おじぃ、おばぁ、とできること

沖縄でしごとづくりを、と今考えている。考えているだけでなく、少しずつ動いている。テック系は少しずつ沖縄の地に参入しているらしいけど、土地活かしのために使われないテクノロジーはあまり興味が無い。Wifi回線と追ってればどこでもつくれるものを、人件費削減という見え透いた目的のために沖縄で盛んにつくろう、という考えには共感もしにくい。

土地活かしとはなんだろう。その土地の資源をうまく使うこと。資源には、そこで育てられた農作物もあれば、つくられた工芸品、人が集まれる施設、単純にうつくしい景観がある。そして、それをつくり上げる(つくり上げてきた)人こそ、最たるものだと思う。“人材”という言葉がここで活きてくる。

ぼくは、沖縄でやれたらおもしろいよな、と思うことのひとつに「おじぃとおばぁとのコラボ」を前々から挙げている。若い人のエネルギーをどうにかする、という動きはあちこちで起こっているようにも見えるから、そういうのはそういう人たちに任せるとして。

沖縄のおじぃおばぁは、とてつもなくエネルギーに溢れている。リタイア後の、畑仕事だけでは手持ち無沙汰なんじゃないかってくらいに。僕の出身でもある伊平屋島のおじぃおばぁを見てるだけでいつもそう思わされる。彼らはエネルギーだけでなく、やはり年の功もあり、若いぼくらが知らないことをよく知っている。おばぁちゃんの知恵袋とはよく言ったもんだけど、彼らの「知恵袋」「レシピ(料理)」「手しごと」「ゆんたく」は沖縄を伝えるためにきっと役立つだろうな。

なにより思うのが、核家族社会もあってなのか、やはりおじぃおばぁ世代の人と触れあう時間が圧倒的に少ない。地元の人はもちろん、観光でくる人だって、この地でくらすおじぃおばぁとの接点はあったほうがいい。昔からある沖縄のくらしを知る彼らはほんとうに貴重な存在。以前『永遠の0』という映画を観て強く感じたのは「そろそろ戦争体験をしてきた世代も少しずつ減っている。だからこそ、下の世代へつなぐ人も必要だな」ということ。これは戦争の話に限らず、カルチャー部分にも通ずること。

だらだら書いちゃったけど、ぼくは、おじぃおばぁという大きな存在が、沖縄を深く知るための必要不可欠だと思う。くらしの文化を次の世代につないでいくためにも。だからこそ、おじぃおばぁにスポットをあてて、彼らとの接点をどうにかしてつくりたい。そこにうまくテクノロジーを駆使できればいい。その動きがあわよくば自分たちのしごとにもなり、彼らの雇用にもつながったらいいよね、と思いながら準備を進めてゆく。うまくいくかどうかを考えるよりも、とにかく動く! という感覚を大事にしながら。

 

 

 

 

 

歩く、歩く、歩く。

沖縄にいる間は何やってるのか、というと、最近のぼくはもっぱら歩いています。

沖縄にがっつりといたのは、高校卒業前まで。

大学以降は東京にいて、大学1年の夏に帰省して以来、今年の3月まで戻ってもいなかった。

となると、沖縄のことをちっとも知らないわけですよ。

 

沖縄出身だからといって「沖縄のおすすめの場所教えてー!」と聞かれても分かるわけがない。

よくも考えてみろよ、ほぼ高校までしかいなかったヤツが、沖縄で遊んでこなかったヤツが、

沖縄のスポットを知るわけねぇだろうが!!!と思う気持ちをいつも抑えて、

「ごめん、知らないんだ〜」と申し訳なく謝っていました。

もしくは、旅行本に載っていたとこをあたかも知っていたかのように教えてました。

 

でも今は「ここに行くといいよー、〇〇さんなら好きだと思うよ」と言えるようにしたいです。

小豆島に3ヶ月ほど滞在して、やっぱり“地元の人が案内できる地元”がいいな、と思ったからです。

そういうのもあって、ローカルメディアもつくろうと準備に取りかかってます。

 

で、やっぱり知らないところは、歩いてみて、自分の目で確かめたいんですよね。

だから、ひたすら歩いています。この夏の時期もあって、汗だらっだらですけど。。

 

歩くことで高校卒業以降の空白の時間を埋めれるに違いない、と必死なんでしょう。

その分、入ってくる情報ひとつひとつが新鮮ですし、身に残ってる感覚があります。

 

