まないとしんどい。毎秒戦えてるひとは逞しい限りだ。

一転して、自然な情報は質がいいことが多い。なぜなら自分から情報をぶん取りに行くからであって、自分から”選ぶ”行為がしやすいからだろう。意志が感じとれるのはここだし、自分の内にあるエネルギーを確かめられるのもこっち。

 

脳で描く行き先が見えなくなったとき、不自然さを隠してみる。自分の中の自然さを取り戻してみる。それだけでスッキリと心が晴れ、脳が晴れ、視界がくっきり広がるだろうから。

だから僕は、歩くし、話すし、人や海山川に飽きないんだろうな。

 

根拠はすべて自分、なので他人には一切合切関係のない話。

選んでくれるなら、喜ばしいだけの話。

「〜くん、変わったよね」と言われたい?

 

「昔あー言ってたけど、今はこー言ってる」

「昔あー言ってて、今もあー言ってる」

 

2つの文章のニュアンスは、良くも悪くも捉えられる。

 

「昔あー言ってたけど、今はこー言ってる」

良い:「あー」から「こー」への変化が素敵

悪い:「あー」から「こー」への変化が不安

 

「昔あー言ってて、今もあー言ってる」

良い:「あー」言っていることが昔からブレずに素敵

悪い:「あー」言ってることが昔から変わらずに不安

 

久しぶりに人に会うと、その人の昔に知っていた情報しかなく、頭の中のデータがアップデートできぬままの状態。だからどうしても、昔を基準に比べてしまうし、逆に比べられてしまうことがある。

僕自身でいえば、大学入学と一緒に沖縄を飛び出し、それからほとんどの高校の同級生には会っていない。だから久しぶりに会ったら”どう思うんだろう?” “どう思われるんだろう?”とふと過ってしまう疑問がある。

 

僕が東京在住中、沖縄の友人が偶然東京出張の機会があり、5年振りくらいの再会をしたことがあった。高校のときから大学生活の情報をつかんでいないまま、一気に社会人になった彼とぼくは久しぶりにご飯を食べながら話をした。結果を先にいうと、関係性も変わらず、楽しい時間を過ごせたと思う。

食事も終え、その友人が宿泊ホテルへと向かうべく別れる間際、「やー(お前)が東京に行って、都会っぽく嫌なやつになってたらどうしようかと思ってたけど、まんま変わらずで安心したさ」と声を掛けてくれた。

そう言われたときに、僕はドキッとした。だって僕もそう感じていたから。物事の変化は良さと悪さがあって、この時の2人は互いに変わらぬところに安心をしていた。

勿論、高校時に比べたときに、言葉の扱い方とか、物事の見方とか、人間関係もやはり変化していて、それは良い変わり様であるように思えた(僕側から見た感想として)

高校時代、10代そこらって、変に、妙にギラギラしていて、ちょっとした野望を持ってるやつは多かったと思う。何も知らないからなんだろう。知らないから夢を見れるってある。言っちゃえばアホだったしバカだった(今はましになってはいたとしても、アホとバカの感覚は変わらない)

けど、(大学に進むやつはそうして)20代前後を境に社会に出て、何故かしら現実に挫折してしまうことが多い。できること/できないことはある、だから現実を受け入れることは悪い事じゃない。ただ、だからといって野望をシュンと萎ませてしまうのは何か違う気がする。

さっき挙げたギラギラしたものを久しぶりに会った友人から感じることができなければ、僕は残念な気持ちでいっぱいになってたんだろうな、と思う。お互いそうでなかったことは、嬉しいし、むしろアドレナリンが出るような再会で良かった。

もうひとつ挙げておくと、変わらずに良いものって、本人の持ち味もそうだ。のんびりしている、マイペース、すぐテンパる、頑固、すぐ吠える、など人柄としての部分は変わらない安心につながりやすいかもしれない。

 

と、いつもながらにだらだらと書いたが、それなりにまとめてみようかな。

変化はしょうがない、場所が変われば、歳が変われば、まわりの人間が変われば、仕事が変われば、変わるもの。

でも変わらずにいいものあるし、変わってないと失望してしまうものもある。

ごくごく当たりまえのことを書いている。

 

最初の話に戻る。

 

「昔あー言ってたけど、今はこー言ってる」

多くの人や物や場所に関わって来た人は、色々な経験、実験をしていたりする。自分の考え方/価値観の破壊と再生を繰り返しているだろうから、「あー」が「こー」に変わることは良しとできる。

ただ自分自身が何も動かずに、自分に都合がいいように「あー」を「こー」と言い換えている人は、残念に思われる。悪い変化だろう。

 

「昔あー言ってて、今もあー言ってる」

どんなにめまぐるしい環境の変化があったとしても、自分の持ち味/感性をずっと持ち続けれている人は、やっぱり強いエネルギーを感じる。この不変の状態はとても好ましく感じる。

