スマホで書けたらいいな。

とりあえずあえず、このブログのことなんだけど、なんとなく続いてるし、なんとなく今後も続く気がする。

画像を選んだり、リンクをはっ付けたり、そんな手間がまず省けていて楽だから。

特に編集作業をするわけでもく、文章の構成なんかもバラバラでも、書きたいことも書けてるから、なんか気持ちいいし、楽しい。

いつも記事を書くときにある頭の中のプロセスを全て文字にしてるような、雑さなんかも書きながら確認できているし。

きっと普段自分がしゃべるように書けているのかもしれないな。

 

楽しくて、楽だと、やっぱり続くんだと実感していますよ。

その仕組みを自分のなかでどうつくっていくかが戦いなんだけども。

ブログであれ、仕事であれ、プライベートであれ、きっと何でも。

苦しい仕組みにいじめられるくらいなら、自分でその仕組みから抜け出して、仕組みをつくる側にまわらないとつらいだけ、待ってるだけもつらいだけ、とりあえずやらなきゃだよね。

 

少し話はそれたけど、またブログの話。

いまこうやって文章を打っているのは、パソコンで打っているわけですよ。

パソコンを開く手間をはぶけたら、もっと気軽に、もっと書けるようになるんじゃないかと思う。

もう生活必需品として持ち歩いているスマートフォンで書けたらこの上ない、とさらに思うわけです。

 

wordpressアプリをインストールしたし、もう書ける状態にはなった。

これでスマホ投稿が定着してきたら、とりあえずあえずブログにちょっぴり革命が起きるかも。

スマホで記事を読むのはもう当たり前でも、やっぱり記事を書くのはまだまだ定着してないもの。

この仕組みうまく整えたいな。

とりあえず公園でも散歩しながら、スマホで書けたらいいな。

 

ゆっくりと歩くなかで見つかるもの、それにハッとしながら、影響受けながら、文章を書いてみたい、それだけなんですけどね。

人を編集する

ほら、探せば、おもしろい人って沢山いるよな、って。

その反対につまらないな、と感じてしまう人も、特に言えば大人もいるんだけど。

そういう人を見ながら、自分に重ねて怯えながら、毎日を過ごせている気もする。

おもしろい人に対する好奇心と、つまらない人に対する恐怖心で成り立っている。

 

自分のなかで「おもしろいっ」と思っている人でも、何故か他の人からするとおもしろくなかったり、場面とかメンバーが変わるとおもしろい部分を伏せている姿をみると、あ、なんか勿体ない!と僕は思ってしまうわけで。

その人の”おもしろい”を上手く編集して、まわりの人に、どんな場でも、伝える事ができたらなぁといつもいつも強く強く想うんです。

編集ってことは、核となる素材は変わらないんだけど、見てもらう(魅せたい)相手を意識しながら、ちょいと手を加えるんです。

持ち味をどれだけ引き出せて、活かせて、魅力を感じてもらうかってのが、やりたいことなんだよな、きっと。

 

人(詳しくは、その人の面白み)を編集する、これが仕事にできたら、どれだけいいことか。

メディアの場を通してできたらいいなと思うし、自分がおもしろいとワクワクしてしまう人を、同じように第三者におもしろいと思ってもらえるようなことをしたいんだ。

冒頭で触れた、恐怖心を煽る「つまらない」も大事なんだけど、僕のまわりに関しては、それがなるべくない状態をつくれたらいい。

多くのおもしろいを見つけたいし、多くのつまらないを殺したい。

 

自分だけのおもしろいは自己満足、それが人のおもしろいにもなるプレゼンテーションと繋げ方をする、ただそれだけ。

アメトークの「〜芸人」がニッチなおもしろさを、視聴者にも伝えていくあのかんじ。

言葉上はかんたんなんだけどなぁ。。

 

とりあえず、まず自分がそれ相応におもしろくなれ、って話か。

やや納得。

とりあえずの向こう側

とりあえずやってみよう、

みたいな「とりあえず精神」は言い換えると「トライ&エラー精神」だと思うんですよね。

とりあえず書く、とりあえず走る、とりあえず喋る、

なんでもだけど、とりあえずの量を増やしていけば、とりあえず量はこなせるわけで、量を超えた先には質が待っている気がする。

それが「とりあえずの向こう側」ではないかと。

「〜の向こう側」 は凡庸すぎる言葉だって分ってたけど、とりあえずそう表現してみてます。

 

