嫌いにならない距離感

「やりたいこと」よりは「やりたくないこと」を大切にしている。

そんな感じで、ポジティブよりはネガティブな気持ちをもとに、行動することが多い。ポジティブ感情が湧きにくいがゆえのネガティブ感情を活かさざるえない生存戦略なのではないかと思う。

人付き合いで言えば、あんまり人にゾッコンになることはないので、どちらかといえば、「相手を嫌いにならないようにどう付き合うか」ということをよく考える。

「この距離感で、これ以上踏み込んでしまうと、ちょっと嫌いになっちゃうかも」

それは、仕事、友人関係、恋人関係もすべて同じで、関わり方を探りながら、相手と付き合っていくのだ。

毎日会っていたら見たくなかったものが目について辛くなる人もいるし、仕事などの公的な関わりがなければいい関係性を保てる人もいるし、年に1回くらい飲むとちょうどいい人もいて、実はギリギリな距離感・境界線のなかで関係性を保てている人は意外と多かったりする。

「友達としては大丈夫だけど、恋愛関係になると破たんする」「親友だけど、一緒に仕事をすると不仲になる」「一度セックスという境界線を越えると、もう興ざめてしまう」みたいな人間関係があるのもそれに似たようなもんだ。少し話は大きくなるかもだけど、不倫とか浮気、セフレみたいなもんも、この距離感の取り方の問題じゃないか。

そして、話のジャンルを変えると、移住するか二拠点にするか年に数回通えればいい、という地域との関わり方にも通じることだとも思う。

好きにはなることはおそらくないけど、できるだけ、嫌いにもなりたくない。だからこそ、内心ハラハラしながらも、距離感を測りながら、メールのやり取りだけにするのか、はたまた会うのか、会うならお茶か飯か飲みなのか、一緒になんかしらプロジェクトやるのか、などのコミュニケーションに日々試行錯誤しながら、なんとか生きているのだなぁ。

(まあ、とはいえ、嫌いになるという感情自体は悪いもんではないと思うし、そこから構築できる⦅一度そこに至らないと築けない⦆新たな関係性もあるわけだし。あ、こんなこと言ったら、元も子もないか。笑)

めんどくさい、は、めんどくさくない。

「生きてるのもめんどくせえ」

漫画『鋼の錬金術師』のなかに登場する、スロウスという怠惰のホムンクルスが、死に際にそんな言葉を残していた。なんか刺さった。

 

生きていくのは、めんどくさい。なんでかっていうと、生きていると、必要以上に、だれかに期待されたり、自分が自分自身に期待しちゃって、がんばろうと意気込んでしまうからで、とはいえ、現実の理想の間にある裏切りはもちろんあるわけで、結果、自分という人間に嫌気が差すことのほうが多いから。

生きる意味なんてないし、だけども、死ぬ理由もないから、どうにか生きながらえていく。もちろん、生きたい、とも、死にたい、とも全く思ってなくて、どんなに足掻いても、死ぬときには死ぬのだから、その時は、そうなる運命だったとスッと受けいれてしまうような体質であり、どうせ生きていくなら、少しでもおもしろがるしかない、ベターな道を探していこう、というノリなのだろう。

ぼく自身もおそらくそういう人間なんだけど、ベターにするためのツールはなんとなく見つかっていて、日々を面白がる術も(生存戦略的に)それなりに身に付けられてはいる気がするーー路面店のカフェで通り過ぎるかわいい女のコを眺めていたり、妖怪について想像してみたり、YouTubeで漫才・コントさえ観ていれば、日々がよくなるわけだから、まあ、ちょろい人間とも言える。とは、会いたくなったときに声をかければ会ってくれる友人がいて、たまに行けば「おかえり」と言ってもらえる場所があるのは、素直にありがたいことだ。だから、下手なことで死ぬことも絶対にないだろう。

 

