LINEの使い方はどんなですか

世代がちょっと違うだけで、また職業がちょっと違うだけで、連絡するときのコミュニケーション・ツールも変わってくる。

ぼくの場合、公私ともに、FBメッセンジャーを使うのがかなり楽。で、みんなが使う「LINE」をほとんど使わないから、そこでコミュニケーションを求められると困るときがある(自分から連絡とりたい人が、LINEでしか連絡とれない人なら、もちろん積極的に使うけども)。

チャットという、即レスを求められるかんじが苦手なのと、例え通知オフにしていようが、相手からの見えない重圧を感じてしまうので、やっぱりなるべく使いたくない。

そのため、一時期、スマホのほうではアプリを消していた。今は、LINEでしか連絡とれない人との緊急のやり取りもあるなぁ、となってからアプリ復活させたけど、基本はパソコンから使っている。なので、意識的には、チャットではなく、メールとして寄り添いたいかんじ。

ただスタンプは便利だ。言葉要らずで、ポンと返せるのは、時間が無いときとかは助かる。だけど、一応、ことば(テキスト)のほうを大切にしたい職業柄というのはあって、スタンプを使うということは、若干サボってる気になっちゃうというか、「考えるのもあれだしちょっと雑でいいか!」と思うときに多用してるようです。振り返えれば、確かそうだ。

とはいえ、スタンプで、自分のちょっとした個性(好み)も出せるかもしれないのは、いい。Skypeでのやり取り中で、回線が悪いときは、LINEのほうが音いいからこっちに切り替えるときはある。そこは、サービスとしての優位性だよなぁ、と思う。

てなわけで、ぼくはこんなかんじだけど、みんなはLINEにかかわらず、SNSを相手との関係性に合わせてどのように使い分けてるのかなぁ、と気になったわけです。根本的には、相手が一番使い勝手のいいツールでやり取りできればといいとは思ってるので、世代や職業などで微妙に変わる、その感覚などについてシェアできる場とかありゃいいのにな。

整理するの助として生きるのだ

パソコンの待受画面を眺めると、フォルダがぐっちゃぐっちゃになってたりする – イエス。Dropboxの写真が分類されることなく取り貯められている – イエス。ボイスレコーダーの中にある音源が日付で保存されたままになっている – イエス。こりゃあかんわ。

ということで、もろもろのデータを整理してみました。よく言われることかもしれないけど、「物を整理できていないのは、頭の整理もできていない」というやつにギクリときたのもあって。えっと、3年以上も前だったかに読んだ佐藤可士和さんの『超整理術』の内容が痛烈にぼくをつついてきた気がしたので。

じゃ、どうやって整理するかという話だけど、絶対にこれだ!っていうルールは無い。自分が使いやすいように、分かりやすいように整えるべし、だろう。となると、ぼくの場合、パソコンの中のデータというのは、基本は「書く」ためにあるので、記事を作成するためにちゃんと分類しておく必要がある。

書く媒体毎にフォルダを分けたり、取材毎の音源、写真とをしっかりと表記しておく。たくさん写真撮ったとしても、使うのは数枚のはずなので、厳選したものをそこだけ色分けするとか、フォルダ名にテキストを打ち込んでおくとか、いろんな工夫はできる。

そういう作業を後からまとめてやろうとすると、すんごい大変だし、大事なポイントを忘れていたりで抜かしちゃったりと、苦労するのは自分でしかないからなぁ。とほほ。情報(データ)がたくさんあり過ぎると、選び上げるのにエネルギーがいる。削ぐのって、ほんと大変だもんね。無駄な情報に労力を奪われるのはカッチョ悪いしな。

Gmailなんかも毎回フォルダ内はメール0件にするのを心がけてるのも、そういう後から見直したときの疲れを避けたいってのが一番かも。

整理するときに大切にしたいのは、「つかまえた情報を鮮度を落とさずなるべく早い段階で、すぐ使えるように最低限の下調理(編集)しておくこと」であって、それ以外の「どっかで使うかも…」というのは、結局は使われることのない腐った情報と化してしまうのかもなぁ。まあ、豆腐とかクサヤとかそういう類になるまで、寝かせるものもあるとは思うけどもさ。いつ死ぬかわからんでな。

かつてのお侍さんは、死と隣合わせで毎日を過ごしめたんだろうなーと思いを馳せつつも、現代においては、“整理するの助”として大往生しようではないか。

もの書きが『バケモノの子』から学べること

7月11日に公開された映画『バケモノの子』を、その3日後の7月14日に観た。その日であったことには、たいした意味はない。九州滞在中で、仕事が一段落して、移動までの時間を埋めたいなぁと思っていたら、映画館が近くにあったので、前々から気になっていた作品を観ることにした。 劇場での観賞中にもグッときたし、その後もしばらくまとわりつくような言葉があったので、それについてメモしておく。

なりきる。なったつもりで

そんな、やさしい女性の声が作品中に響いた。バケモノの熊鉄の弟子になった九太が、強くなる方法がわからずに苦心しているときに得たこの言葉。ぼくは文章を書く仕事をさせてもらっているのだけど、そこに通じるような考え方だなと、釣り針に掛かった魚のように、その言葉に強く引っ張られた。

 

「なるきる。なったつもりで」を、ぼくは、「真似することから学ぶことが始まる」という意味で捉えることにしたんだけど、もの書きにとって、この行為はとても大切なこと。文章がうまくなりたいなら、やはり文章がうまい人の真似をするとよい。じゃあ実際に何をするかというと、「書き写し」をやってみる。一字一句真似てみて、その文章を手書きかタイピングで白紙を埋めていくのだ。

小説やエッセイなどでは、作者ごとの表現方法を見つけられるし、そこで自分の書き癖も見えてくる。メディアの記事であれば、文章構成なども意味のかたまりを持って、分析することもできるから、やってみて損はない。

「なぜ書き写すのか?」という理由を考えるよりも前にまずは、やってみる。そして、やりながら、なぜこんな文章になっているのか、作者の気持ちと技術を追いながら、自分で意味を見いだすことがここでは重要かもしれない。