ただ昔から言ってた「あー」は今考えると甘っちょろいことで、今も「あー」と言っていれば、それは知人として少し切なくなるかもしれない。それはもちろん自分自身の過去から今への変化もひっくるめての話になる。当時から「甘っちょろい事なんか言って」と感じていたら、余計残念この上ないかも。

 

話をまとめてきれてないのは、うすうす気付いているけど、ここらへんでそろそろドロンします。

「変わったよね」のセリフの裏側には、ほんと良くも悪くも、さまざまな意味が含まれているから、ちょっと探ってみるのもよさそう。

そういえば、異性から言われる「〜くん、変わったよね」ほど、なんかドギマギさせる感覚があるかもです。

「変わったね」じゃなく「変わった”よ”ね」 が不思議と良い気がするのはなぜだろうか。

 

では、ドロン。

忘れる性と忘れさせたくない性

人は忘れてしまうものだから、どれだけ心に留めてもらえる存在なのかは、一大事だ。

 

ふにゃふにゃ過ぎるか、情報が荒波のように押し寄せてくる脳には、ちょっと気遣いが必要。

忘れてしまう特性をしょうがないと、なんの躊躇いなく認めてしまうのは、少し気が引ける。

 

そうそう捨てきれはしない、暮らしと仕事。ライフバランスは当然だけど十人十色、いや色はきわめて複雑すぎる。

住んでる場所が違えば、気候も季節も、それにつられて建物でさえ違う。

仕事も、当たりまえのように拡がる生活も、自分の常識をひょいと超えてしまうことなんだろうな。

 

大事にしていることは勿論、生活のなかで長く考えたいこと、あまり考えたくないことだって違う。時間を割き方は、気持ちひとつで移ろいじゃう。

 

常に一番だいじにしてることだったり、考えてみたいことだったり、アッと思い出してもらえる存在として、優先順位をちょいと上げてもらう心を丁寧につかうような配慮をじぶんの行動に付着させていたい。

それは仕事かもしれないし、恋愛かもしれないし、単純に遊びかもしれない。

相手が分かっているかもしれないし、相手は不特定多数なのかもしれない。

1日の限られた時間の中で誰かに想ってもらえるだけのエネルギーを、自分(もしくは自分がつくるもの、発するもの)が持ち合わせているのかは、一大事だ。

 

忘れてしまうものなら、嘆くよりも、忘れさせないよう、思い出してもらえるよう。

それでも響かなければ、それなりに納得させて潔く身を引くか、懲りずに新しい方法を考えるか。

単純作業をバカにするやつは地獄に堕ちる

単純作業の本質は、仕組みを提案することにあると思う。

 

近況報告として、10月まで奈良にいましたが、11月からは京都に戻ってきてます。年内はおそらく京都にいます。

10月中、奈良で何やってたかというと、ライティング系の仕事も山奥でこそこそとやってはいたのですが、半分くらいの時間を農業系に充てていました。

果樹園でファームステイしてたんです。今の時期は柿を収穫して、加工したり、出荷したりとセカセカとやっている場所でお手伝いをしてました。当たりまえだし、イメージ通りかもしれないですけど、やっぱり農業系は単純作業が多いです。

ただ単純作業は誰にでもできる、とかバカにはできません。単純作業を繰り返すにも、何も考えず作業をしている人はおそらく他の仕事をしていても何もできないんだろうな、と思えてしまう瞬間があります。

単純作業のなかで大事なことは「スピード」と「丁寧さ」。このバランスが崩れるといけないんですよね。早いだけでもダメ、丁寧なだけでもダメ。丁寧に早くができる人が、この単純作業業界では大事みたいです。

そんじゃ、より早く丁寧にするには?ってなると、やはりまずは量をこなさないといけないです。その中で身体感覚を研ぎすますんです。僕は柿の加工のために、柿の皮むきを1日1000個近くやってました。不思議と量をこなすとスピードも丁寧さもあがるもんです。

ただ量だけでは限界があります。今までやってきたやり方を変えないと、それ以上にはいけない瞬間がやってきます。そこで新たな仕組みを考えないといけなくなります。これまでやってきたやり方に甘えるのは簡単な話で、そこそこの安定感はあるんですけど、上は目指したいですよね。

アレでもないコレでもない、といろんな実験をこなして、新しいやり方を探りに探り、ふとした瞬間に悟りをひらくような感覚に心身ともに陥ります。これが単純作業を突詰めたカタチなのかなぁと。

だから、単純作業の本質は、仕組みを提案すること。

 

どんな仕事をしても、一番最初は末端の仕事をさせられることがしばしばかもです。いわゆる「ぼく/わたしじゃなくてもできる単純作業」みたいな。

ただこの単純作業でさえも、丁寧さやスピードに欠けていたら、上司は新しい仕事なんて任せたくないかもしれない。逆に「もっとこうすれば改善できるんじゃない?」と提案できれば、もっと他の事を任せてくれるかもしれない。

 

言われたままにしかできない、とか言われたこともできない、のをチェックするのに、”単純作業のこなし方”は重要なのかもしれないです。自分にしかできないクリエイティブな仕事をしたい、なんて妙にテンション上がる前にやはりまずは目の前のことなのかも。