数日前に書きましたが、特には国際通り周辺を歩いてます。

あとは、高校時代によくうろうろしていた那覇新都心近辺ですかね。

 

沖縄旅行でくる友人に勧めれるようなお店も、何軒か見つかってます。

もろ観光!みたく消費的じゃない、くらしに沿った生産的な場所を、もっと発掘できたらと思います。

 

とにかく、歩く、歩く、歩く。歩きまくります。

おもしろいこと、おもしろい場所、おもしろい人は、

自転車や車やモノレールのスピードでは見過ごしてしまいそうなので。

 

自分の足と目でと耳とは鼻と口をつかって、よい縁がありますように。

 

言えないよ 好きだなんて が好きだなんて

好きな子に、好きと言えないままに、去ってゆく。

そんな気持ちを想像してみた。

 

いや、何か特別なことがあったわけじゃなくて、

朝からコーヒーを啜っていたら突発的に思い付いただけなんだけど。

 

言えないよ 好きだなんて

 

という歌詞の、『言えないよ』というMR.ひろみ郷さんの名曲があるけど、

あれをまず思い付いちゃう。

 

はじめて、じっくと歌詞をみてみる。

途中にあるんだけど、

 

ひとつ前の恋の話

いつか僕に話したね

安心して頼られるたびに

弱気になる

ああ きみをだれかにね

さらわれたら 耐えられないくせに

 

解釈はさまざまだと思うけど、

ぼくとしてはここだけ切り取ってみると、

“相手を知れば知るほどに、相手との距離が遠ざかるような気持ちに。自分じゃだめかも、と弱気になる。それでも好きでしかたない、けど好きとは言えない”

みたいな印象を受ける。

 

いやぁ、とても複雑な大人の恋だなこれは。

 

好きな子に、好きと言えないままに、去ってゆく。

これで、ぼくがパッと浮かんだイメージは、

“時間と場所のすれ違いが原因で、好きだと言えず終いになる”

みたいなやつ。よく転校とか引っ越しでありそうなやつ。

郷さんを聴くと、浅はかだなおれ、とお恥ずかしい。

 

リンク貼るのは野暮なので、「郷ひろみ 言えないよ」でググってみてください。

あらためて、名曲だ。

 

歌詞と照らし合わしながら、じっくりと曲を聴く、

ものがたりを想像して、自分と擦り合わせてみる、

実はこれってゆたかな時間だよなあ。

耳と脳をちゃんと使えてるもん。

“使役”でまわる世界なんて嫌だ。

使役というと誰かに「〜させる」みたいなやつ。

 

誰かに「〜させよう」という企みって、

勝手だよな、傲慢だよな、

と、ただただ思う。

 

読ませる、

買わせる、

手伝わせる、

好きにさせる、

 

という卑しげな目的をもって、

有ること無いこと上手いこと、相手に言って、

煽る、煽り立てる。

 

使役から生まれる消費行動はうんざり。

 

ぼくは、使役でつながる関係性で人と関わりたくない。

というか関われない。生理的に。

 

だから、

自分をこーさせよう、あーさせようと、

相手の意図がちょっとでも見えたらぼくは萎える。

もう、気持ち悪くなっちゃう。

 

ぼくは、弱い。

その気持ち悪さを抑えてまで、人と付き合うのができない。

ぼくは、疑り深い。

相手が自分にたいして、何かしら使役の気持ちがあるんじゃないかと、どんなに距離が近い人でも勘ぐってしまう。

ぼくは、嫌だ。

“使役”でまわる世界なんて。

 

「〜させる」よりも、

「〜してもらう」という、

相手への敬意とか謙虚さとか、

そういう気持ちでつながる関係性が好ましい。

健全だし、気持ちいい、自然だ、と思う。

 

読んでもらう、

買ってもらう、

手伝ってもらう、

好きになってもらう、

 

みたいなさ。

 

まずは自分の中にある、誰かに対しての使役の気持ちを滅殺しなきゃな。

人のことを、どうこう言う前に。

知らず知らずのうちに、自分が誰かを気持ち悪くしちゃってるかもしれないから。

そういう、無自覚な自分が一番気持ち悪いんだよなぁ。

短気でよかった。

基本的に「喜怒哀楽」のうち4つのどれかが、ひとを動かすエネルギーになると思う。

このエネルギー源の感情は、ひとによって違う。

 