 

本や記事を読んでて偶然にも気になったフレーズを見つけたとき、思いがけず時間ができたとき、というサイクルではあるけど、ぼくは書写をするように心がけているのは、やっぱりそれも、先輩のもの書きがそうしていることを知ったからだった。

とはいえ、バーテンダー時代を振り返ってみると、業界的にはやはり職人気質の人たちが集まるところだったので、「見て盗め」という学び方を学べた経験を、文章に活かせばという発想とも言える。

バーテンダー見習いは、師匠が動きやすくなるように、カクテル作りをアシストする。お酒のオーダーが入った瞬間から、師匠が何をしようとしているのか、そのためには、どんなボトルやグラスが必要で、どのタイミングで氷を用意をすればいいのか、などを憶測しながら、見習いは手早く準備していく。

そのとき、ちょっとやそっとじゃ捌ききれないほどの注文が入る状況がある。となると、師匠になりきり、なったつもりで動かないと、どんぴしゃのタイミングを生むのは難しく、師匠とのシンクロも起こりえない。見習いはそういう経験を糧にしながら、師匠に近づいていく。

 

また、ぼくはお笑いが狂おしいほどに好きなのだけど、芸人も人によっては、他の芸人のネタを書起こしてみて、どこで笑いが起きるポイントなのかを研究する人もいるという。どんなジャンルであっても、「なりきる。なったつもりで」論は有効なんだろう。

当事者として、もの書きに必要な考え方だなぁーというのがひとつと、なにか学び始めたいことがある人は、同じ手法をとってみればいい。と思う。逆に言えば、「誰も教えてくれないから学べない」というのは多少の甘えがあって、なりたい像があるなら、まずは真似てみろ。とも思う。

 

そんなことを考えた『バケモノの子』だった。作品を通して感じたことはそれだけに留まらず、いろいろと彷彿とさせてくれる印象的な作品だった。実は、映画を観た後には文庫本も読んでみたけど、これがまた映像とテキストの違いを感じておもしろかったのだ。

ぼくの「なりきる」対象でもあるオバケの松倉さんが「同じ映画を3回くらい観るといい」と言っていたが、今まさにそれを実験している最中でもあり、ある意味、夏休みの自由研究として、細田守のものづくりを学ぶつもりでいる。残り2回、とりあえず後1回は劇場に足を運ぼう。よければ、みなさんもぜひ。

 

自己本位からはじまるブログが読みたい

なにも書くことが思い浮かばない。ってくらい、ぼーっとしてしまっているので、久しぶりに「ブログ」について考えてみようかな。なんのためにぼくはブログを更新し続けるのか、そしてそれは将来的に何に繋がっていくのか、について。

基本的には、ブログというのは“自分のため”にあるものだと認識している。自分の頭の中にある情報と、心の中にある感情を整理するため。そうやって、自分の今や過去をまとめておくことで、未来の自分に対する“手紙”を残しておける。10年後、20年後と考えてみると、今読めば、しょーもない文章も、宝もののように価値が生まれ、感慨深いものになるだろう。

ちなみに、「書く」ことは「しゃべる」ことと同じアウトプットではあるけれど、「書く=考える」で「しゃべる=動きながら考える」という感覚がある。しゃべるのは、口のほうが早く動くので、後から自分で自分にハッとすることが多い。書くほうがじっくりと言葉を選べる分、ピシャリと頭と心にはまる言葉が見つかるまで考えることができる。

そうやってできた一本の記事は、自分の引き出しにストックでき、しゃべるときのネタにもなる。話の引き合いに出してみて、自分の考えや想いをブラッシュアップもできる。それをまた書いてみてもいい。つまり、しゃべるために書く、書くためにしゃべる、という循環がそれで生まれてくる。ぼくの場合は、しゃべりたいから書く、という意識が強いかもしれない。〇〇についてしゃべれる人を体現するために、ウェブに履歴書的ななにかを蓄積している感覚に近い。

さっき、ブログは“自分のため”にあると書いたけど、それが“他人のため”になるときがある。自分のために書いていたり、限りなくごく一部の人に向けた“手紙”は、全くの赤の他人を巻き込むときがある。ぼくたちは、他人の見て「自分を見ているような気がする」という気持ちになれる。投影するのよね。逆に、初っ端から他人を意識して書かかれているものは、ブログというよりは「メディア」の性質を帯びているかもしれない。

“自分のため”にというある種、“自己本位”なところから始まる文章のほうが持つエネルギーは大きい。とぼくは思う。そこからはじまじって、公共性を身に纏い、他人を巻き込んでいく記事にこそ魅力がある。いきなり他人を意識してはじまったブログは、なぜか続きにくいし、途中で飽きてしまうことが多い。ぼく自身何度もブログを辞めては始めを繰り返してきたけど、結局は、自分のために更新できていなかったことが原因だったなぁ。

先日書いた「嫌い」の話にも通ずるかもしれないけど、自分を貫いて、するりと他人のいる場所までとどき、受け入れてもらえたほうがいい。その練習としても、ブログっていいもんだなぁ、と思う。だから、だらだらと5年近くもブログをぼくは続けているのだろう。ウェブの中にあるブログから生まれた、リアルなご縁が年々増えてきたし、今後もっと広がりが出てくる気もする。

まとまりはないけど、誰かのためじゃなくて、自分のためにブログをはじめたほうがいいよ、って話にしておこう。自分を掘り下げれば下げるほど、きっと他人との接点が見えてくるし、リアルな場でつながり始めるから。あと、昔の自分に、未来の自分が励まされることもあるから。まあそれは続けた人だけにわかるご褒美だろうし、とにかく続けなさい。と、ちょっぴり喝を自分に入れておきます。

「ありがとうございました」がイラだつとき

どんなに性根が悪くても、感謝の言葉をもらったら、嫌な気分にはならない。もちろん、ゴマをするような口調だったりすると、不愉快になることはあるのだけど。と、そんなことを言ってるとひねくれてることがバレてしまうので、そそくさと本題へ。