根暗で人見知りで、ネガティブ発想でしか物事を考えられない”闇”のほうの人間でも、隙間に差し込む光を見つけて、どうにかやってはいけている。

その一方で、自己救済の手立て(ツール、居場所、技術)みたいなものを見つけられてないまま苦しんでいる人もたくさんいる。こうやって文字に起こしながらあらためて思うのは、「なにかしらの拠り所が見つかっている自分はまだ”まし”なほうだ」ということ。

そういう意味では、たとえ同じ闇を抱えているなかであっても、上・中・下でいう「闇の上」あるいは「闇の中」くらいに自分は位置できているのかもしれない。だけど、”ベター”のための手立てを見つけられていない「闇の下」あるいは「闇オブ闇」みたいな人は、どうすれば暗闇しかないその場所から離れられるのか。彼・彼女らはどんなことがきっかけに、自分が暮らしていく環境をどうやって整え、より居心地よくしていけるのか。

闇を捨てろと言いたいわけではない。暗い話が煙たがれるのはわかるけど、反対に、明るすぎる話もまぶしくて聞いちゃいられない。光は闇があるからその明るさが増すわけで、光だけでつくられた世界なんてないし、闇の存在を認めていない人間ほど信用ならない。

だから、つまみをヒネるように、自分にしっくりくる明暗をうまく調整できるかたちをつくる。一切の光を遮断するのでなく、ほんの一閃の光でいいから差し込ませる。闇と光をうまく調合するため(地域や暮らしの)オルタナティブが見つかるといいのではないかと思う。

 

「生きてるのもめんどくせえ」

冒頭のフレーズに戻ると、何をしてても「めんどくさい」のなら、すでに目の前にあるものを面白がるとか、今は届かないけど手を伸ばせば掴めそうなものを探してみるとか、「めんどくさい”から”」ではなく「めんどくさい”からこそ”」という感覚で、闇の部分を活かしながら、物事の捉え方や身のこなし方を変えていけるといいのかもしれない。めんどくささは、意外といい、わりといい。

牛歩の歩みでもいいから、よりよい方向に、昨日よりは”ベター”なかんじで。

裏切りのない人とは付き合えない

いつも何かに驚いていたいし、だれかを驚かせられる人でありたい。

だれが言ったのか、喜怒哀楽みたいな感情は、「驚く」後に起こる反応なんじゃないかという話を聞いたことがある。それは、「笑う」という反応にも通じること。じゃ、驚くときって、どんなときかと言えば、きっと想像をちょっとでも上回ったときで、予定調和にならないとき。笑いが「裏切り」によって生まれる理由もここあるだろう。あと、サプライズラズバースデーとか、ディズニーランドやらレストラン、販売業でのいわゆるWOW体験は、「喜」か「楽」を生むためには好ましい裏切りとも言えるのかも。

ここで思うのは、驚かされ続け、さまざまな驚きの種類に慣れしまえば、どんどん驚きのハードルが上がってしまうということ。大学生が同年代とデートするのと、酸いも甘いも知った大人とデートするのでは、その時間の過ごしときの驚きも違う。ただ、それも“そういうデート”が続けば、マンネリ化し、すぐに飽きてしまうかもしれない。驚きがなくなると、感動もうすくなる。新たな驚きを求めるのが人の性質なんじゃないだろうか(欲張りな気もするけど)。

そういう頭で考えてみると、自分が「裏切り続ける人」を探していることに気づく。その人は、ぼくにとって「おもしろい」人であり、彼/彼女がいさえすれば、どこでだって暮らせる、働ける。そんな価値観だから、熱しやすく冷めやすい、好奇心だけの人間だから、あっちこっちを行ったり来たりしているんだろうなあ。

驚くこと、そして、続くこと、そういう裏切りある人には惹きつけられるし、惚れるし、嘘はつけないし、真剣に向き合いたくなる、付き合いたいと感じる。パターンが読めてしまう、裏切らない人はダメだ、心理戦というか推理戦というかハイコンテクストな関係性を楽しめたらいい。

