ブログ(だ)ってさ。

 

「ブログって何?」とド直球で聞かれると、まだまだ曖昧さがあるな、と感じる今日この頃。「今日この頃」のフレーズは綾小路きみまろをiPodで聞きまくったがための個人的バズフレーズです。

最近はブログは、どうやったら続けられるのか、敷居を下げれるのか、書く価値を見いだせるのか、なんてことばかり考えてたりします。…考えたりするんですが、考えていても無駄なので、とりあえずここに書いてます。

 

ブログは、楽に楽しく書ける、ってのがすごく大事なことに思えます(楽に楽しくってのはどこにでも応用できる使い勝手のいい言葉ですよねぇ)

ブログを楽して書き続けるのは、ちょっと反則なように見えるけど、個性とおなじで、写真がおおいとか、リンクまで丁寧に貼ってるとか、それはブログのキャラ、もっと言えば記事のキャラでいいんじゃないかと思ってる。

本当はもっと読み手にみやすい書き方はあるんだろうけど、書く自分自身が楽しめないとダメだろうから、そこを優先して書き方は工夫すればいいはずで。

 

このブログなんて、テキストだけで、画像もリンクもまともな編集作業ですら放棄してるから、書く僕自身としてはまあぁぁぁ楽なこと楽なこと。同時にどんな形であれ、1本記事公開できるたびに積み重なるカタチが見えるのは楽しいもの。

ルールはほとんど決めず、楽だから楽しいから、負担なく自然と続いてはいるんだろうと勝手な自己分析。もっと更新頻度が安定してきたりすると尚好し、ってくらいで成績でいうと「優」でなくとも「良」はつけれる。

読み手よりも書き手の自分の気分とかモチベーションの為に更新している。他人ありきではダメなタイプの人間がこのブログの管理人です。

 

やっぱりメディアと名乗りはじめると重くなってくるのだろうか、そんな敷居をあげるほどに、カッコ付けて書くもんでもないと思うんだよな、ブログって。

ブログってさ、頭で考えるとむつかしいけど、書くと楽しんだぜ、と主張はしたい。ブログだってさ…と鼻で笑うやつはちょっと記事でぶん殴ってやりたい。

 

3年間隔のメッセージ

 

発しないと、伝えないと、何も変わんない。書くのも、喋るのも、つくるのでも、それが自分のなかで不安を覚えてたとしても、その時その時の全力を注げているものなら、発しなきゃ。

伝えてみて、反応がわかるから、失敗でも成功でも新たな発信ができる。待ってても何も変わらない、発してるからこそ待てるし、不安なものほど怖いものほど、自分なりの発信でぶち当たってかないと。

杭は出るから打たれるけど、出なければただそこにある杭で終わる、そもそも打たれる価値がなければこんな諺もできない。

一歩動き始めたければ、発する、伝える、出てみる。打ち返してくる人の存在と同時に、抜きん出ようとするのを手助けしてくれる、味方になってくれる存在も見つかる。

何がしたい人なのか、何ができる人なのか、何を考えている人なのか、他人から聞かれるよりも早く自分から伝えてみる。伝え方ですら、発していくなかで磨かれていく。やるべきことは分かってる、なら殻に閉じこもらず、表現してみなよ。

 

と、

最近3年後の自分を考える、みたいのをやってみて、逆に3年前の自分も思い出してみた。3年前の自分に、今の自分ならなんてメッセージを送るかな、と巡らしていたら、上のような文章が浮かんできたので、つらつら書いた。

言葉に捻りなんて無い。むしろそんな捻った表現なんてできない、ただストレートに。けど、過去の自分に喝をいれたい熱はほとばしってるつもり。実は、過去の自分に言うようで、弱ってるときのいまの自分に発してる言葉にも思えるから、やっぱりストレートな言葉のほうが自分に効きやすいからこれで良し。

3年後の自分には、また「3年前の自分に何が言いたい?」と問答したい。そう、今の自分に足りない部分を未来の自分に指摘してもらいたい。その繰り返しで、3年刻みが過ぎるといいなぁ。

別に3の数字にこだわる理由はてんでないから、意味をつっこまれると弱い。

とりあえず波及力から

とても大事なことば、波及力。

 