「ありがとうございます」「ありがとうございました」という感謝を伝える言葉がある。ただの方便や形式ではなく、しかるべきでしっかりと口にしたい挨拶。ただね、この「ありがとうございました」だけは、タイミングを間違えると人をイラっとさせる可能性がある。

飲食でも雑貨でも、接客業ならなんでもいいのだけど、お客さんが飲み食いしたり買物して代金を払い、店員がおつりを渡した後にすぐ「ありがとうございました」と言うのは、アウトだと思うのだ。だってその時点では、まだ店内にそのお客さんはいるわけだし、もうちょい店内でゆっくりしたいかもしれない。

それにも関わらず「ありがとうございま“した”」と過去形で投げかけるのは、「もうサービスをするのは終わり/もう知らないよ」と告げるようなものじゃないのか。ぼくがお客さんであれば「あ、突き放された、さじを投げたな」という気がしてしまうのだ。

では、どうすればいいのか。その会計時には「ありがとうござい“ます”」と言えばよくて、お店を出るタイミングを見計らったうえで、背中越しに「ありがとうございました」という声掛けをするのはどうだろう。現在形と過去形を二度使い分けることで、お客さんは「ちゃんと気にしてくれてるんだ」という心地よさを感じてくれる(もちろん全員が全員そうではないけど)。

ほんと些細なことだから、「そんなこと気になるなんて、おめえ、ちっちぇえな」と思う人はいるかもしれない。だけど、そういう些細な言葉遣いで損をしてしまうことは大いにある。お店としてやっているならば、それが評価にもつながることもあるから、敏感になれるに越したことはないよねきっと。

自分のためにある言葉ならどんなに鈍感になってもいいけれど、相手のためにある言葉はナイーブになったほうがいい。これは発話するときの話だけじゃなくて、書くときにも通じること。ちょっとしたメッセやチャットのやり取りで、どんな言葉を投げるのか、相手がどう受け取るのかを想像できないと、やっぱり気持ちのいいコミュニケーションなんてできるわけがない。

結局のところ思うのは、そういった言葉に対する意識さえあれば、そもそもの問題はないってこと。形式的に、マニュアル的に、無意識で使ってしまっている言葉こそ恐ろしいものはない。「なぜそのような言葉を自分は使うのか?」という意味を理解してなければ、そこから発せられるのはただの音でしないし、ただの文字にしかならない。場合によっては、不愉快なものに化ける。

だれのための言葉なのか、そして、自分の中にある無意識的な言葉はなんなのか。自分が話すとき、書くとき、そこにもう一人の自分を隣に置いてみて、意識を傾けられるとコミュニケーションの質は上がるのではないかと思う。

今日も街中では、悲惨な「ありがとうございました」が聴こえてくる。ぼくは短気だからすぐにイラだっちゃう。店員に対して、ありがとうございます、と冷ややか&にこやかに返しながらも、「ありがとうございます、、だろ!」と心の中のツッコミは大爆音なのよ。

とりあえずビールより、とりあえずペン、か、ブログ

お店に行ったりすると、もう条件反射なのか、気遣いなのか、一種の法律なのかわからないけど、「とりあえずビール」という慣例がある。あれって、バカらしいと言えばバカらしいんだけど、楽っちゃ楽なんだよな。

と、別にそのことを愚痴愚痴言いたいわけじゃなくて、記すことについてメモりたかったので、こうやって“とりあえず”フォームを開いて、カタカタやっているわけなんだ。そうだ。「とりあえずビール」の要領で、「とりあえずペン(メモ帳にでも書き留める)」もしくは「とりあえずブログ」と、まずは手を動かしたらいい。

そっちのほうが、頭の中のことも、情報も整理できるし、インプットしたことをインプットできたつもりにもならない。そういう、文字に対して、止まらない姿勢は、今の自分には大切だよなぁ。と、こうやって書きながら思うわけで。書きながらのよきアクシデントを楽しまなくちゃいけない。

気持ち「60%」くらいのつもりで、「楽に楽しく」続けてみて、「自分>他人」にとって有益なものをつくっていく。そういえば、メモ帳の意味ってそもそもそうだったんじゃないかなぁ、とかなんとか思いながら、今日も明日も明後日も、言語化に挑む。

文章で食っていくかどうかはさて置いて、自分の中のモヤモヤをちゃんと整理できない大人になるのは、嫌なので(いい歳こいて、整理できていない大人を見るのもやっぱりつらいので)、ちょっとずつ積み重ねていく。この文字の層が、きっと後々の、だれかとの差を生んでくれることを願いながら。とりあえずペン、か、ブログを。それが終わったら、とりあえずビールで。

400字執筆は、ジョギングみたいなもん

ブログをいつものごとくサボっていました。ですが、手書きは変わらずに続けています。月末までに、400字原稿用紙×50枚をぜんぶ埋めると決めてから、25枚ほどを書けた。といっても、1万字ほどなので、数字だけでみれば、いたって、大したことはない。

1枚1テーマと決めているので、記すなかで、25個ほどのネタの卵が見つかったかんじかな。ただ埋めるだけでは筋トレにもならないので、以前書いたように文章構成にルールを置いている。5段構成の設計図。それなりに制限つけなきゃ、意識はどっかに必要だよね。

もっかいルールを確認しとく。【段落の数は、だいたい5個か6個くらい】【最初の段落には「導入」】【2段落目がとても重要で、なにか「おもしろいこと」】【3段落目は、その説明】【4段落目は、さらにハードルが高くて、なにか「新しい視点」】【5段落目に、さわやかにさらっとまとめ】。

それを400字詰めで考えてみると、文字のバランスとして、ぼくが考えのは【1段目:60字】【2段目:100字】【3段目:100字】【4段目:100字】【5段目:40字】というひとつの指標。単純計算で、各段落80字だと書きたいことが書きにくいと気付いたので。

懲りずにずっと思ってることは、文章はトレーニング次第で、ある程度の力量までは上達できるってこと。そのためには、量をこなすことだと思う。絶対的な量(時間)が圧倒的な質を生む、と信じながら。津田大介さんもそんなこと言ってたしなぁ。だけど、ただ量をこなすだけだと、伸びるスピードは遅いと思うので、その中でも意識が大切だと思う。ぼくは、そこに、文章構成を今のフェーズで取り入れてみてる。

