試行錯誤してる?

生まれながらにしてインターネットの恩恵を受けられる時代だ。教科書の問題にあるような、(形式的な)不明点はググってしまえば、たいてい解を求めることができる。そうなってくると、その解を調べるための力と、調べあげた解を用いて自分はなにをするのか、ということに焦点が当たり易くなったのではないか。

そういった時代背景のなか、ネットで調べられることがあまりにも増えてしまったから、それが“世界のすべて”だと思い込んでしまう人がいる。デジタルネイティブと言われる若者はその類だろう。自分が実際に体験したことでないのに、体験したかのように信じ込む。その純粋すぎるがゆえの信仰は、ある種、インタネーット教ともGoogle教とも呼べるかもしれない。

それは、自分の身体で感じたこと、頭の中で捻り出したことよりも、先人が体験し体系化してきたことのみに重きをおき、その枠組みからは一歩を出ようともせずに、自分という存在を放棄していることと同じだ。かつて、幼少時代、世の中のすべてが真新しく、自分の手触りだけを信じてやまず、「なんで?」の連続だったあの頃を忘却しちゃってる。

「なんでだろう?」「こういうことなのかなぁ?」「試してみよう」「やっぱそうだった/違うや」「もっかいやってみるか」というような自分の奥底から湧き出てくる疑問を「仮説→実験→検証」という流れにごくごく自然に変えていた頃の自分がいなくなっている。

自分で考えるというのは、うんと悩むし、答えがすぐに見つからずいらいらするし、失敗もいっぱいいるし、当然だけど、お腹も減る。大変なことだから、逆に言っちゃえば、考えることをやめたら、すっごく楽になるんだよね。だけど、その楽は“苦の種”であって、考えることを止めるということは、これまでの体系化された知識とルールのしもべになることを意味する。本当の意味で、どっちのほうが苦しいんだろう?

自分の頭で考え、手足をしっかりと動かして、五感で記憶していく。その体験を糧に、先人の知恵(解)を手法として用いて、自分だけの、自分だけしかできない、新たな答え探しをしていく。そりゃ、きついよ。あーでもない、こーでもない、と日々分からないことだらけだから。手探りだから。だけど、そうやって試行錯誤しながら、出会えたものは、きっと自分のこれからをパッと照らしてくれる。

頭の中で汗をかき、実際にもあくせく動き回って汗をかく。仮説、実験、検証を繰り返す。試行錯誤している人を目の当たりにすると、なんだかうれしくなるし、ぼくはそういう人が好きみたいだ。きっと同じ方向、同じような灯りを目指しているのだな、と思えるし、自分がそこから逸れかけているときに、ハッとさせられることもあるから。

試行錯誤していないなんて、もうつまんないよ。このブログは、殴り書いたようにタイピングした文章は、その自分のもがいた証そのもの。1年後、3年後、5年後、10年後、どんなタイミングになるか分からないけどさ、振り返ってみて、「おうおう、ちゃんと苦しんでるな、よくやった」と自分で自分で思わず褒めれるかんじになれたらいいな。実験しよう。