僕は優柔不断、かつ優先順位のつけかたを間違えることが多く、

でも一つのことにじっくりと、と集中力が続くほうでもないから困ったもんだ。

モノタスクよりもマルチタスクの方が好きだ、という自覚があるからだろう。一日ずっと英語の勉強をするよりは、国語や数学、倫理などを挟み込みながら気分転換しながらやらないと、しんどくて耐えられない/できないから、というのが本音ではある。

 

学生時代からとてもとてもお世話になってる先輩に顔を見せに、先日行ったんです。その時に、色々と話をして、色々としたもんだから、その色々をどうやって処理するのがいいと思いますか?仕事のやり方で気を付けることは何ですか?と尋ね、アドバイスを請いた。

すると「波及力があるものから手を付けるといいよ」とお言葉をもらい、それをいま大事にしている。

 

自分がこれからやる仕事でもプロジェクトでも、”それを終わらせたらこう未来に影響していく”という想像をしながら、目の前のことを取捨選択していくこの作業、結構大変ではあります。一方のところ、何が波及力が大きいか?と自分のなかで自問自答するのは楽しい作業であります。

 

波及力という単語だけを捉えると、少し打算的な意味合いも含んでいそうだけど、でも自分の軸を築き上げるには、ちょっとした戦略やら目標意識はあるに越したことはない。後で効果測定ができるのが理想なんだけどな。

そう考えると、どうしても「好きで、得意で、かつ(ここが必須なんだけど)役の立つ」の3つの要素がうまく絡まれば絡まるほど、波及力の大きいものも作り上げることができそうだ。

基準があると迷いがなくなり、迷いがなくなると作業効率があがる、おそらく吹っ切れるから。波及力(影響力)は一つの基準として持っておけるといいんだろう。そしてこの考え方は身体に染み込むまでは嫌でもしつけしないとなぁ。

 

個人的なイメージとしては、ハンター×ハンターの念能力にもある「円」の領域がより広くなる条件のものを選んでいくのだ、というかんじ。

こんご僕がつくるものの波及力の仮説&検証を繰り返しながら、僕自身の波及力が拡がっていくのがなんか理想なのかもしれない。

 

農園でいじりまくるパソコン

農業体験をしにきたのに、デスクワークばかりしている、この不思議。

 

いまファームステイしている農園では、収穫したり、土地の手入れしたり、最初はそんなイメージだった。六次産業やってるから、加工やら、何からまで何までやってる場所ではあるから、そういうお手伝いもするんだろう、と腹は括っていた。

だけど、パソコンを触り続ける、自分の好きなことばかりできる環境が、農園にあるとは思わなかったなぁ。

 

ウェブで記事書いてます、ちょっとサイトいじれます、EC関連ネタ記事を扱ってました、一応メディアでソーシャル活用してます、なんて話を社長さんにちょろっとしたんです。そんで自分の農園で扱うSNSとかECとかの感想を述べてたら「なら、ちょっとみてくれんか?」と軽く頼まれて、ECいじりをしていたら、新しいサイト作ることになったり、販促キャンペーン打つことになったり、なんかもう色々とさせてもらっている。提案したら提案した分だけ、「なら、やってみて」と許可がおりるこの感じ、ありがたいです。

 

フレッシュ/加工品の果物、という売りたい商品自体はもうあって、業務的にいえば、その広報PRやウェブ販促を自分が考えるイメージ通りに進めれそうなので、六次産業で必要になっているウェブ担当になれた気分。自分の得意分野がここで活かされたのかもしれない。

ただ一つ言うと、得意分野でも僕ができる範囲やスキルってのは、首都圏にいたら溢れるくらい凡なものであって、奈良の、また農園をやっている、ウェブを扱える人が少ない場所だからこそ、活きているというか価値が高まってしまったんだろうな。

都市と地方の違いはここにあるのかも。もちろん業種もあるのだろうけど、「農業×インターネット」のキンキンで必要に迫られている感覚を当事者になって味わえている。自分の中身(コンテンツ)は変わらないのだけど、場所をかえるだけで、市場が変わるもんだと実感している。

 

僕はこれからも地方をうんと回っていけたら(なるべく沖縄とか離島におおく居座りたい)と思うんだけど、地方にいく意味をより深く考えるようになったなぁ。自分なんかのスキルでもどうにか役に立てる場所がある、人やものをつなげる可能性があるってのはありがたい。

いろいろと巡って、その地域に参加する人を知って、その人たちがつくりだすものを理解することで、さらに場所を移れば、自分が動く広告みたくなれるし、メディアで記事を書き溜めればもっと伝播は加速するはず。