きれいに整った升目を、滑稽な字で、黒く書き染める。実は、残り20枚分は「2枚、3枚、5枚、10枚でひとテーマについて書く」決めていて、ちょっとずつ筆の走行距離を増やしてみようと思っている。いきなり42.195キロは無理でも、数キロであれば、どうにかなる。その積み重ねってことなんじゃないか。それを試したい。

とにもかくも、時期が時期なので、夏バテには気をつけようっと。へばるなよ、おれ(心配すぎる)。

 

400字詰の原稿用紙、はじめました

もろもろのブログを再開するにあたって、最近から、手書きの作業にも力を入れはじめた。何をはじめたかといえば、400字の原稿用紙に、ひとつの切口で1枚をまとめてみること。サラサラッと、後から、自分でも、読めるか読めないかわからないような文字を書きなぐって、400字を埋めていく。

意外にもこの作業が楽しい。むちゃくちゃ楽しい。中学校とか高校のときに、読書感想文だとか、意見発表文だとかを書けと言われていたあの頃は、どうしても原稿用紙というのが、ただの白い、だけども大きな大きな壁であったのを覚えている。特に、書き出しが苦手だったけなぁ。

それが今となると、楽しくなるのは、なんぞこれ。多分だけど、手書きという昔の感覚を思い出せているノスタルジーと、どんなに不格好とはいえども、自分にしか生めないような、統一感のない文字に対する生々しさが、要因なんじゃないかってね。それと、過去のトラウマというか、壁を乗り越えたという、技術の変化に自分自身がときめく。

「とにかく、筋トレなのよ」と誰かが言った気がするし、いつからか、呪文のように、ぼく自身もそう自分に言い聞かせている。整った文章を書くのは、メディアという神聖な場所で、ライターとして書かせてもらっているのだから、裏舞台として、手書きとブログはどろんこまみれの遊びのある文章を書けたらいいな。

そんなこんなで、原稿用紙は「400字×50枚」ある。現在、10枚ほどを黒く汚した。7月中、ちょうど沖縄を離れての、九州遠征中にでも、この50枚にすべて吐き出せるように、手を動かしてみようかと思う。とにかく、立ち止らず、まずは量を、書く。ペンの握り方が変なもんだから、インクでむちゃくちゃ手が汚れることよ。

ライティングの専門領域をどうしよう

胃もたれだ。東京からアワモリカクテルコンペで来ている知人と飲んだ飲んだ。那覇の水上店舗にてまずかるく1杯ほど。それから、桜坂のお店を3軒、最後に久茂地のお店で〆というかんじ。ひさしぶりに、ぼくもこんなに飲んだ、というかハシゴしたかも…..という反省まじりの現状報告。

朝起きたら、酒はあまり残ってない、けど胃がすこしだけ重い。まあこの状態で、シャキリと、締切原稿に手を付けはじめている。あと、手づくり市をやるための準備も進めなくちゃなぁ。あ、明日の夜はイベントだったや、と(準備が悪いもんだから)いつもバタバタ。いっしょにやってくれてるメンバーには、ほんと感謝だ。

ということで、仕事しなくちゃね。と思っている最中のブログ(はよ、やれよ)。さっき原稿を書くといったけど、自分のライティング領域について確認してみようかな。ライターに専門性がある(必要だ)と思うんですよ。

一口にライターといっても、いろんな人がいて、紙かウェブか、専門領域はどうかなんて違いがある。とはいえ、ぼくみたいな3年目の若手ライターは、いうほどの専門性はなく、「ここらへんが自分の領域なのかなぁ」程度を探り探り、相性と将来を確かめるかのように記事を書かせてもらっている。

自分の領域以外のもの(ちょっと自分っぽくないやつ)を書くときだって、もちろんある。それはそれで、どんなジャンルでも、どんな記事形態(レポート、インタビューなど)でも書けるようにと、できるだけの仕事もさせてもらって、やり方を探ってきたとも思う。眼中になかった領域から、学べる知識・経験も多いから、やって損はないしね。そうやって、広げてきたからこそ、いったん狭めていってみようか、と領域を定める1年間として2015年を絶賛取り組み中だ。

長ったらしくなったけど「自分がここらへんを待ってるぜ」という領域(切口とも言えるのかな)は、「地域」「カクテル」「職人」「くらし」らへん。そのキーワードに引っ掛かりそうなメディアでやらせてもらえるように、奔走している。

もっとキーワードを切り分けてみると、「地域」は「商店街」「場づくり」「シビックテック」「離島」、「カクテル」は「ハーブ」「モクテル」「ご当地」「ルートビア」、「職人」は「手しごと」「伝統産業」「テクノロジー」「継承」、「くらし」は「田舎と都会」「働き方」「二拠点/多拠点」「移住」「民俗」「おばあちゃん」とか。

思い当たるものをバッと並べてみたけど、「くらし」比率が若干高いのかなぁ。というのと、なんだかんだ「地域」「カクテル」「職人」も自分の中では「くらし」にどう落とし込めるか、っていう課題に取り組んでいるみたい。

あと、どの領域でも「編集」とか「デザイン」って言葉がどう絡むのか、ということが気になるな。こうやってまとめていると、いろいろ気付かされちゃうから、“とにかく書く”って作業は大事やね。

今関わらせてもらっている「マチノコト」は、自分の中で大事にしているキーワードをかなり拾えるメディアだと感じていてて、もっとしっかりとやれたらな、とへたれな自分に喝を入れなきゃとも思う。ちょっと止まっちゃてるけど「おうち菜園」は、カクテルとかけ算できる可能性も高くて、余力がでてきたら、文章提案できるように。

とにかく、ひたすら書け、書いて書きまくれ、頭だけ考えている暇あれば、紙とペンを持って1枚まとめてみるとか、ワードを開いてみて構成などひとまず気にせずダッと書いてみるとか、指を動かせ、指で考えろ、ってことなんでしょうね。自分で自分をうまく叱れたっぽいので、仕事に戻ります。

