すぐ才能のせいにする人

 

全エントリで、「失敗」について書いたけど、なんとなくまだ絞りだせた気がしないので、引き続いて書いてみようかな。なんだろ、このしこりのようなものは。

ぼく自身、失敗というものを出会うと(というか、自分で生むだけ、やっちまうだけの話だけど)、「やっぱりおれに才能はないのか……」と弱気になることもある。ほんと絵心とかないんだ……。

文章を書くってことだって、毎度毎度、後から読み直してみると、ぎこちなさというか、欠落したなにかを感じる。ただそれでも好きなことだから続けるし、慣れていけば、それなりにましになっていくもの。反復でしかない。

で、よく思うことだけど、なにか「自分がやらない理由をすぐ才能のせいにする人」っているよね。すぐに、私とあなたは違う人間だからしょうがない、と一線を引いちゃうような。違う人間ではあるんだけど、そうなんだけど、ちょっと違う気がするこれは。

あの人は天才だから、とすぐに片付けたりすることは、実は、失礼なことだよな。世間一般的に「天才」と呼ばれる人たちだって、ひとつのことに膨大な時間を費やして、失敗を繰り返して、汗たらたら流して、偉業を達成させたはずだから。

なのに、これまでやってきた過程を見ないで、目の前の結果だけをみて、天才だから(才能がある人だから)と一言で片付けるのはちょっと違うよなぁ。天才と褒め称えているようで、敬意がないというか。に加えて、それを自分がなにかをやらない理由にこじつけちゃうなんて尚更ね。

そう、“選ばれしものとそうでないもの”みたく、おれ/わたしは才能ないからなにもやりません、って人はけっこー多い。けどさ、こういうのもあるんだよ。天才という言葉に対して「地才」という言葉もさ。地才は、ざっくりと、先人たちの知恵やつくってきたものを学んで、それらを組み合わせてなにか新しいものをつくりだすような才能のこと。たくさんのケーススタディから生めるものがあるよね、とぼくは解釈した。

才能はそだてていくもんだ。種を蒔いたばかりのところで、すぐにあきらめちゃうのはもったいない。ちゃんと、水を遣らなきゃ、そだつもんもそだたない。だから、すぐに才能がうんちゃらじゃなくて、ある程度は(の時間と質と量に触れてみて)見守ってみる気持ちも必要じゃないか。ほんとのほんとの才能のかたまりのよう人(天才)はきっとごく一部だよ。

ちゃんとやることやっていれば(反省と反復)、それなりには技術は身につく。その技術をどう組み合わせていけるかのほうが大事だよねきっと。自分が才能あるのか、って頭だけで考えてなんもしないよりは、才能あるのかを試すために、ちゃんと手足を動かして、ある程度はそこに浸かってみたらどうだろか。もちろん、それは理不尽な我慢をすることとは別の話だからね(その話したらさらに長くなるから、またどっかで)。

あきらめられない才能、あきらめた才能、あきらめつつある才能、これってぜんぶ、やってみた人(水を遣ってみた人)が言葉にするから意味があるんだろうなぁ、ピリピリと想像している。そういえば、こんな話してたら『花さか天使テンテンくん』を思い出した。ついでに『植木の法則』なんかも。こりゃ全巻読み直しだな。