ぼくの場合は「怒」の場合が多い。イライラしがちだ。

毎日、何かしらのイライラするポイントを見つけてしまう。

Facebookフィード眺めていただけでもイラっとしたり。

かなりの短気だ。

 

ただなるべく態度とか発言に出さないようにしようと、

幼少期からの性分なので、処世術を身に付いてきたつもりだ。

 

沖縄出身というスペシャルブランド(笑)の助けがあって、どうにか怒らない人と周りをごまかせてはいる。

でもいつも結構イライラしています。もう突き抜けて、イラっとしたら笑えるくらい。

 

少し話は変わる。

この前たまたま友人との話の流れで、

「インターネットは短気な人に向いてるよね」

との話になった。

 

「ブログを書きたいときはどんなとき?」

とぼくが投げた質問に対してその友人は、

想いが溜まりに溜まったとき、その拠り所が文章に、ブログ記事になる。

的なことを言っていた(あくまで「的な」ことなので、間違ってたらごめんなさい)

そういう時の方が、へんな迷いがなくて、書く文量が増え、書くスピードも早くなるそう。

溢れた想いをかたちにする=ブログを書く、みたいな考え方だろうか。

 

なるほどなー、というか、ぼくもそうだ、と納得した。

で、それはブログに限ったこと話ではなく、

TwitterやFacebookでも”インターネットでポストする”行為がぼくは多い。

 

これは、

自分が短気で、イラっと感情がぽこっと上がる瞬間が日常で多いから。

そこで生まれたエネルギーが、ポストする動きにつながっている。

のだと思う。きっとそうだ。

 

そう考えると、

インターネットは短気なひと向きだ。

ただ、発言方法には心底気をつけないとね。

感情にまかせて諸々ぶちまけるのは、ちっともカッコよくはない。

 

とりあえず、

ぼくはイラっとすることが多いから、

ブログを書いてるし、SNSをよく使うようです。

「短気 × インタ—ネット」のことばは、なんだか好感がもてる。

 

インターネットは、

自分の好きなひとやものを引き寄せるためのツール、

だと思うけど、短気なとこから好きなものが引き寄せられたらうれしいこと。

 

あー、短気でよかったー。

ちなみに、うちのおかあちゃんも短気だということに最近気付いた。

やっぱり、血筋なんだろうなぁ。

 

【ゆるぼ】@沖縄「ローカルメディア」あるいは「場づくり」にご興味あれば。

約2週間ほど、6年半振りに沖縄(那覇と伊平屋島中心に)滞在して、あちこち歩き回ったりしました。

 

まずは地元/沖縄に何があるのかを自分の目で見たり、

地元の人の話を聞いてみなきゃ、

と思って動き回ってたのですが、

「これやりたい」「これできそうだなぁ」の二つが自分の中に出てきました。

 

それの流れで、ちょっとだけゆる募させてもらいます。

 

①沖縄/那覇での場づくり(カフェ/ギャラリー/宿泊施設などのスペース運営)に興味あるひと。

 

②沖縄でのローカルメディアづくり(ライティング、写真、映像、メディア)に興味あるひと。

 

③沖縄内での観光 or 産業(生産者のもとに足を運べるなど)ツアーづくりに興味あるひと。

 

・写真撮るのが好き
・文章書くのが好きよ
・人に伝えるのが好きだよ
・絵やマンガ書くの好きですよ
・ブログやってるよ
・Tumbr.やWordpressいじれるよ
・沖縄に知ってもらいたい場所が幾つもあるひと
・自分のスキル/知識を地元とコラボさせたいひと
etc.

 

東京在住(定期的に沖縄滞在予定)の僕とちょくちょく連絡とって、沖縄内で仕切ってくれるひとから、スマホでのちょっとした撮影協力してくれるひとまで、いろんな形で。がっつり系からゆるり系まで。

FacebookやSkypeなどのWebツールで連絡とりながら、ちょっとずつ形づくれるのが、ありがたいです。

 

どんな想いで、僕が沖縄を考えるているかは、ここらへんをご参考に。

> ぼくは地元(沖縄)で何ができるのだろうか? :http://8788.blog.jp/archives/okinawalocalmedia

> 【沖縄】地元メディアをおひとつ「Wajya!」: http://8788.blog.jp/archives/webmediaokinawawajya

 