 

書起こしで変わる「取材」と「価値観」

文字の「書起こし」は苦手だ、ということもあって、そういった作業には自分からはなるべく触れないようにしている。とはいえ、お世話になっている人から(ありがたいことに)依頼される仕事では、書起こしをすることはしばしば。ぼくの場合、苦手との戦いは、たいていご縁によって幕を開ける。

耳に集中して、同時に、手を動かす。たったこれだけのことなんだけど、慣れてないと当然てこずるし、そこそこ奥が深い。たしか、一番最初に引き受けたのは、約3時間ほどの音源だったんだけど、これが地獄だった……。コツが分かってないもんだから、非効率でスピードもかなり遅かったのを覚えている。もうやらねぇーー!と思うくらい。

けど、結局は、同じように引き受けちゃう。そうすると、苦手だ苦手だと思ってやっていても、前回よりはスルッとやれるようになる。量をこなすと、ましにはなっていくもんだねぇ。それでも、苦手意識というのはすぐには拭えないのだ。

そうやって、何度も書起こしの仕事を繰り返していると、自分なりのこなし方が確立されてきて、ある程度の時間の段取りもできるようになってくる。そして、ふとした瞬間に「あれ、なんか書起こしも楽しいかもな」と錯覚に陥る。あくまで錯覚なので、苦手は苦手ということ。

でもね、錯覚を起こせるようになれば、こっちもんだよ。だから今はちょっとだけ書起こしの仕事を増やせたらいいなぁ、と思っている。自分に足りないスキルも補える気もするしね。

書起こしの良い点は、自分以外のインタビュアーの「取材方法を学べる」ってことがある。どのように、相手と距離を縮めて話を引き出すのか、話がブレたときに本題に引き戻すのか、自分の話をどう織り交ぜるのか、など勉強できることは多い。

また、他人の声を文字化する作業のなかで、その人の「価値観を疑似体験できる」おもしろさもある。以前、都会から田舎へ移住した人の取材音源を書起したときに、自分がひとつも想像もできなった暮らしを語る話者の言葉一つひとつが、体に染み入ってくるような感覚があった。自分のなかで、ここぞと使える引用フレーズが増えていくみたいな。

書起こしについての雑感がざっくりし過ぎてるし、「書起しやると、これ身に付くよ(身に付いたよ)」ということはまだまだあるので、またどっかでまとめ直したいなぁ。

とりあえずね、自分の知らない世界にいるだれかの体験と言葉に触れることができるのは、楽しい。そして、指を動かしながら、少しずつ自分の中にも蓄積するものが増えていくのは、うれしい。まあ、苦手っちゃ苦手だけども……もっとやろう。書起こし協力隊になろう。

そして、ライターでなくとも、ライティングに興味あったり、ある分野についてのただならない関心があるなら、まずは気になる人の音源探して書起おこしてみるといいかもよ。おすすめです。

汚ない文章でいこうぜーーブログという生活実験

汚さなければ、晒さなければいけない、そんな気がしている。

どこまで続くはわからないし、何度も何度もくじけたことだけど、またブログを書き続けてみようか思う。とはいえ、そもそもブログを止めてたわけではなく、その頻度が1ヶ月に1回更新できるかできないかという、いわゆる中途半端なかんじだった。気が向いたときだけ書くスタイルというか。

恥ずかしながら、仕事でぱつぱつになって、そのときは書くのを伏せておこう……と書きたいのに書かないことも多かった。けど、今度にかぎっては、ほぼ日で更新できるようにしよう。そうだ、しよう。

仕事でウワーーーーっとなっているときほど、自分の頭の中がちゃんと整理できていないんだよなぁ。自分が今まさに取り組むことに対する想いとか、そこで得た情報とか、どこに向かっているのか、なにをその瞬間に感じているのか、ここらへんはきれいにまとまっていたほうがいい。

それができないと更に効率が悪くなって、余計にブログの投稿画面に手をつけれないという負のスパイラルになるってことは、何回も痛い程に経験している。「きついときほど書け」と自分に言い聞かせなくちゃ。

「これが終わったらこうする」という準備ばかりを待っていたら何も始まらない。無理くりにでも、こじ開けちゃって、始めちゃわないと、次には進みにくい。きっとそうだと思う。だから、もっと書かなければ、とね。

実は、このブログ以外にもいくつかブログをやっている。「ハチナナハチハチ」と「OTTO」。このふたつも更新頻度は高くない。とはいえ、ちょっとしたテーマを持って、だれかに見られることを想定して書いてはいるようで(振り返るって気付いたけど)少しだけ“メディア”を意識している。

「自分のためだけに書く」のがブログだ、という解釈を持って、このゲゲゲについては、書き進めていこうと思う。自分が気持ちよくなるために、スムーズに仕事も捗るように。変にテーマを意識せずに、思ったままのこと、自分の中にある感情の変化や、物事に対する考えを殴り書いていく。

テーマや文章量など、なにか枠組みを決めすぎると、きれいに書かなきゃいけないと自分で自分で苦しめることになる。汚くていいんだ。どうせきれいに書こうとしても、そもそも汚い文章しか書けないのだから。

「書く」って、できる人がやるとか、高尚でもなんでもなくて、自分のためにあるはずだ。自分の頭にあることを言語化して、文字にして、鏡のように自分自身と向きあうための作業。

そうやって自分のためにある文章で、白紙のような投稿フォームを汚しまくる。頭の中に棲みつく生き物のように、激しく動きまわる思考と感情を文字にして晒してみる。それを毎日のように続けたならどうなるのか。

たかがブログなんだけど、自分にとっては新鮮なチャレンジ。そして、ワクワクもドキドキもヒヤヒヤもする実験だ。結果はどうなるかわからないけど、されどブログ、となるように楽しみたいなぁ。自分をもっとおもしろがれるように、のせられるように。

 

ライター以外の人が、ライティングする意味

ライターという仕事を関わらせてもらってて、やっぱりこの仕事っていいよな、とか、ここらへんはしんどいよな、とかつねに両面を感じながらやっている。

 

