暮らしていく

ガスが溜りに溜まって、身体のなかでぐるぐると動きまわって、出どころはどこなんだ、と、うろうろ、あたふた、と道を探っている。そんな感覚がある。

人間らしい、というか、健康的に暮らしていくためには、身体を守るための最低限の循環というのものがあるはずで、その循環が滞っているわけだから、そりゃ不健康な今を過ごしている、という自覚だけがある。その自覚があるからやっかいで、ボディブローのように執拗に攻撃してきて、毎度毎度「う、う、」と小さくダメージを食らっているような感じで。

「そんじゃ、何をすればいいんじゃ」となれば、ぼくの場合は「書いて、発散する、循環をつくる」というのが一つの手法だと理解はしてて。そうなのだけど、じゃあ、書く時間をつくりきれていると言えば、全くもってこの頃はつくれてないのであり、それが原因なのだ。いや、本当は「卵か鶏か」の話で、書けてないから時間をうまくコントロールできていないという説もある。

すごく乱暴にいってしまえば、ぼくにとって、「仕事」というやつはプライオリティが低いのであって、あくまで自分が健康的に暮らしていくことが頂点にあって、それに合わせた働き方があって、最後にそれを達成する手段としての仕事がある、という捉え方をしている。

それなのに、仕事が先じてきてしまっているがために(さらには、トキメキの少ない「できる」からやっているだけの仕事がゆえに)、自分の暮らしに対する発想がしぼんでいて、自分で自分が「どれだけつまらない人間なのか」を語るための素材探しばかりに目がいってしまう。こんなときに限って、妙なコレクター精神が力を発揮してしまうのだ。

循環していない。

とはいえ、この滞りというのは、ネガティブなものとは全然思ってはいなくて、なにか新しい次を生み出すための違和感/しこりなのであり、その出口が見つかるまではとにかく悩みまくり、ぐるぐると頭のなかで思考実験を繰り返し、手と足を可能な限り動かし続けろ、というサインなのではないかと感じる。

ガスが溜まりに溜まっているということは、自分の中にあるなにかを大爆発させるための準備に入ってるのかもしれなくて、もちろんその爆発のさせ方を間違えると自滅してしまうのだけど、ばくだん岩のようにせつない感じにならないように、ギリギリのラインを狙いながら、よき発散、いわゆる”昇華”をするという方向で一件落着させたいと願う。

ぼくは芸術なんてものにてんで理解もないのだけど、岡本太郎の言葉を都合よく拾っちゃえば、自分のなかにある人間としての負と正のふたつの感情に揺れながら、自分の暮らしにちゃんと向き合うことで、自分らしい爆発のかたちを探すことができたなら、もう、それだけでいい。

暮らしていく、というのは、自分をごまかさないことであり、むやみやたらに他人/社会(構造)に引きずられないことであり、自分を楽しませるためのツボをちゃんと押さえていて、”そうなってしまっている”自分を肯定したうえで表現する場をつくることなのだ、きっと。まとまりもクソもあったもんじゃないけど、そう思えてきた、今この瞬間は(明日になったらわからない)。