学生でも社会人でも、どんな方でも。

土地活かし、人活かし、ができれば万事OKというの本望です。

 

1人ではできることが限られてくるし、

1人では動き始めにくいし、

1人ではやり方も分からないし、

1人ではいいアイディアも浮かびにくい、

というのが僕自身も含めてあると思っています。

なので、1人よりも2人、2人よりも3人、

沖縄のひと、県外のひと、一緒につくりたいです。

 

ちょっとでもビビビときた方は、まずご連絡くださいませ。

会えるのであれば会って、でなければテレビ電話越しにでも、まったりとお話させてください。

よろしくお願いいたします。

 

Facebook:https://www.facebook.com/fgs7omija
Twitter:https://twitter.com/0mija
Mail: omija@nurariworks.com

 

ということで、ゆるぼ内容でした。

 

 

(”ついで” なんですが、

沖縄最北端の離島「伊平屋島」について、

何か知りたい!いや行きたい!とかあればこちらも)

他人に興味が無い。

「他人に興味あるの?」

と、ちょっと哀しいんだけど、よく聞かれることがある。

 

めちゃくちゃよく言えばポーカーフェイスだけど、

たいてい表情も動きにくいタイプのぼくは、人に興味ないように思われることが多い。

むしろ、近づきがたい、場合によっちゃめんどくさいと。

 

で、最初の質問だけど、

「他人に興味あるの?」

答えは「無いよ」

だけどこれだけだと誤解が生じるので、付け加えておく。

“基本的に”他人に興味は無い、だけど興味ある人はめっちゃいる。

なんというか、興味持てる人って多くはないですよね。

誰にでも対して、「興味ありますよ!」なんて口が裂けても言えない。

 

知らず知らずに自分のアンテナを張りながら、みんな生活をしてる。

自分のアンテナに反応すれば、興味を持てるし、

反応しなければ興味なんて持つわけがない。

 

そんで、興味を持てる人、持てない人には明らかに違いがある。

興味を持てるひとは、何かをしようと企んでる、実際に何かをしている人。

形があるにしろ、まだ形になってないにしろ、もどかしくても想いを伝えられる人。発信する人。それを楽しんでる人。

そんな人にはこっちもワクワクするから、興味湧きまくり。

興味を持てないひとは、誰かが企ててくれるんじゃないかと、何かを待ち続けている人。

ただ黙々と形ができるのを待ってたり、できるできない関係なく、何も挑戦しない人。発信しない人。楽しもうとしない人。

そんな人になんでこっちから、興味持てそうな要素を探ろうとがんばらんといけないのか?と思ってしまう。

 

興味を持てない人でも、

何かの瞬間、何かの発信がきっかけで、

興味を持てる人に一転することはある。

 

ぼくは他人に興味が無い。

けど、興味を持ってしまう人は、その”興味が無い”領域をお構いなしに超えて、

いつの間にかズカズカとやってくる。こっちの気も知らずに。

もちろん、こちらから”興味もてる部分を探す”努力は必要、という考えも分かる。

けども、全員にそんなことできないし、

興味が無いことに対して「ひどーい」と言うのならば、

「お前は誰にでも興味が持てるのか?」と詰めたくもなる。

(もちろんプライベートの話で、仕事になると話は別だけど)

 

逆の立場だと、

自分だって”興味を持ってもらえない”のが基本スタンスで、

だからこそ興味を持ってもらえるように、楽しい人、おもろい人、と感じてもらえる人でありたい、

と程よい緊張感を保ちながら、毎日過ごしているつもり。

自分が興味を抱いている人に、興味を持ってもらえるように、

自然と自分磨きするようになるし、

何でも、見せ方、やり方に頭を嫌でも使うようにもなる。

ちょっと恋愛で気になった人に対するアプローチの仕方に似てるかもね。

 

だから、ぼくは、

他人に興味ないし、

他人も自分に興味はない、

という地点からスタートして、

興味持てるか、

興味持ってもらえるか、

のゴールが決してみえない関係性にあくせくする。

 

それでいいや、

と卑屈なぼくは思ってしまうのだ。

 

そんな僕を、おもしろいとか、いいね、楽しいよ、とか言ってくれる人は、

変わり者だとも感じるのだけど、めちゃくちゃありがとうございます。

おかえりなさい、いってらっしゃい。

 