新しい土地で、見て聞いて学んで、自分のスキルの市場価値をためす、自分の働きかた/仕事をつくる、そんな修行をもっとやっていきたい、改めて感じているし、以前よりもその感情は強い。

のび太さんのエッチ

見過ごしていた日常に、もっかい目を向けてみる。

些細なことだし、ごくごく当たり前なのに、それが特別かも、と気付く瞬間がある。

 

シャワーさえ浴びれればまあいいや、のスタンスでたいていは風呂に入るんだけど、

最近では浴槽に湯をためて、じっくりと肩まで浸かって一日を振り返る習慣がついてしまった。

これって実はとても贅沢なんじゃないかって思う。

多分それは、時間に余裕ができたから、変に焦りがなくなったからだろう。

シャワーで済ませる生活が続くってのも何か追われて追われて過ごしている気がする。

一息入れる場所は必要で、それを湯の空間に委ねられているわけで、まあまあの贅沢な気がするわけ。

ちっちゃいことだけどね。

 

手を少しジタバタさせてみて、ポチャンポチャンと水の音を確かめたりする時間まであったりする。

どうでもいいけど、水が動く音は、流れたり、跳ねたりでも何でも、澄んだ気持ちになる。

日本人の禊の精神が、水の音から何かを予感させるからなのか、なんて無駄に考える時間まであったりする。

 

温泉とか銭湯のあの大衆の雰囲気でなく、また外というアウェイでなく、自分のフィールドとしての湯の空間はいいみたいだ。

ゆっくりと湯に浸れているのか?と今後じぶんへの質問事項としてストックしておこうか。

 

浴槽では、肩まで浸かって、その後にどうしてもやりたくなることがある。

目を閉じ、さらに深く、全身を浸かるために、頭を沈めて、耳に集中してみる。

コポコポとした音が聞こえる、きっと水中でなきゃ掴めない特別な音。

鼻から水が入り込もうと襲ってくる、それに抵抗している。

息が苦しくなる、でもギリギリまで頭を上げる気もない。

頭まで漬かると、生きてる、って感じがする。

水中から引き上げた頭が呼吸をし始めると、あ、また動き出した、

お風呂に入る前よりはずっと澄み切った現実に心が向いていくんです。

 

いい湯だな、はははん。

形に無いものこそ、在れ。

なぜ妖怪がオモシロいか、って話。

そんな話を書こうかと思ったんだけど、引っ込めておこう。

 

あらためてお題。

なぜ全く同じ商品が、全く違う値段で買われていくのか、満足度が変わっていくのか、って話。

これだと少しは体裁を保てるかな。

 

普通であれば定価100円のボールペンでも、値段が変わる事がある。

値段だけじゃなくて、消費者が購入する時の気持ち良さがも変わる事がある。

この時点で「え、それは場所が違うから、希少価値が違うからでしょ?」とか突っ込まれるんだろうか。

富士山頂上付近のカップヌードルのそれの話をするつもりはないんだけど。

 

ちょっと似たような条件下でも、変わるもんは変わる。

例えば、バーでお酒を飲むとしようか。え、私お酒呑めない〜、ってひとはノンアルコールカクテルでも頼めるから、とりあえずバーにいる気になってほしい。

わかりやすくジントニックでも頼もうか。一杯700円。これをさっきのボールペンの定価みたく、基準としよう。

この1杯700円のカクテルを、ただ飲むだけ、何事もなく、それだけでお店を去る事にする。

あら偶然、隣にもお店があるらしい、入ってみよう。同じくここでも一杯700円のジントニックを頼む。

正直言おう、味はさっき隣で飲んだ一杯となんら変わりはない(いや、味なんてわからねぇよでもいい)使っている材料だってグラスだって同じもの。

ただここではマスターがお酒ができるのを待っている間に、声をかけてくれた、絶妙な具合に。

ちょっと雑談をしていると、ジントニックがコースターの上にひょいと置かれて、一口二口三口…と飲み進めながら、一緒に会話の口も動いてて、ずっと開けっ放しでね。

二杯目頼みたい気持ちをグッと抑えながら、とりあえずまた店を出ようか。

 

同じ700円を払って、楽しめたのはどっちだろうか、言わずしてもわかる。

ここで言いたいのは、声を掛けてくれるバーテンダーがいるかどうか、って単純な話じゃない。

意地悪な質問をするけど、2件目のお店がジントニック一杯800円だとしても、行くか?

