確信より勇気を

なにか行動を起こしてみようと思うとき、「確信」と「勇気」のどちらが大切だろうか。すでに動き回っている人、これから動こうとする人を、遠目・近目で見たり、実際にその想いの変遷について話を聞いてみると、ぼくなりの答えがでた。勇気、だ。

その「勇気」とは、こわいと思ってても、しっかりと足を踏み入れる(まずはスタートしてみる)勇気。また、自分の知識・経験・技術的に、できるかできないかわからないけど、試してみる勇気。もしかしたら、それは、自分でもできるかもしれない、という可能性への時間とエネルギーの投資とも言える。

反対に、これは100%できる、という想定内・案パイの「確信」だけで動こうとしている人は、どこか動きが鈍い。あれができたらこれをする、というような順序ばかりを気にしてて、その100%の確信がくるのを待っている間に時間だけが過ぎていくことは少なくない。一歩踏み出せとは言わないから、半歩でも踏み出して、背伸びしてみる勇気がこういった類の人には必要なのではないか。

そもそもの話、人間がなにか物事をやれるかどうかは「慣れ」の部分に起因していることが多い、とぼくは思っている。それにも関わらず、手を出してみたこともなく、その感覚も分からない状態で、他人からもらった理論だけで確信に迫ろうとするもんだから、たちが悪いの。精神論のように聞こえるかもしれないけど、「やってみないとわからないことばかりだから、まずはやってみろ」という一言は的を得ているはずなのだ。

例えば、よくいるタイプで「ライターになりたい」という人が「何も書いていない」という状態だったらどうだろうか。作文用紙でも、ブログであっても、SNSでも、なにかしら書く鍛錬をしている、そうして、他人に見せられるかたちがある人とない人では、段階に雲泥の差があることは明白だ。童貞のセックス論ほど、聞き耳を持たない(いや、視点を変えて、ほじくりはじめると、これはこれはおもしろいのだけど)。

ぼくのまわりにも「ライティングをやってみたい」と口にする輩が何人もいた。その言葉を放ったほとんどが、一年以上経ったいまになっても、何もやっていない。理由を聞くと「もうちょい人に見せられるようになるまでこそこそとやるんだ」とか「他のことが忙しくて」とか、「そうか、ここは無心を心得よう」と感じる返答ばかり。

そして、そうではない、ごく一部の人たちが、なにかしらをなにかしらの媒体で書きはじめた。その一人は、自分でブログをはじめて、自分の文章の気持ち悪さに気付いて、おえつしそうになりながらも、定期的に、少しずつ少しずつ更新していた。そのなかで、Webの性質もあって、わりと反応のもらえる記事を書くことがあったようだ。

そこで、はじめて、自分のつくったものに対しての、他人の反応・声を肌感覚で得ることができた。ここで大事なことは、“肌感覚”で掴めたことであり、やっている人にしかわからいことをやり続けることで、自分の手でつかみ取ったことである。童貞を卒業したからこそ、少し、あか抜けたというか、一皮むけたというか、表情がひとつ変わったというか、そんなところだ。

その彼を見ていて、ぼくが思ったのは、最初にものべたように、これは確信でなく、彼の「やってみる」という勇気の勝利であるな、ということ。自分にできるかできないか分からないけど、やってみることで「なにができるのかできないのか/なにが得意で、なにが苦手か/輪郭のある課題や感想」がごっそりと出てきたようだ。

そんな偉そうにいえる立場ではないけど(これから彼がライバルになるかもしれないし)、素直に彼を賞賛したい、やるじゃん、と思った。そして、同じように「やろうと思ってるのに、なかなかはじめられない人」は、確信を待つのではなく、ただすでにあるはずだけど隠れている勇気を振りしぼってみるといいのではないかとも思った。

半年後、一年後くらいに、その勇気が、いま自分の周辺にある物・事・場所、あるいは、すぐ近くにいる人に対する目線を変えてくれるかもしれない。