人と場所、そして人と人、の話。

昔に比べれば、日本はつながり/関係性がぜい弱な社会だ。

一つの場所に人がじっとずっと留まるのは、そのぜい弱さが一因だと思う。

 

他人行儀のように、相手をさらりと躱しながらコミュニケーションが淡々と行われている。

だから人と人が結びつかない。

 

つながりがあれば、人は訪れる。

ある場所に行くには、理由が必要不可欠で、

その多くの理由は、物よりも事よりも、きっと「人」だろうから。

一度強くつながったら、また戻っても来れる。

 

あの人がいる、安心感

あの人に会いたい、期待感

二つの感情が、人を運ぶエネルギーになる。

 

「さようなら」

とスパッと一区切りするんじゃなくて、

「いってらっしゃい」

「おかえりなさい」

と言ってもらえる場所がいろんな処にできたら、

日本はめちゃくちゃ楽しくなるだろうな。

 

そう考えたら、メイド喫茶のあのシステムはすごいな。。

0と1と2

 

あるTED動画をみてて、なんとなく思ったこと。

TEDの映像を撮ってる人がいるわけで、あれって一番最初TEDサービスが始まったときは「どうやって撮るとプレゼンテーションが映えるのか?」「YouTubeの向こう側の人に伝わりやすいのか?」なんて試行錯誤してたんだろう、と勝手な想像をしてしまった。

でも今はわりと撮るパターンが決まっていて、パターンを受け継いじゃえば誰でもTEDらしい映像を撮れるようになっているのではないかって。

もちろんパターンを受け継いだ時点でも少し枝分かれして、「こうやったらもっと良くないですか?」とパターンをいじれる/改良/調整できる人と、何も考えずただ言われたパターンをこなすだけの人と2方向なはずで。

 

「TED映像の取り方」を1つの「システム」だとしたら、以下の分類ができる。

1. システムを作る人

2. システムを調整する

3. システムを遵守する

 

一番頭を使う人はシステムを作る人で「0→1」型。次に頭を使うのはある程度のベースから変化させるシステムを調整する人で「1→2」型。何も考えずにただ動くのがシステムを遵守する人で「1→1」型。

何か大きなものを揺り動かす人は「0→1」型でありたい。それなりに結果を残す人でも「1→2」型に。世の中の仕組みなんて目もくれず取り込まれてこなしたいなら「1→1」型でいい。

自分は「1→2」なのかもしれない…と思いつつも、「0→1」になれたらとも思ってしまう自分がいやしないか。でもそれじゃダメだ。「0→1」になれたら…なんて弱気なことを言ってるのではなく、「0→1」になるんだの気概がないと。やりきった結果「1→2」になれたらそれはそれで汗のある納得だから受け入れる事はできる。

最初から「1→1」は眼中にない。もう無心にただ言われたことをやるなんて体が反応しない/できない。”我を捨てる”どうこうの問題ではないレベルで。

 

ああ、こんなに数字と矢印を頻出させた文章は久しぶりだ。

0と1と2の数字の狭間で、もっと遊べるオトナになりたい。

単純作業をバカにするやつは地獄に堕ちる

単純作業の本質は、仕組みを提案することにあると思う。

 

近況報告として、10月まで奈良にいましたが、11月からは京都に戻ってきてます。年内はおそらく京都にいます。

10月中、奈良で何やってたかというと、ライティング系の仕事も山奥でこそこそとやってはいたのですが、半分くらいの時間を農業系に充てていました。

果樹園でファームステイしてたんです。今の時期は柿を収穫して、加工したり、出荷したりとセカセカとやっている場所でお手伝いをしてました。当たりまえだし、イメージ通りかもしれないですけど、やっぱり農業系は単純作業が多いです。

ただ単純作業は誰にでもできる、とかバカにはできません。単純作業を繰り返すにも、何も考えず作業をしている人はおそらく他の仕事をしていても何もできないんだろうな、と思えてしまう瞬間があります。

単純作業のなかで大事なことは「スピード」と「丁寧さ」。このバランスが崩れるといけないんですよね。早いだけでもダメ、丁寧なだけでもダメ。丁寧に早くができる人が、この単純作業業界では大事みたいです。