いつも何かに驚いていたいし、だれかを驚かせられる人でありたい。まあ、一番驚かせられたくて、驚かせたいのは、自分自身でしかないんだけど。

 

「気分」をデザインできる大人になれたらいいのに

びっくりするほどに、気分が、テンションが、上がらない。なので、手をつけなくては、と思っていることになかなか手をつけられなくて、困っている。そうやって困りはじめると、へんに緊張感が出てきちゃって、尚さらに、手が止まってしまう。悪循環だ。

そのときの自分を記録しておく、という意味で、去年もこういうテイストの文章を書いていたと思うのが、さらに顕著になってきていて、どんどん弱体化しているような気さえする。

そのなかでも気力を持ってやれるのが、リアルな場でのやり取りだったりするので(実際、適材適所的に、そのほうが力を発揮できるのもあるので)、ある種、そもそも進もうとしていた道に向けて、身体が反応しはじめているだけなのかもしれない。

すべてが手をつけられないわけじゃなく、できるものとできないものが明確化されてきているあたりが、自分で言うのもなんだけど、おもしろい(それでメール等々返信できていない人も多くて申し訳ない気持ちは重々あるんですが)。

以前、Squareブログで、久遠チョコレート記事の編集で関わらせてもらったので、取材同行するなか、マネジメントに関する話が興味深かった。

「刻む・溶かすなど、チョコレート作りの作業行程を細分化したとき、一般的にそれぞれの作業に集中できる時間はほんの数十分程度。でも彼らは数時間ずっと集中できるので、私たちではとても敵いません。一人ひとりの仕事力と個性をどこでどう生かしていくか。それを考えた全体のデザインが大切です」(吉野さん)http://www.square-blog.jp/stores/new-standard-chocolate-kyoto-by-quon

 

この文脈でいうと、沖縄もわりと「福祉✕デザイン」の動きがちょっと盛んな気がするんだけど、とある作業所のマネジメントをしている人の話を聞いてみると、精神的障がいを持っている人と一緒に仕事をしなくていけないとき、シフトの組み方にコツがいるという。

当日の体調が大きく作用することもあり、組んだシフト通りに、スタッフが来てくれないことはしばしばなので、その人数調整などをうまくできるように組むそうだ。そういう見た目の話ではない、働き方も含めた”広義のデザイン”が、より多様な人たちを、口だけなく、ビジネス/社会的に寛容するためには必要なのだろう。

そう言えば、フラクタルモブのメンバーと一緒に展示をしたことがあった。一回そのメンバーのMTGに参加させてもらったことがあったが、参加するよ、前日までは言っていたけど、やはり当日になって来ないということはある。6人でのMTGが3人になることはザラで、そういうちょっとしたアクシデントも気にならなくなってきたという代表の話は印象的だった。むしろ、その「何が起こるかわかなんないのがおもしろいよね」という姿勢には感服した。

ついでに言えば、フラクタルモブの場合、健常者と障がい者が一緒になって、一つのテーマで作品をつくって展示をやるのだけど、〆切の作り方も大変だと教えてくれた。描くつもりだったけど、描けなかったも完全に許容してしまう。だけど、障がいを持っていることは一つの特性であり、やはり彼らの感性でしか描けない作品はあると、ぼく自身が作品を見て激しく感じたし、それは本当に、その人のやれること可視化するための環境整備が足りてないだけだなぁと反省した。

どれだけ世の中に対して、配慮がなかったのか、と気づけたからこそ、許容できる範囲が少しは広がったんじゃないだろうか。

さて、冒頭の気分あがらない問題はおそらく周期的なことなので、(環境づくりも含めて)今できるかぎりのエネルギーで今できることをやればいいから、後半の部分とは違った話だけど、また、自分ではなく他人の「気分」をどう扱うかはもうちょい繊細になっていきたいということだ。

気分屋は、気分屋の気持ちがわかるぶん、どうやって相手の気分をつくるのかに気を遣えるはずだ。「広告は、気分をつくる」と言った人がいたけど、ああ、ほんとそれな、すげえな、とあらためて思った。身近にいる人の気分をヨイショできるようにならたらいいし、そのカラクリを自分の気分にもあてがえるように器用になりたいっす。