動かなくて、大事なタイミングを見過ごしてしまうのは、つらいしな。

仕事とか恋とか、もろもろ、きっとそう。公開する時は、とりあえずでも動けなかったとき。

 

腰が重くて、頭でっかちで、動き始めるのにハラハラしてしまう僕なので「とりあえず」はまあまあ魔法のことば。

同世代、下の世代もわりとそんな感じなので、とりあえずやってみたらどうだい、と言いたいときもある。

とりあえず、おそるおそる、片足前に進めてみて、片足留めてみて、でもいいんだろうから。

 

トライ&エラー、失敗は大歓迎、失敗しなければ何も生まれない、失敗したんだって感情も大事、失敗はそもそもネガティブな言葉でもない。

何か脅されて、怯えながら、無意識的に動けないんなら、とりあえず、やりたい方向にむかって1mmでも踏み出してみる。

これだ。これだよな。と自分にも改めて言い聞かせる。

 

とりあえずの向こう側にいきたいな。

とりあえず動く、とりあえずそれを続ける、そしたら掴めるもんがあるんだろう。

そう妄想を抱きながら。

 

とりあえず今は待つ、はダメだよ。

本日も「とりあえず」の乱発で五月蝿い文章だったな。

 

つながる安心と不安

なぜ若者はつながりたがるのか?

という言葉を10コ上の先輩にもらったときがある。

FacebookもTwitterなどで「フォローするね」「友達申請するね」のオンラインなつながりもあるし、単純に”コネクション”(僕は嫌いなことばなんだけど)と表しての誰かとのオフラインなつながりの両方を指すもんとする。

つががることで2つの相反する感情が生まれると思う。
一つは安心、もう一つは不安。誰かとつながってしまった、その出会いから生まれる安心と不安。

安心はほっこり、不安はヒリヒリというかんじでしょうか。

ただ、安心は油断大敵だ。そこから動くことを妨げてしまう。居心地がよすぎて。
冒険にでかけなくては、ダメだし、そこに変化は見つけにくい。
自分が築いた唯一の安心でなく、他人から借り物の安心だからだ。
安心しても、実際のところでは、それが動きにならないのであれば、つながらなくたっていい。
つながることに安心を覚えたら、何か違う気がする。

不安は歓迎しよう。追いこまれるヒリヒリ感は人を動かす。
変化が求められる。だから人は動く。動く中で、身体だけじゃなく、頭の中身も変わってくる。
どんなに腰が重い人であっても、ヒリヒリ感が高まれば、否応がなしに動く。
ただ一つネガティブに不安を扱っていくものでもないだろう。
不安を受け入れる事で、自分が変わるチャンスを受け入れるということ。
つながったからこそ危険をかんじ、何か動かなくては、という感覚は自分を変えるし、自分がそんな人物になる可能性だってなきにしもあらずだ。

何かをつなげる仕事でも企画でもしたいひとは、その安心と不安を心得ておかないとな。
安心をつくる為につなげても、ぬるま湯を与えるだけであって、そこから抜け出そうとはしない。
不安をつくる為につなげるのであれば、何か人が変化するきっかけと場を与える事になる。

メディアをとおしてやりたい事は、ヒリヒリ感を与える事、動き出さなきゃという胸騒ぎやそわそわする気持ちを生み出したい。
実質それが原因で、それのおかげで、なんか今これやってますとか、動きが生まれたら嬉しいもの。単純に。

個人的には、安心の為にはつながらないし、不安の為につながりたい。
自分にきびしく、人にはやさしく、だけど、誰かをつなげるときにはまたきびしく。

つながりたい、と安心を求めるための、浅はかなことはやめたらどうだ。

恥部をさらすお祭りはない

恥部はさらしていけばいい。

物理的恥部じゃなく、精神的恥部のはなし。

物理的なものは、セクハラまがいになるから、勇気あってもやらない方向で。

 

あと数回以上「恥部」って普段聞き慣れない、使わない単語を使ってやろうと思うけど、恥部がない人はいないんじゃないかって思うのよね。

隠しているから傍から見れば恥部が無いように見えたり、本人も無意識に隠してるとそもそも無いと思い込んだり、そんな感じだよきっと。

 