記事を書くことで、誰かと誰かがつながる瞬間に出くわしたり、普段の自分なら関わることのない領域の人に会ったり、その知識を深めたりできるのは、素直にうれしい。身になる。幅が広がっている感覚がある。

その反面、ネタ選定のためのリサーチや、構成をがちっと決めることだったり、依頼主さんから好み/NGポイントを深読みしたり、入稿までのスピード感だったりは、ぼくは苦手なので、大変だなぁと感じることはしばしば。

 

「文章が好きだから」という理由でライターはじめた人は大変なんだろうなぁ、とも、そういう人はどれくらいいるんだろう、とも不思議に思う。それくらい、ぼくは文章自体への愛着はないのだろう。残念ながら。

 

そんなふうに良し悪しはあるけど、良いほうに魅力を感じているから、いまだにこの仕事に関わらせてもらっているし、まだまだ未熟なので、力もつけたいとも思う。自分のライティング領域もちょっとずつ定まってきた。

ただ、その領域のことを考えると、「“ライターとして”ライティングしなくてもいいのではないか?」という疑問がちらつく時がある。むしろ、その領域にどっぷり浸かったうえで、ライティングもできればいいんじゃないかって。

 

例えば、ぼくは「カクテル」について書きたいのだけど、ライターが記事が書くのと、バーテンダーが書くのでは、まったく違った質のものになるはずだ。

そりゃそうだろう。酒を飲む側なのか、つくる側なのかの視点で大きく変わってくる。そして、バーテンダーでライティングができる人は少ない(あまり表に出てこないという意味でも)。

 

だから、元バーテンダーのぼくは、ライティングを関わらせてもらってはいるけど、現在休業中のバーテンダーに戻って、修業し直して、その上で書けるものを増やしていくつもりだ。

がっつりとライターやりたいから、ライティングしているわけじゃない。だからこそ余計に、本業としてライターをやっている人はすごいなぁと思うし、中途半端に「ライターやりたいんです」という言葉を放つ人にはちょっと冷めがちだ。

 

プロレスラー、芸人、セクシー女優、板前、バリスタ、漁師、いろんな領域の人が、その中で動き回っている人が、その世界のことをつぶさに書けたほうが、情報のリアリティもある。

書かれる立場にもある人が、自分で筆をとって、書く立場になる。そういった人が増えることが、その領域を広く知らしめる手段になる。その世界のリアルを共有したり、盛り上がるためのきっかけとなりうる。

 

だから、ぼく一個人としては、ライター以外の人こそ、ライティングに対して興味を持ってもらえたらいいな、と勝手ながら思っている。その入口として、ブログっていいよね。

やるかやらないか、続けるか続けないか、気持ちがあるかないか、それだけのこと。ライター以外の人でも書いていいし、そっちのほうが世の中おもしろくなるよ(編集者も、そういう人を探してるんじゃないかなぁ)。

 

誰のためのボトルか

バーという場所で、そこそこ働いていると分かることがある。お客さんからよく注文される、人気のカクテルがなんなのか。反対に、あまり頼まれないものがなんなのか。

そして、カクテルには、当たり前だけど、いろんなお酒のボトルが使われれる。お酒となんかを混ぜるのが、カクテルだから。

 

よく注文されるカクテルに必要なボトルは、発注管理も気をつけなくてはいけない。モヒートがよく出るならハバナラムとか、ジントニックがよく出るならモンキー47とか、お店に寄ってもここの管理内容はちょっと違う。

ただバーというところは(もちろんお店のタイプにも寄るんだけど)、なかなか出ないカクテルや、そのボトル自身を飲みたいと、いらっしゃるお客さんを待っていたりもする。

 

経営観点で考えれば、あまり出ないボトルを置いとくなんて、効率が悪いわけ。だって、場所をそもそも取るし、ボトルによっては一度開栓しちゃうと劣化しやすいものだってある。

だけど、それを求めてくる人がいて、そのお酒によって、なにかしらの癒しだったり、励ましになることがある。すごく大袈裟な言いようだけど、ほんとに、そういう時間を過ごしてもらえるときがある。

 

お酒には「味わい」だけでなくて、それがつくられてきた「ストーリー」がある。そして人は、自分の人生というストーリーと重ねながらお酒を飲むから、“ただ酔う”とは違った酔い方ができるのだとも思う。

そういった一段上の酔いを味わってほしい、そのために必要なボトルであれば、どんなに場所をとろうと、コスパが悪かろうと、バックバーに置いておきたいと思うバーテンダーは少なからずいる。

 

すこし振り返ってみる。わりかし幅広いカクテルに使えて、お客さんからのニーズがあるし、消費されやすいボトルをバックバーに並べておくのは、よく分かる。

そうじゃなきゃ、回らないものがあるよね。だけど、ごく一部の限られた人に向けて、ひっそりと待ち構えるようなボトルだってある。個人的な気持ちでいうと、それが並んでいてほしい。

 

他のバーにはなかったけど、ここで「やっと巡りあえた」というお酒と人が出会って、ひとつの空間のなかで混ざりあう時間があるのって、素直にうれしい。そんな瞬間のために、人とお酒の“あいだ”にうまく入れるのが、いいバーテンダーなんだろう。

 

そして、考える。よいメディアとはなにか。たくさんの人に読まれる記事ばかり並べておけばいいのか。いや、きっとそうじゃない。

それを心から(本人が気付いてなくても)求めている人に、ちゃんと寄り添えるボトルがあるように、体温を感じられる記事もあるはずだ。

 

対多数じゃなくて、対個人のために、ひっそりと並べられる記事が、ひとつやふたつあってもいい。

人と文章が化学反応的に混ざりあう、そんな場をつくるメディアはどこにあるのか。そんなカクテル的メディアは、だれがつくるのか。

 

さいごに、問う。そのボトルは誰のためにあるのか?