そんじゃ、より早く丁寧にするには?ってなると、やはりまずは量をこなさないといけないです。その中で身体感覚を研ぎすますんです。僕は柿の加工のために、柿の皮むきを1日1000個近くやってました。不思議と量をこなすとスピードも丁寧さもあがるもんです。

ただ量だけでは限界があります。今までやってきたやり方を変えないと、それ以上にはいけない瞬間がやってきます。そこで新たな仕組みを考えないといけなくなります。これまでやってきたやり方に甘えるのは簡単な話で、そこそこの安定感はあるんですけど、上は目指したいですよね。

アレでもないコレでもない、といろんな実験をこなして、新しいやり方を探りに探り、ふとした瞬間に悟りをひらくような感覚に心身ともに陥ります。これが単純作業を突詰めたカタチなのかなぁと。

だから、単純作業の本質は、仕組みを提案すること。

 

どんな仕事をしても、一番最初は末端の仕事をさせられることがしばしばかもです。いわゆる「ぼく/わたしじゃなくてもできる単純作業」みたいな。

ただこの単純作業でさえも、丁寧さやスピードに欠けていたら、上司は新しい仕事なんて任せたくないかもしれない。逆に「もっとこうすれば改善できるんじゃない?」と提案できれば、もっと他の事を任せてくれるかもしれない。

 

言われたままにしかできない、とか言われたこともできない、のをチェックするのに、”単純作業のこなし方”は重要なのかもしれないです。自分にしかできないクリエイティブな仕事をしたい、なんて妙にテンション上がる前にやはりまずは目の前のことなのかも。

そう考えると、単純作業には深い意味があるのではないかと、柿の皮をツーっと向きながら考えていたのが奈良での50%くらいの話でした。きっと一生分以上の柿と向き合ってきました。

今度誰かしらお会いしたときには、柿について語らせてください。

 

(*ただ単純作業が苦手でも、他の事が得意な人もいるよ、ってのも一つの事実だろうし、結局は適材適所だとは思ってます)

ブログ(だ)ってさ。

 

「ブログって何?」とド直球で聞かれると、まだまだ曖昧さがあるな、と感じる今日この頃。「今日この頃」のフレーズは綾小路きみまろをiPodで聞きまくったがための個人的バズフレーズです。

最近はブログは、どうやったら続けられるのか、敷居を下げれるのか、書く価値を見いだせるのか、なんてことばかり考えてたりします。…考えたりするんですが、考えていても無駄なので、とりあえずここに書いてます。

 

ブログは、楽に楽しく書ける、ってのがすごく大事なことに思えます(楽に楽しくってのはどこにでも応用できる使い勝手のいい言葉ですよねぇ)

ブログを楽して書き続けるのは、ちょっと反則なように見えるけど、個性とおなじで、写真がおおいとか、リンクまで丁寧に貼ってるとか、それはブログのキャラ、もっと言えば記事のキャラでいいんじゃないかと思ってる。

本当はもっと読み手にみやすい書き方はあるんだろうけど、書く自分自身が楽しめないとダメだろうから、そこを優先して書き方は工夫すればいいはずで。

 

このブログなんて、テキストだけで、画像もリンクもまともな編集作業ですら放棄してるから、書く僕自身としてはまあぁぁぁ楽なこと楽なこと。同時にどんな形であれ、1本記事公開できるたびに積み重なるカタチが見えるのは楽しいもの。

ルールはほとんど決めず、楽だから楽しいから、負担なく自然と続いてはいるんだろうと勝手な自己分析。もっと更新頻度が安定してきたりすると尚好し、ってくらいで成績でいうと「優」でなくとも「良」はつけれる。

読み手よりも書き手の自分の気分とかモチベーションの為に更新している。他人ありきではダメなタイプの人間がこのブログの管理人です。

 

やっぱりメディアと名乗りはじめると重くなってくるのだろうか、そんな敷居をあげるほどに、カッコ付けて書くもんでもないと思うんだよな、ブログって。

ブログってさ、頭で考えるとむつかしいけど、書くと楽しんだぜ、と主張はしたい。ブログだってさ…と鼻で笑うやつはちょっと記事でぶん殴ってやりたい。

 

とりあえず波及力から

とても大事なことば、波及力。

 

僕は優柔不断、かつ優先順位のつけかたを間違えることが多く、

でも一つのことにじっくりと、と集中力が続くほうでもないから困ったもんだ。

モノタスクよりもマルチタスクの方が好きだ、という自覚があるからだろう。一日ずっと英語の勉強をするよりは、国語や数学、倫理などを挟み込みながら気分転換しながらやらないと、しんどくて耐えられない/できないから、というのが本音ではある。