レモンサワーの関係経済Ⅰレビュー1222Ⅰアパートメント

「なんのためにカネを使うのか、そのカネを稼ぐのか」

いつも、そんな疑問が頭に浮かび、日々の仕事とたたかっている。

「いや、生活があるから」などと、さらっと人は言うけれど、それは「カネがないと生活ができない」という前提になっている。そりゃ、最低限必要な金額というのはあるだろう。とはいえ、その”最低限”で必要なカネの考え方というのは、もうちょっとグラデーションがあってもいいと思うわけだ。

当然ながら、都会と地方ではそういった価値観も変わってくる。

地方への暮らしに想いがあるものの、「給料が低くなるから移住はしかねる」と口にする人がそこそこいる。だけど、よくよく考えてみたとき、結局、地域に生活コストは相対的に変わるのであって、稼げるカネは減るかもしれないが、家賃やら食費やらをもろもろと引いたとき、手元に残るカネは変わらないなんてことがあったりする。一瞬だけマジックに見えるが、ロジカルな結果でしかない。

もっと言えば、稼げるカネは減るが、その分、はたらき方がゆるやかになり、自分や家族との時間に余裕ができるなどで、時間という生活資源を都会にいるときよりも、より豊かに使うことができるなんてこともある。

それにも関わらず、絶対的な数量として大きいほうが幸福につながるという、カネカネカネという資本主義の”貨幣経済”の価値観を信じ込んでいる人がほとんどではないか。

まあ他人のことでとやかくいう必要はなく、一つの暮らしの選択肢として決して間違ってはいないし、それが自分のスタイルにフィットするのであれば、「それでいいじゃん」と肯定するべきものなのは承知だ。

ただ、そのカネの価値観に囚われてしまっているがために、しんどい想いを繰り返しているのであれば、他のカネの意味合いを見出せたらいいんんじゃないか、と突っかかりたくなるのだ。

日本には、「おすそ分け」という文化がある。

それは、田舎などでご近所さん同士が自分たちでつくった野菜などを配り合うようなものだ。こういった「物々交換」で成立するような経済。場合によっては、「家の屋根の修理を手伝ったから」と「しいたけをもらった」というような「物技交換」が行われることもある。

“経済・・・人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての、一切の社会的関係”

あらためて「経済」の意味を考えたとき、必ずしもカネを介するものだけが経済なのではなく、そういった物や技を介して動く経済があるということだ。そして、それは未だに日本各地に残っているということ。

一点気をつけなければいけないのは、田舎に行けば、おすそ分けをしてもらえるわけじゃなく、地域に限定された文化ではないことだ。

物や技を交換する相互間に信頼関係があるからこそ成立するものであって、そういう意味では、”評価経済”、もっと言えば、”関係経済”が基盤にあるとも言える。

つらつらと書いてしまったけど、みなさん「カネが必要だ、稼がなくちゃ」と当たり前のように言ってるけど、一度立ち止まってみて、「自分はカネでどうしたいのか」を考える機会もたまには必要なのかもしれない、というのを主張してみたかったわけだ。

ここでやっと”悠平さんのカネの話”に戻してみると、「全くの向こう見ずで無計画なモラトリアムみたく見られるが、単なる粗削りで稚拙だったり、内面の煩悶と社会との折り合いの付け方に時間がすごくかかるゆえに、他のみんなほど上手に世渡りできていないだけの子たち」は、カネとの付き合い方を再考しているだけかもしれない。