 

小さく失敗してみろよ

自分で言うのもなんだけど、ぼくは失敗してばっか。例えば、小さいところでいうと、この3年間でブログなんてのも、立ち上げたものの全く更新していない…….という駄ブログをいくつもつくってきた。どうやったら自分が書きやすくて、続けられるブログができるのかなぁ、と失敗ばかりみつめてきた。そうやって、今もブログと付き合ってるんだけど、昔よりはよくなっているつもり。最初はほんとにてんでダメだった。

ここ1〜2年で学生と話をする機会がめちゃくちゃ増えた。意識が高い学生がわりと多いのだけど、もちろんそうでない学生もいろいろと。「なにかやりたんですよねー」と漠然したものから、「ブログやってみたいんです」「ライターに興味あるんです」という話まで、なぜかちゃらんぽらんなぼくにしてくる。ありがたいことではある。

で、いろいろとぼくなりに頭の中で汗をかいて、言葉をおくるんだけど、そういう学生たちが後々なにかをしたという便りをあまり聞かない。話を聞いて終わりで、次、につながっていない。ぼくの話した内容、つたえ方に問題があった、という可能性は多いにあるけど、いっかいそこを抜きにして思うことを書こう。

そういう学生の傾向を自分なりに分析してみると、想像していることが、いきなり「起業するんだ」「世界を狙うんだ」と大きめのことだったり、「ハウツーさえ知ればすぐにできるんじゃないか」ときれいごとばかりだったりする。「失敗する」ということ、「小さくはじめる」という前提が欠けているように思うんだよね。

おまえら、成功者の明るーい部分だけを見過ぎだよ。泥くさい部分すごくあるよ、きっと言わないだけで。そんで、成功している人のほとんどは、それ以上に失敗してるし、いろんなことに挑戦してるから。アプリ関係だとUberの話をしてくる学生がいたけど、あの代表だって3度目の起業でヒットサービスをつくった。孫正義もかなり煮え湯を飲んできた人だという。

失敗という暗い部分をあまり見ない学生が多いのはなんでだろう。意味がわからのよね。失敗は大前提だよ。そして「トライ&エラー」で小さいことすら挑戦しないし。失敗しないために、先人の失敗例を学んでリスク回避しようとしても、やっぱりは失敗はどっかしらある。そうやって、自分自身で失敗を体感しているという学生は少ないよなぁ。

だから、思う。まずはやってみろよ。小さいことからでいいからさ、失敗してもいいから。というか、むしろ1回といわず何回も失敗しろよ(他人の不幸を願うわけでなくね。)3割打てるだけでも、すごいんだから。失敗は恥ずかしいとか、それ小さくてカッコよくないとか、言うけど、まずはsmall startでerrorを想定しながら、やりなよ。どんなにガーンと下がりに下がっても、死ななきゃいいし、まだ20代だからどうにでもなるでしょ。また挑める。

とにかく、かたちをつくろう。だれかの目にちゃんと映るようなかたちを。こういうのやりたいんですよー、と形がみえないものじゃなくてさ。ライターやりたいっていうなら、話をしてくる前にブログとかやっとけよ、こういう文章書いてるんです、っていうのがわかるやつ。

と、ぐだぐだ書いたけど、自分もやらなくてはと気合いが入る…….自戒をこめて……といのは全くなく、とりあえずは、小さい大きい関わらず自分の好奇心に素直に、たくさんの実験ができたらいいのかなぁ、と思うや。そら失敗はするわ、けど失敗しないように、失敗のなかでかしこくなってけばいい。と言いつつも、なんで毎回同じような雰囲気をもった女性に惹かれるんだろなぁ、と思うので、だれかこれを叱ってほしいです(できるだけ女性がいい)

 

ネタに困ったら

ネタといっても、ここで触れるのはブログのネタについて。ライターとして記事を書くときは、クライアントがいて、最初の段階でネタが決まっていたり、大枠のテーマに合わせて自分でリサーチしたりする。基本的にネタに困るということはない。それに対して、ブログとなると何書こうかな?と悩むことがある。いや、悩むことがブログはじめた時は多かった。今はネタなんていくらでもある。ブログ歴はまだ約3年。

ブログはじめたての人にありがちなのが、というかぼくもそうだったけど、パソコンを目の前にうんうん…と記事を書こうとする。頭を抱えていてもネタは中々でてこない。もちろん、ひねり出すことで生まれるタイプの記事もあるけどさ。ぼくは、“ながら作業中”にネタがフッと浮かぶことがある。それをスマホにメモしておく。後でノートに書き写しておく。

ながら作業の作業だけど、いくつかある。「①散歩/移動」:町を歩いていると聞こえてくる会話や目に映り込んでくる人から影響されて。「②会話」:誰かと会って話したとき心に引っかかったもの。「③SNS」:FacebookやTwitterタイムラインでの誰かのやり取り、リンク記事や動画を眺めてて思うこと。「④執筆」:記事を書いていると副産物的に思い付くこと。あとは、最初のシンプルにうんうんと「⑤捻り出す」の5パターンだろうか。

みんながブログにしたい内容って「非日常的」なことが多い。もちろん、非日常的というのは書く人にとっての話。サラリーマン/OLなら「どっかに美味しいものを食べにいったよ!」とか「こんなイベントに参加してきた!」と「旅行に行ってきました!」とか。だから勤務後や週末にネタづくりは限られるみたい。だけど、本当は、ネタはもっと「日常」に転がっているよね。書きたいかどうかは別にして。日常で自分がふと感じることのほうが、自分にとっても大事なネタになる気がするし。

ブログは、自分の教科書づくりみたいなもの。自分のキャラがどんなものかを、自分が書き溜めるログで確かめるもの。Facebookみたいにリア充をアピールするツールとして使うのは続かないよ。あと、後から読み返してみるとどこか虚しくなる。むしろ、日常のなかに非日常的ななにかを発見できたら儲けもん。

だから非日常もいいけど、もっと日常の部分をブログネタにできたら楽しいんじゃないかなぁ、とブツブツ。ネタに困ったら、自分の朝起きてから寝るまでを振り返って(「ん?」と)強く感じたことを言葉にすればいい。という考えで、ブログを書いてる人もいると知ってもらえたらな。ちなみにぼくが書くネタは、これ忘れないようにしとこー、とボケ防止の意味合いもある。この記事もそう。