とても重要なこと、ここでYESとなれば、価値の違い(つまり価格差)が生まれてくる。

 

お酒を飲みにいき、同じクオリティのカクテルを飲んだのに、満足度が違うのはなにか、価格差が生まれても許せる理由は何か。

それは1人で行っても1人で楽しめたり、マスターと話せたり、逆にそっとしてくれたり、と飲酒に加えて、ある一種の「体験」があること。

これは目には見えないもの、形こそ無いけれど、人を気持ち良くしてくれるやつ。

 

どうせ気持ちよく飲むなら、サービス(よい体験をさせてくれる)がいいから、あそこで金を落としたい、てのはそんなもんで、同じお酒という商品でも、値段はそりゃ変わるよね。

同じバーでも、細かい所が違うから、安い店、高い店、それなりの理由がある。それを読み取れる大人な目をバーで、お酒を通じて培っていくんだと思うんですよ、話はそれるけどね。

 

本題に帰還。

そう、「体験」こそ形なき商品、お金に値する価値はある。

海外のチップとかみたく、おおっぴらげにせず、隠れて提供するのが日本人のいいとこだ。

形ないものだけを売ろうとすると、なんだか裸の王様みたいでそれも嫌だしね。

本来はお酒を飲みに行く場所なのに、お酒が飲みにいくのが真の目的じゃなくなれば、これはオモシロい。

ある1つの体験を得るためのツールがお酒みたいな具合に。

 

「体験」に付随するものは、まさしく「五感」だと憶測してます。

人や空間と触れ合う事で、何か強い衝撃といか刺激というか、身体ビンビンにしながら感じれること。

そんな体験は、不思議と自分の人生替えちゃうんじゃないか、ってくらい凄いのもあるから、大袈裟なことだよ。

 

モノは溢れてて、どこにでも同じような、似たような機能だったり、共通点があったりするのが沢山ぎょうさんあるから、

自分が手に入れるモノには、自分だけの体験を求めてしまうし、今後はもっと体験が求められるはず。

よくまあ本に出てくる言葉でいえば商品でなく「購入体験」を売ろう、とかそんなかんじ。

でもそうだと思う。

 

僕らは生きていて、生きているからこそ、自分たちが本能的に兼ね備えた五感は尖らせていかなきゃ勿体ないし、個性を留めてくれるかもしれない。

 

形在るものばかりが生産され続ける時代だからこそ、

形に無いものこそ、もっと世の中に在れ、と強くねがう。

 

ちなみに、妖怪も形なきもの。なぜオモシロいか、その理由は暗に触れれたかもしれない。

知らぬが仏、知っても仏。

知らなければ良いこと沢山ですね。

でも、知らなくても知っても仏、嬉しいもんもあるにはある。

 

文章を書いていて、一番苦労するのは「文字数」との戦い(これはわたくし事ですけどね)

文字制限や最低何文字以上とか考えながら書くと、変に脳みそぐちゅぐちゅにかき乱してしまい、手が動くスピードが弱まるときがある。

いや正確には、思考停止、体のコントロール効かず、手さえ動かないときもある。

それくらい文字数は怖い。おっかない。どこの誰よりも文字が厄介だ。

 

ただですね、「とりあえず書いて」と文字指定なくいわれ(特に自分で決めれて)、ストレスなく書けるとおっかない程スラスラと書ける時だってある。そんな時ほど、文章が整っていたり、字数もそれなりに稼げていたりする。

文字の枷(かせ)を”知っている”かどうかで、意識の有無でパフォーマンスが変わってしまうこの事実。

これをちょっと「知らなくても知っても仏、嬉しいもんもある」としてみる。ただここは解釈の仕方は注意が必要(だと書いてて気付いた…汗)

 

まず、文章を書くとき、文字数を知らない方が僕にとってはWINだ。ストレスフリーで伸び伸びと、意識しているときよりもパフォーマンスが高まる。(ルールを)知らぬが仏がここで成立。

次に、でも書き終わった後の話です。ずっと文字数を知らないままでいるのは少し気持ちが悪い。ここで文字数を確かめてみると、「あー意外といけてる」とちっちゃな成功体験につなげられるし、自分の扱い方が少しわかるんです。だから知らないままでいるのは仏ではない。