 

学生時代からとてもとてもお世話になってる先輩に顔を見せに、先日行ったんです。その時に、色々と話をして、色々としたもんだから、その色々をどうやって処理するのがいいと思いますか?仕事のやり方で気を付けることは何ですか?と尋ね、アドバイスを請いた。

すると「波及力があるものから手を付けるといいよ」とお言葉をもらい、それをいま大事にしている。

 

自分がこれからやる仕事でもプロジェクトでも、”それを終わらせたらこう未来に影響していく”という想像をしながら、目の前のことを取捨選択していくこの作業、結構大変ではあります。一方のところ、何が波及力が大きいか?と自分のなかで自問自答するのは楽しい作業であります。

 

波及力という単語だけを捉えると、少し打算的な意味合いも含んでいそうだけど、でも自分の軸を築き上げるには、ちょっとした戦略やら目標意識はあるに越したことはない。後で効果測定ができるのが理想なんだけどな。

そう考えると、どうしても「好きで、得意で、かつ(ここが必須なんだけど)役の立つ」の3つの要素がうまく絡まれば絡まるほど、波及力の大きいものも作り上げることができそうだ。

基準があると迷いがなくなり、迷いがなくなると作業効率があがる、おそらく吹っ切れるから。波及力(影響力)は一つの基準として持っておけるといいんだろう。そしてこの考え方は身体に染み込むまでは嫌でもしつけしないとなぁ。

 

個人的なイメージとしては、ハンター×ハンターの念能力にもある「円」の領域がより広くなる条件のものを選んでいくのだ、というかんじ。

こんご僕がつくるものの波及力の仮説&検証を繰り返しながら、僕自身の波及力が拡がっていくのがなんか理想なのかもしれない。

 

つながる安心と不安

なぜ若者はつながりたがるのか?

という言葉を10コ上の先輩にもらったときがある。

FacebookもTwitterなどで「フォローするね」「友達申請するね」のオンラインなつながりもあるし、単純に”コネクション”(僕は嫌いなことばなんだけど)と表しての誰かとのオフラインなつながりの両方を指すもんとする。

つががることで2つの相反する感情が生まれると思う。
一つは安心、もう一つは不安。誰かとつながってしまった、その出会いから生まれる安心と不安。

安心はほっこり、不安はヒリヒリというかんじでしょうか。

ただ、安心は油断大敵だ。そこから動くことを妨げてしまう。居心地がよすぎて。
冒険にでかけなくては、ダメだし、そこに変化は見つけにくい。
自分が築いた唯一の安心でなく、他人から借り物の安心だからだ。
安心しても、実際のところでは、それが動きにならないのであれば、つながらなくたっていい。
つながることに安心を覚えたら、何か違う気がする。

不安は歓迎しよう。追いこまれるヒリヒリ感は人を動かす。
変化が求められる。だから人は動く。動く中で、身体だけじゃなく、頭の中身も変わってくる。
どんなに腰が重い人であっても、ヒリヒリ感が高まれば、否応がなしに動く。
ただ一つネガティブに不安を扱っていくものでもないだろう。
不安を受け入れる事で、自分が変わるチャンスを受け入れるということ。
つながったからこそ危険をかんじ、何か動かなくては、という感覚は自分を変えるし、自分がそんな人物になる可能性だってなきにしもあらずだ。

何かをつなげる仕事でも企画でもしたいひとは、その安心と不安を心得ておかないとな。
安心をつくる為につなげても、ぬるま湯を与えるだけであって、そこから抜け出そうとはしない。
不安をつくる為につなげるのであれば、何か人が変化するきっかけと場を与える事になる。

メディアをとおしてやりたい事は、ヒリヒリ感を与える事、動き出さなきゃという胸騒ぎやそわそわする気持ちを生み出したい。
実質それが原因で、それのおかげで、なんか今これやってますとか、動きが生まれたら嬉しいもの。単純に。

個人的には、安心の為にはつながらないし、不安の為につながりたい。
自分にきびしく、人にはやさしく、だけど、誰かをつなげるときにはまたきびしく。

つながりたい、と安心を求めるための、浅はかなことはやめたらどうだ。