文章の設計図づくり

「この建てもの、設計図なしでつくったんだ」。なんて言われるとちょっと心配だ。いや、自分がくらす場所であれば、ちょっとどころか、すごくこわい。設計図って大事だな、と思えるのは信頼を担保できるからではないだろうか。あのー、同じようにですね、文章を書くことを建築と捉えるなら、文章にも設計図をひいておけると心づよい。

だけど、ぼくは設計図を描けるほどの能力はない。まだ自分なりの手法ができあがるほどの文量をこなせていない。だからフォーマットが頼りになる。基本ものごとは「守破離」の過程で進歩してゆく、と思う。だからまずは「守」の部分を、誰かのルールに従って書き進めればいいはずなのだ。ぼくは「cakes」加藤貞顕さんの文章の設計図を模倣している。

加藤さんは以前「note」で原稿の書き方について触れていた。【文字数はだいたい600字程度】【段落の数は、だいたい5個か6個くらい】【一段落の長さは、最大でも1ツイート(140字)】【最初の段落には「導入」】【2段落目がとても重要で、なにか「おもしろいこと」】【3段落目は、その説明】【4段落目は、さらにハードルが高くて、なにか「新しい視点」】【5段落目に、さわやかにさらっとまとめ】

1段から5段目までをよくよく見てみると、ちゃんと文章を書くときに意識しなさい!と散々言われ続けてきた「起承転結」がギュッと詰まっている。ぼくはとにかく「1~5段目までの構成」を最近は特に意識している。パソコンを開く前にまずはノートを開く。仮タイトルを入れて、数字を1から5まで書き出し、一文ずつ加えていく。この一文×5だけで意味が成り立つように整えて、あとはタイピングしながら肉付けをしていくイメージ。

これを始めたのが、ブログを毎日書くと決めた8月初旬なので、まだ1ヶ月は経ってない。だけど、やってみるとスイスイとタイピングが進む。これまで「考える」系ネタには悩まされてたから、とても助かっている。よく「準備8割」と言うけれど、この文章の設計図がしっかりしてれば何もこわくはない。それでいて、もし書く手がジッとしてしまうようなら、設計図自体に問題があるのでもう一度設計図を見直せばいい。問題発見のフローもわかりやすい。

ということで、最近のぼくは加藤さんの文章の設計図を参考に書いている。「守破離」の「守」の段階を終えて、「破」「離」と自分なりの書き方が見つかるまでは、やはりひたすら書くしかないのかもね。“職人技10年”を指標にするとして、少なくとも後8年くらいでものにできるようにしたいな。そのくらい長丁場で構えながら、ゆるりと書き続けよう。そういえば、書くだけでもグーグーお腹は空く。

ぼくはライターに向いていない(かもしれない)

文章を書いてお金をもらう、そんな世界に足を踏み入れてから約2年ほど。まだまだまだまだ駆け出しのもの書きだ。もっともろもろ巧くなりたい。さてと、ここから本題に。世間一般でいう「ライター」という職業をかじらせてもらってから初めて気付けたことは多い。

ライターは一括りにできない。これが一番大きな発見だ。例えば、同じライターでも「紙」と「Web」どちらの媒体で書いてるかで違いがある。おそらくスポーツで言えば、ソフトボールと野球ほどに違う。基本動作は似てるけど、微妙にフィールドとルールが異なる。

紙はページ制限もあり書くスペースに限られるけど、Webは際限なく文章を書ける。この文字数制限があるかないかが「短く伝える」意識に差を生む。基本的に、紙の人のほうが文書が巧い(とぼくは思う)。ただWebの人は、情報収集から記事化までの「スピード感」や、スマホ等のユーザーデバイスまで意識した「文章構成力」などはやはりWebの人の方がわりかし強い。どっちが偉いとか良いよとかの話ではなく、どちらも「より多くのひとに自分の記事が正しく広く届け」という共通した気持ちがある。ただ紙媒体の方が原稿料は高いという事実はある……。

あとは、同じ書く仕事でも「ライター」と「作家」も違う。ライターは基本的にクライアントがいて、商業的に自分が好きじゃないもの、違和感あるものに対してでも、記事の提出を求められる。クライアントが心地よくなるツボをつつけることが大前提で書く。自分のキャラを出すとか出さないかの話でいえば、クライアント次第では出せない。「文章書くのは好きです」とライターを始めて、心が折れそうになるのはこの「書きたくないもの書く」という局面にぶつかったときだろう。反対に、作家は自分色を出せる“作品”を書きつくる。

もうひとつ言うと、ライターと「エディター」は違うし、さらにはディレクターとも違う。この媒体ではこんなコンテンツづくりしよう!と指揮をとるディレクターがいて、そのコンセプトを理解したうえで文章校正にあたるのがエディターで、基本的に(リサーチも含め)ひたすら文章を書く役割がライター。ディレクター・エディター・ライターをまとめて兼ねて活躍している人がいるから、混乱しがちだけど。特にWebの場合は。

と「一括りにライターと言うけど、いろいろあるよ」と主張しつつ、ぼくが2年間ほどやってみてジワジワ押し寄せてくるのは「ぼくはライターに向いていない」という感覚。書きたくないものは書きたくない、とかぼくは我が侭だ。ただ、あくまでまだ仮説として捉えている。だって、骨の髄まで響くほど経験を積めてないから、やりながら検証したいきたい。とにかく締切だけは守る!

実はもともと僕がめざしてるのは、ライターじゃなくて作家。これは中学校くらいから変わらない。じゃあ、なんでライターなのか? それはライターも作家も、書くための“基礎体力”は同じだと思うから。だから必要とあらば、自分の壁にもチャンスにもなる記事には挑戦してゆたい。それ以外に書くきっかけは、自分の専門領域(ぼくはカクテル)を深めるためのブログでいいんじゃないか。そんな気がする。それは、2年間やりながら解ってきたこと。始める前にはひとつも想像できなかったなぁ。こんなぼくですが、ライターのおしごと、お待ちしています。