いつまでもそこに居(れ)るとは思うなよ

始まりがあれば、終わりがある。よく聞く言葉だ。新しい一歩のために、物事をどうやって始めるのか。それは多くの人の関心事らしく、「〜の始め方」という切口の議論を、最近ではよく耳にするようになった。

ただ、その「始め方」は「終わり方」に対する意識が若干薄いのではないかとも感じる。始まりがあるなら、その先の終わりのことも一緒に考えてみるのはどうだろう。それをどうやって終わらせるかということを。

それは、「人が流動的な存在で、いつまでも同じ場所にはいられない」からこそだ。自分がずっとそこに居続けると思い込むのも危ういし、他人がずっとそこに居続けると思い込むのも、いささか横暴なのかもしれない。

人は変化し続け、ステップを踏んで、新しい場所へと進もうとする。そのときに、同じ場所にいられなくなる理由ができる。

あるひとつのことを、一緒に始めたとしても、終わるときは一緒ではないかもしれない。人の人生は摩訶不思議で、予定調和に全てが動いているわけじゃない。だから、始め方を考えると同時に、終わり方も考えていく。では、なにがよい終わり方なのだろうか。

終わり方は、各々が持つシチュエーションによって勿論異なるだろう。だが、終わり方には「捨てる」と「離れる」というふたつの終わり方があるように思える。捨てると、もう二度と戻れないが、離れるのは、また戻ってくることができる。

つまり、今までその場所で築いてきた関係性をぶち切って、その場を去っていくのが「捨てる」終わり方。反対に、関係性を継続して、やり取りは続きながら、なにかの際に立ち寄れたり、あるいは戻ってこれる可能性を残して、その場を去るのが「離れる」終わり方。

例えば、これを「移住」の話で考えてみる。とある地域に移住してはみたものの、文化が違うためか、地域の人とうまくコミュニケーション取れず、自分からもアプローチせず、馴染めず、2〜3年でそこを後にするAタイプ。もう一人は、移住後、地域の人とのやり取りに苦労しながらも、少しずつ馴染み、お互いに信頼できる関係性を築けたが、実家や仕事(キャリア)の都合でどうしてもその地域を出ざる得なくて、そこを後にするBタイプ。

すぐに察してもらえるだろうが、Aタイプの人は「捨てた」人、Bタイプの人は「離れた」人である。Bの人は、おそらく定期的に、その地域に遊びに行ったりして、宿泊もさせてもらえるだろう。ある意味、「さようなら」ー「さようなら」でなはく、「いってきます」ー「いってらっしゃい」と地域の人とお互いに言えるような関係性がある。

移住の話に限らずに、子はいつまでも親の元にはいられないし、チームだったけど個人としてやりたくなることもあれば、いつまでも部下は同じ上司の元にいるわけでなく、教師は次へと進もうとする生徒を留まらせることはできない。

すべて始まりは一緒だろうが、いつしかは(物理的な)終わりが確実にくる。だからこそ、再三言わせてもらうが、「どのように終わるのか」そして欲をいえば「どのように離れるのか」までを頭の片隅に置きつつ、物事を始めていけるといい。

話は飛んでしまうかもしれないが、自分が、あるいは、その人が、離れたとしても成り立つ「関係性」と「仕組み」をつくれる人こそ、よいリーダーなのだとも思う。いつまでも自分がそこに居れると、他人がそこに居てくれると甘んじるのはダメだ。人は絶え間なく変化し続ける。その変化を見抜けず、認めず、見送ることのできない人は、上に立つのはきっと向いてない。

こんな居場所が理想的だ ー その場所に足を踏み入れたからこそ、あらゆる挑戦でき、得るものがあり、次へとステップを進められる、登竜門的な存在としてそこから飛び立てるような、そんな人が“離れる”ことを好しとした場所。

みんな、行きたい場所があるなら、見つけたなら、そこへ行けばいい。人が行きたい方向を邪魔するほど、そんな野暮ったいことはない。それはしたくない。

温もりのある「離れる」をデザインできるよう、もっともっと経験を積まなきゃだなぁ。