だれにとっての「新しい」なのか?

時代の流れのなかで、「地方創世」と大きな言葉が持ち上げられ、一極集中型の東京からの解放されたいと願う人が増えてきたように思う。都会で仕事に消費され、忙殺され、自分の思いのままのくらしが実現できていない人たちは、ライフスタイルや働き方をより見つめるようになった。その中でよく耳にするようになったのは「新しい働き方」。

「TokyoWorkDesignWeek」というイベントが近年出てきたのもその流れあってだろうし、「働き方」に関する書籍も頻繁に目にするようになった。が、そういう話題になったときに、疑問に思うことがぼくにはある。よく「新しい働き方」という言葉を口にする人が増えたのだけど、それって、一体だれにとっての「新しい」なのだろうか?

まず「今までなかったのだから、新しいから、良いやり方に違いない」という先入観がきてしまっていて、その言葉に感化されまくっている人たちを見たときに、少しばかり胸焼けがしちゃう。そしてこれが肝心なことだけど、「新しい働き方」とされるものは、実は昔からあるじゃん、というものもあったりする。

例えば、副業ではなく「複業」として考える「パラレルキャリア」という概念も、とうの昔から「百姓」という人たちが形にしてきたこと。農家のイメージがあるかもしれないけど、彼らは農業だけでなく、家をつくったり、物を売ったり、と現代で言うさまざまな職業を同時にこなしていたそうだ。百の性を持つから、百姓なわけで、パラレルキャリアの根っことも言えるのでないだろうか。

というのもあって、系譜を辿れば「新しい」とされるものが新しくはなかった、と考えると、言葉に対して疑り深くなってしまう。もちろん、リネームされることで認知が広がることは大事だし、それによって選択肢が増えることはいいことに違いないだろうけど。

つくづく思うのは、「そのやり方/考え方が自分にとって新しいかどうか、そして、自分が進もうとする道のために必要なものか」を意識しながら、「新しい」と名の付いたものを咀嚼するクセがないと、その言葉にいちいち反応して、むやみやたらに踊らされ続けるのじゃないかということ。心の隙につけいってくる人もわんさかいるわけだしね。

世の中にとって新しいことなのか、自分にとって新しいことなのか、混同しないように、注意して観察してみる。「新しい」と表現される言葉に出会ったら、一歩引いてみて、ちょっと疑ってみて、自分と言葉の関係性を探るくらいがいいのかよいのかもしれない。どうでもいいことですが、今、ぼくが欲しいのは作業専門の「新しい」パソコンで、ChromeBookを検討中でございます。