最初は知らぬが仏だった、けど、後からは知らないと邪な気持ちになる(大袈裟な表現だけど)。そこで文字数を知ることで、無意識だと自分はできるという事実を認めれる、自信につながるのだから、知ったほうがいいわけだ。という展開で、(事後は)知っても仏が成立する。

 

無意識にしてみて意識化してみる、ってのをこの記事の教訓的なコトにしておこうか。

無意識的にとりあえず書き始めてみたけど、振り返って意識してみると、まあまあ発見があったよ。

こじつけたロジックが本当に俺好きなんだな、とトホホとフハハな気分。

 

思考の散歩、ないし一人歩きでした。

アナログ怪奇

対義語。

wi-fiモード、オンとオフ。

オフラインとオンライン。

デジタルとアナログ。

 

目には見えない(光?なのか)回線のせいで、いや、おかげかで、僕らの世界は2等分にされた。

例えば、Twitterはどうだ。Twitterはオンライン、デジタル、wi-fiはもちろんオンの状態でなきゃ。

オフライン、アナログ、wi-fiオフのときの”自分とは違う自分”をアカウントとして作り出す事ができ、この舞台で演じ、名声を得ることができるようになった。デジタルの中だけでの会話も可能となった。

“目の前に人がいなくても”いるような感覚、を与えてくれる、

悪い意味では錯覚、良い意味では支え、を作ってくれるのがデジタルだ。

 

一度等分された世界を知ってしまうと、もう元々の一つの世界ではフラストレーションが溜まるようになってしまった。

オフライン、アナログ、wi-fi拾えない場所にくると、神経ぴりぴりしちゃうような。

もうデジタル無しでは生きてはいけないような戯れ言まで飛び出てくる。

 

でもちょっと待ってみてくれ、何もしないで、一日でゆっくり過ごしてみよう。

紙の本を手に取ってみる、紙質は何だろうか、ザラザラするのか、はたまたツルツルか。

重みはどうだ、そして、ペラペラとめくる感触を確かめてみる。

 

次に外に出てみる、公園にでもいこう、目をまんまると見開いて、あたりを見渡せば、季節を感じることができる。

いつも歩く道にでも、何かはひとつ新しい発見がある。

ベンチに座って、目を閉じて、耳を澄ませる。聞こえる音は何だろうか。

虫や風、木や動物の息が聞こえてくる。

 

立ち上がって、人が溢れる場所に行き、人の動きをみてみるのもいい。

一旦、家に戻ってみて、着替えてみてからのランニングなんかもいい。

瞑想なんかしてみてもいいね。

 

そんなこんなで、一日が過ぎようとしてる、デジタルに触れたか?

いや今日はそんなことない、スマホにすらに触ってない一日だ。

アナログ人間だった、今日は。

 

考えてみれば簡単だ、デジタルに触れなくても、もう一つの世界に顔を出さなくても、一日は何ら変わりなく過ぎていく。

極論、死ぬわけもない。

 

2つの世界がごっちゃになってる人、1つの世界に依存している人、もうかたっぽの世界の存在は知っているけど怖くて足を踏み入れない人、いろいろだけど、人間は本来アナログで生きてきた。それが本能的であって、自然的であって、無理のない状態。

 

現代人だから勝手は違う、って言えばそれはその通りなんだけど、だからといって、波に流されるがままにってのは恰好は良くない。波乗りしなくちゃ。

つまり、デジタルとアナログを使い分けること。

まず2つの世界を切り分ける、認知する。そこから

 

1つだけ強く言わせてもらうと、人はデジタルにいるより、アナログなほうが五感が使えるから、きっと楽しいはずだ。そうできている。

アナログの状態をより楽しませるためにデジタルはあるよ、って言うなら、そりゃ賛成だ。

そこに人がいて、顔が見えて、おたがいが何かを感じられる状態があるなら。

 

だらだらきたけどさ、言いたかったのは、

人間は、アナログだったんだけど、デジタルという大きな大きな、まだ宇宙のように広がりのあるツールを手に入れた。

これって凄いこと。

だけど、現代はデジタルが過度になりすぎちゃって、根本であるはずの土台であるはずのアナログが破壊されつつあるって話。

だからデジタルを駆使して、乗り越えて、アナログを手に入れなきゃいけない時代になってきているのかもしれない。

それは近未来とか、俺は関係ねえ、とかそんなこと言われるとしょうもないけど、とにかくそうだ!と思うんだよね。

 