そう考えると、単純作業には深い意味があるのではないかと、柿の皮をツーっと向きながら考えていたのが奈良での50%くらいの話でした。きっと一生分以上の柿と向き合ってきました。

今度誰かしらお会いしたときには、柿について語らせてください。

 

(*ただ単純作業が苦手でも、他の事が得意な人もいるよ、ってのも一つの事実だろうし、結局は適材適所だとは思ってます)

脳内GPS

何を選択するか、そもそも何を選択肢として知っているか、は大事。

「20代にこんなのやってた方がいいよー(こんな軽い表現ではなかったけども)」ってプレゼンテーション映像を最近観た。アメリカの女性心理カウンセラーがうん百人の患者と向き合ってきて、見いだした20代のティップスを説いてるかんじ。

特に「感動したっ」とか「人生変わるかも!?」みたいな劇的な感情は生まれたわけではないけど、うんうん、とスッと入ってくる内容が多かった。

 

その中の一つを挙げてみる。一字一句同じわけではないけど、

「自分とは遠い人と付き合いなさい」

と。知人とばかり付き合うのでなく、知人の知人、あるいは知人の知人の知人のような、遠い関係の人と付き合うと、想いもしなかった発見があるよ、ってことらしいです。

僕なりの解釈ではありますが、どうしても、自分と身近な人と付き合いたがるのが人間の特性なんでしょう。なぜなら単純に安心するから。不安にならなくて済むから。

同じ地域にくらしている、世代が近い、自分と価値観が似ている、だから共感してもらえる、と近い人ほど受け入れてもらいやすいからだとも思うんです。

だけど、”近い”といことは、裏を返せば自分が狭い範囲でしか過ごしていない、という恐怖が隠れてる気がします。自分の思う/感じる/考えることを受け入れてもらいやすい人としか付き合っていないと、本当の意味では世界は広いのに、自分で暮らせる範囲を限定してしまっている。

世界が狭いということは、その中で窮屈さを感じたときの逃げ道も少ないということ。苦しくなりやすいんだろうな、居心地のいい場所もどんどん少なくなってくるんだろうな、ということ。

 

ちょっと自分の経験と擦り合わせてみて考えると、今年1月から「家なし生活」と称して、ゲストハウスやいろんな人の家にお世話になってきました(というか今も進行中です)

そのなかで、ゲストハウスという誰が来るか選べない場所、他人の家といっても全員が直接的な知り合いではない、と先程あげた”遠い人”と過ごす日の連続で、20代でやっときなさい、ってのには乗っかれているのかな、と勝手に思ってます。ちなみに「一人旅」「世界一周」なんてのも、遠い人との接触があるから、いいのかもしれませんね。

話は戻して、”遠い人”は、どうしても価値観が違うなぁと思わざるえないケースも多々あります。でもそれは、自分が知らない世界を知るよい機会であって、自分が賛同できなくても、もしかしたら一つの正解の考えであって「そういう考え方もあるんだな」と多様な価値観を認めるターニングポイントでもあります。

世代、職業、地域、国籍、違えば違うほど、世界とくらしの範囲も異なりおもしろいです。ここで”おもしろい”という言葉を使うのは、その多様性のなかにいながら、自分の賛同やら考えを貫くやらの我を抑えられると、自分のいる地点を知り、世界を知り、新たな領土をひろげられるのかもしれない。

繰り返しにはなるけど、自分を受け入れてくれる場所だけを自分の世界でないと思い込んだり、そこだけで生きていこうとすればするほど苦しいと思う。

 

何を選択するか、は自分がこれから過ごしていく毎日に重要になってくるし、これは僕以外の人だってきっとそうだ。ただ狭い世界にいると、何を選択するかの選択肢が少ないことがある。よるある表現で挙手砕けども、配られたカードが多いか少ないかで日々の戦い方だって変えられる。まずは選択できる数を増やそうって。

選択肢をひろげる為に何ができるのか、その一つの答が「遠い人と付き合うこと」なんだと冒頭プレゼンテーションから僕は感じました。自分の考えを揉み解してもらえる、あるいは引っ掻き回してもらえる、強化してもらえる、そんな人たちが国内外とわずどこにでも散らばってるはずで。

個人的には海外よりも国内をみてみたいし、同世代の人への願いとしても国内に目を向けてほしいと思う。日本はおもしろい。”日本”でできることの選択肢を、日本にいる”遠い人”を便りに増やしてみてはどうだろうか。僕もまだまだ脆弱な価値観をひろげたい。

 

(選択肢をひろげた後は、閉じる作業に入る=選択する。ここが一番だいじなんだけど、誰に頼るでもなく、ここは自分でしか決められない。自分の考えがデニムだとすれば、着こなし、雨風にさらし、汚され、洗ってやらねばいけない。そうすればいい味が自然と出てくる。タンスの中に眠らしてはいけない。今のうちに自分の考え方の軸はつくっておきたい。自分らしい本当に大事な選択はいつやってくるかわからないから)#memod