でもね、恥部はあったほうがいいし、隠すよりは、さらしてみて、恥部だけどなんか良いよねって人から言ってもらえる、見せ方を試行錯誤していったほうがいいのかもしれない。

そうしていくと、恥部はいつの間にか、恥部じゃなくなっていて、自分を表現する象徴する、大事な一部になっているはずだ。

恥部はもしかしたら、簡単に言ってみると、自分の弱みとかカッコわるい姿なのかもしれない。

でも弱みもカッコわるいも、ある角度からみれば、強みにもカッコいいにもなり得るよね。

正面からみるのと、横からみるのでは、顔って違って見えるのと同じで、よい角度を見せる工夫をすればいいじゃん。

 

自分の恥部ってなんだろう。恥部がいいたい本当の自分はなんだろう。

そんな難しいことを考えたいんじゃなくて、ただ「恥部」を連呼したかっただけなんだけど、いつの間にか500字は超えていたので、ここらで終了。

恥部よ、さようなら。

メディアのリアリティ不足を告ぐ

リアリティが足りない、これって問題だよな。

もしもメディアにリアリティが足りないとしたらどうなるのか。

 

メディアの役目って、ぼくのなかでは、3つある。

1つ目は、知ること。

2つ目に、考えること。

3つ目に、動くこと。

 

読者がその3つの体験を、段階的につないでいくことがメディアの役目じゃないかって思うんですよね。

特にwebメディアであれば、インターネット環境さえ整っていれば、知る機会をまずつくれる。

次に、知った事を、知っているだけ、頭の倉庫につめているだけだと、全く以て意味はないから、自分なりの使い道を考える機会につなげていく。得た知識を死産させてはだめ。自分の頭のなかの個性と知識をコラボレーションさせて、創造していく。これ考えること。

最後に、考えたことを頭の中身からカタチに見えるものとして取り出してみる。実はむしろ知識も自分の口なり手なりから飛び出してこないと、身になったとは言えないから、この動くのは大事。テイク、アクション。

 

知識が溜めるだけのメディア、考えるきっかけまでは分け与えるメディアはそこそこある。

だけど、実際にそのメディアのある記事に出会って、ぼく/わたし変わったんです、こう行動したんです、は結構少ない。

でも人と人をつなぐために、人がよりよく動いていけるように、世の中のすべてのツールに意味があるとするなら、メディアだって、人を動かす力が無いと、ただの自己満足程度なのかもしれない。

 

例えば、カクテルの記事を書く。

こういうレシピのカクテルあるよ、って人に伝える。

カクテルの材料を買い出しにスーパーに足を運ぶ。

シェイカーをしどろもどろでも振ってみる。

自分の舌で味わって、感想を言う。

すべて、動くこと。

メディアの文章なのか、画像なのか、映像なのか、それはわからないけど、頭の中の飛び出させ、リアルに動いてもらう、そんな体験をつくりだせたらいいなぁと思う。

 

最初の話に戻る。

リアリティのないメディアってのは、人が動かないメディア。

アクセスpvとかそんな数字は問題じゃない。

メディアであつかう事象に、リアリティを感じない、どこか別世界の話だと思わせてしまう。そうだといいなぁと。

人が動かないのは、ふーん程度に、頭に死んだ知識を貯えさせ、自己完結へと追い込む、そのレベルでしかメディアが性格を持ちあわせていないから(と厳しくみてみる)

感情をわしづかみにされる、グッと引っ張られる、そんなメディアはじぶん事にできるきがする、リアリティがある気がする。

リアリティとは共有、自分の世界とある一つの世界にある物や人や場所を、共有できることなんだろうな。

いまの所のメディア持論はそんな所。

今後アップデートされる予定なので、これは完成形じゃないよ。

 

まなんで、へこんで、やさしくなる。

なぜ人は学ぶのか、新しい事を知るのか、求めていくのか。

なんでもいいんだ、自分が興味ある事ない事、どちらでもない事。

学ぶ意味ってなんだろな、と時折ふわっと頭をよぎる。

 

きっと人に対して優しくなるため。

表面的な事実だけを見て、自分が感じたことだけで物事を意見するのでなく、

その裏にある背景や、何層にも重なるレイヤーをどれだけ読み取る事ができるか、

人を理解するのに必要な解釈の方法を身に付ける。これが学ぶ意味なんだろうな。

 