アナログを手に入れられる人間が、”当たり前”を手に入れる人間が、何かたいせつなものを未来につなげることができるんだろうって。

 

本当はタイトルを「アナログ回帰」と書きたかった。

京都→奈良(80km)ちょっとだけチャリ移動。

とりあえずブログ、とりあえず復帰しました。

京都から奈良に移動してて、ちょっとバタバタしてたんだけど(特に回線の問題が複雑だなぁ)とりあえずブログを書き始められる、オンライン作業、ひいては仕事もできる状態は増しになったから少し安心してます。

今は奈良五條市にきてて、奈良でも南の方で、ちょっと西にいけばすぐに和歌山に入っちゃいます、ってとこにいます。

ファームステイで、農園にきてまして、ブルーベリーとか”かりん”とか栽培してるんだけど、今の時期は柿をやってるところ。

そこは最近でいう「第6次産業」という、1次+2次+3次をすべて自分たちで取り組む農家で、ちょっと中でお手伝いしながら、どんな感じか様子を見させてもらってます。

これって結構、貴重な体験なのかも。

 

…て極近況はさておいて、奈良五條市に着く迄の話。

京都から兄貴譲りのチャリ(GIANT/ロードバイク)で下りました。

京都駅を夕方5時半くらいにでて、休憩なり、写真なり、ちょっと迷ったり、で気付けば深夜2時前後に到着。8-9時間くらいか。いやぁ、遅いペース。

山を上がったり下ったりでしんどかったし、実は初の長距離移動で(慣れてる人は1日100kmとか移動するから、そんなでもない距離だろうけど)、そんでまた深夜だったもんだから、いい初体験でした。

深夜のトンネルを走ったとき、シンシンと走っていると、スーッとした音がちょっとずつやって来て、やがてうしろからゴゴゴゴゴッと耳を襲ってくる爆音にはビビったなぁ。まじちびるかと思った。ただの乗用車でも、2tトラックくらいの馬力をトンネルの中では感じたし。

そんで、その時、急に漫画「地獄先生ぬ〜べ〜」で読んだ「ジェット婆」のイメージがフワッと思い浮かんだから、なんか身の毛もよだつ思いで、ほんと久しぶりに”恐怖”を感じたかも。。妖怪ってほんとにいるよね、って再実感。頭でなく体で。

 

途中、ライトであまり前が見えない場所で、ガードにクラッシュして、空中で半ループした体験もびっくりしたけど、とりあえず怪我もなく、荷物もチャリも無事で、何よりメガネが吹っ飛ばなかったのは助かったぁ。深夜でメガネ無しで、視力奪われるのが一番怖いんすよね、超近視だから。

 

そういえば、奈良の目的地に着いたら着いたで、駅近にTSUTAYAがあるのを出発前に確認してたもんだから、そこそこお店もあって、どっか休むところあるだろう、とあまり深く知らべずだっから、ふたを開けてみるとコンビニさえ車でなきゃいけないような距離にあって、何も無くて、あ、ホントに田舎に来たんだと思わされた。

てことで、朝まで時間潰さなきゃなぁ、と市内を快走してたら、急に車につかまって、警察に職務質問されちゃったりね…そりゃ、田舎で警戒心が高い地域で、ロードバイクすらあまりみない道路で、深夜だし、なんかキョロキョロしてるし、怪しいよなぁ、と思ったけども。職務質問する人のあの変な疑り方はちょっと引くよなぁ。通算3回目の職質でした。

 

まあ、なんだかんだありながら、奈良で約束していた人にも会え、昼間にはどうにか農園にも辿りつけ、いまに至ります。

あ、もちろん次のはバキバキの筋肉通でした。下半身も上半身も背中にそこそこの荷物も背負ってたからかな。

出発前に京都でお世話になった方々、本当にありがとうございます。

 

うん、ちょっとだけ整理できたので、とりあえず今日は終わり、他の記事とかも書かなきゃだし。

かなりこのブログが、書くためのウォーミングアップになってると感じてるので、ちょいちょい続くと思う、いやそう信じたい。

読み直すと、どうでもいいことなんだけど、だらだら書くの愉しいわぁ。

こっから本記事ネタにつながることを祈りながら、下書きから公開へ。