「会社」という「テーブル」Ⅰレビュー1215Ⅰアパートメント

ふと思った、「会社」というのは、テーブルなんじゃないか、と。

なんにもないところにテーブルが置かれる(会社ができる)。テーブルがあるなら、腰掛けられるイスもあるといい。
社員の数だけイスが置かれ、もちろん、その人数によってテーブルの大きさも違う。その机の上にプロジェクトが持ち込まれて、その場にいるみんなで仕事をうまく分配していく。

みんなで話合いながら分配方法から決めるところもあれば、分配者は決まってて振り分ける担当がいるところもある。

それぞれが自分のやることが決まったら、「さあやるぞ」とイスから立ち上がって、各々やることに向かって動きはじめる。そのなかで、少し迷いがあ出てきたら、テーブルに戻りイスに座って相談できる拠りどころになったり、動いた結果を持ち帰ってきて、次の作戦会議をするような場になったりもする。

大事にしたいのは、あくまで、イスから離れて動いていくときの一人ひとりの意思だったり、その動き方そのもの。テーブルは、その精神性も身体性も、すべてをコントロールすることはできない。

だからこそ、その人がイスから離れたとき、一個人として動きやすいように卓を囲んであげるのが、「会社」というプラットホームの役目なんじゃないか。少なくとも、ぼくはそういう「会社」のあり方がいいな、と感じている。

「会社」だと「自由な働き方」ができないわけでもないし、「会社」だからといって必ずしも「束縛される」わけではない。

個人が動きやすいように、その人自身の”あり方”に目を向けている「会社」は少なからずあるわけで、逆に、そういったプラットホームがあるからこそ、安心安全に働けるという人もいる。

「会社で働くこと」の是非を問うよりも、社会のために組織があるのか、組織のために組織があるのか、個人のためにあるのか、その方向性を見定めてあげたほうが、より健全なんじゃないかって思う。

そして、社会人として(いや実はそうじゃなくても)、自分がやれることを広げるとき、自分がやることを閉じるとき、がいつかはやってくる。それが「会社」という枠組みをぜーんぶ取り払ってみて、自分の意思というやつを見つめてみて、自分の立場をはっきりとパブリックに伝えるとき。

なんとなく。今、ぼく(28才)もそれがきた気がする。世の中のアラサーというのは、そういうもんなのだろうか。

根無し草の放蕩息子が「会社」で働いてみて3年