学ぶは”まねぶ”で、真似をする事から入る。

頭の中だけでわかっているよりは、実際に自分の体にシンと馴染ませながら、体で真似び、同時に頭で学ぶ。

誰よりも知識がおおくても、他人への理解や配慮が少ないなら、ただSDカードが頭にはいっただけの単純人間。

知識を出し入れするだけの倉庫のような頭にしちゃだめで、自分で考え、知識をうまく扱えるのが学ぶこと。

 

人に優しくなる為に学んでいく。

もっともっと、深く深く、広く広く、多角的に。

 

新しい事を学ぶと、なぜへこむのか。

そりゃ、自分の物事の捉え方の小ささ、解釈の余地に難があったと、気付いてしまい、恥ずかしくなるから。

学んで、へこんで、優しくなる、この循環をたいせつにはしたいよね。

あえず考察

ブログタイトル「とりあえずあえず」の「あえず」について。

 

漢字に変換してみる。

会えず、

合えず、

和えず、

遭えず、

逢えず、

遇えず、

韲えず、

「一致」したり「対面」したり「調和」したり、なんか言葉みたいですね。

完全に音のリズムだけでブログタイトル決めたから、なんかいいかも。

 

 

カタカナにしてみる。

アエズ、

惑星の名前っぽい(あくまで独断と偏見)

惑星アエズは、なんか孤独な場所っぽいな。

 

アルファベットにしてみる。

aezu、

AEZU、

なんか一つのブランドみたいな高級感ある響きなきがしちゃうのは僕だけか。

 

とりあえずあえずは、

とりあえず、誰にも逢えず、何にも和えず、どこにも合えず、だけど宇宙のもの悲しいロマンが少しあって、少し高級感があるブログってことで。

とりあえず眠気が2つ3つ襲ってくる。

ひさしぶりにオールをした。少しの反省とともに。

 

徹夜をなぜオールというのか?

と一瞬疑問に思ったけど、よくよく考えたら答は簡単だったので、少し恥ずかしい気分。

オールナイトか。

そう考えると、オールナイトニッポンはさして「一晩中」ってわけでもないな、なんて気付く。

 

ただオールというと遊んでいる感じ、徹夜というとちょっと真面目な感じ。

何の為に夜通し過ごしたかで、言葉の使い方も微妙に変わってくるもんなのかと、ふと。

 

年を重ねていけばいくほど、オールする体力は減っていく。

そんでオールする体力を減らさない為には、オールして精神的に強くなることだとも思う。

だから、したいわけじゃないけど、たまには起きっぱでいないと…と変な焦りすらあったり。

ただオールの体力が減ったところで、オールをしなければいいだけの話ではあるんだけども。

てのと、眠気ってある地点を超えると一気にハイになる瞬間があって、

それまではしんどいんだけど、ハイになる瞬間を迎えると、なんか俺やれるよ、なんてちょっと強気になれたりすんだよ。

案外じぶんの限界って根性とか気持ちでどうにかなるもんもあるのかなぁと時折思ってしまうからね。

 

ずっと起きてたよ、とか、寝てねぇ、ってのは、他人から聞くとなんとなくイラっとするもんだから、

オールやら徹夜についてのお話はここらへんで辞めます。

にしても、寝てねぇ、を口癖にする学生と新社会人ってなんなんだ。

寝てない自分が好きであれば、ずっと寝なければいいさ。

 

とりあえずあえずで、とりあえずかく

とりあえず書くというのは、気持ちがいい。

 

誰の目も気にせず、胸をうち、いや、頭のうち、と言うべきか、とりあえず形としてひねり出してみるのは気持ちがいい。

 

気持ちがいいだけでなく、整理整頓できるからいいのだ。

 

書くことで、知識、考え、感情、すべて自分が一つのカタチとして、確かめることができるから、いいのだ。今こうやって書いてるのは気持ちがいい。

 

書く技術なんてどうでもいい。画像なんてあってもなくてもいい。自由形式。とりあえず書くだけ。

 

とりあえず、一歩うごいてみて、それから危険か、大丈夫か、意味はあるか、を考える。

 

だらだら動かない、ゆとり世代にはちょうどいい。

 

ノーテキスト、ノーライフ。

 

自分の、自分による、自分のためのブログ、とりあえずあえず、はじめるよ。