そして、彼らは”関係経済”によって暮らしが支えられているのかもな、と感じた次第で。

レモンサワーおごってもらえる関係の人がまわりに何人いるのかって、そこそこ大事な話よな。

カネがなかった頃の話

「会社」という「テーブル」Ⅰレビュー1215Ⅰアパートメント

ふと思った、「会社」というのは、テーブルなんじゃないか、と。

なんにもないところにテーブルが置かれる(会社ができる)。テーブルがあるなら、腰掛けられるイスもあるといい。
社員の数だけイスが置かれ、もちろん、その人数によってテーブルの大きさも違う。その机の上にプロジェクトが持ち込まれて、その場にいるみんなで仕事をうまく分配していく。

みんなで話合いながら分配方法から決めるところもあれば、分配者は決まってて振り分ける担当がいるところもある。

それぞれが自分のやることが決まったら、「さあやるぞ」とイスから立ち上がって、各々やることに向かって動きはじめる。そのなかで、少し迷いがあ出てきたら、テーブルに戻りイスに座って相談できる拠りどころになったり、動いた結果を持ち帰ってきて、次の作戦会議をするような場になったりもする。

大事にしたいのは、あくまで、イスから離れて動いていくときの一人ひとりの意思だったり、その動き方そのもの。テーブルは、その精神性も身体性も、すべてをコントロールすることはできない。

だからこそ、その人がイスから離れたとき、一個人として動きやすいように卓を囲んであげるのが、「会社」というプラットホームの役目なんじゃないか。少なくとも、ぼくはそういう「会社」のあり方がいいな、と感じている。

「会社」だと「自由な働き方」ができないわけでもないし、「会社」だからといって必ずしも「束縛される」わけではない。

個人が動きやすいように、その人自身の”あり方”に目を向けている「会社」は少なからずあるわけで、逆に、そういったプラットホームがあるからこそ、安心安全に働けるという人もいる。

「会社で働くこと」の是非を問うよりも、社会のために組織があるのか、組織のために組織があるのか、個人のためにあるのか、その方向性を見定めてあげたほうが、より健全なんじゃないかって思う。

そして、社会人として(いや実はそうじゃなくても)、自分がやれることを広げるとき、自分がやることを閉じるとき、がいつかはやってくる。それが「会社」という枠組みをぜーんぶ取り払ってみて、自分の意思というやつを見つめてみて、自分の立場をはっきりとパブリックに伝えるとき。

なんとなく。今、ぼく(28才)もそれがきた気がする。世の中のアラサーというのは、そういうもんなのだろうか。

根無し草の放蕩息子が「会社」で働いてみて3年

根暗は「内言語」で暮らしがち

言語学とか脳科学の分野には、「外言語」と「内言語」という言葉の分類があるそうだ。頭のなかで考えていることを、音や文字として言葉にするものは外言語、そうしないものが内言語らしい。つまり、今こうやってぼくが頭にあることをつらつらと文字として(他人の目に触れることを意識して)書いているのは、外言語であり、ただこれを考えているだけなら内言語ということになる。

普段、思い浮かぶけど、メモしなかったり、口にしないがために、内言語にとどまらせてしまっている言葉は多いかもしれない。そういう頭にとどまっている言葉や情報というのは、ダイヤの原石みたいなもので、言葉として外に出してみることによって研磨され、価値を次第に高めていくもなんじゃないか、っていつも感じる。ずっと感じていたので、今日は文字にしてみた。

とりあえず、書いてみる、とか、言ってみる、の意味はそこにあるのだろうし、その習慣を持っている人のところに、いい言葉や情報、そして人が集まっているような気もする。だし、言葉に出すことによって、自分の気持ちが保たれたり、あがったりすることもあるから、それは自分の調子をコントロールするためにも、外言語を利用してみるってのはありかもしれないなあ。

ああ、そういえば今日は、大好きな先輩の誕生日だったな、と気づいたので、外言語としてちゃんとメッセージを送ろう。

言葉を紡ぐハムスターⅠレビュー1208Ⅰアパートメント

ほんとうに伝えたい言葉が生まれるとき。

お腹の中なのか、頭の中なのか、そのどちらかはわからないけど、ハムスターが住みついてる。回し車に乗って、くるくる、くるくると走り回っているあいつが、言葉を生んでいると思うのだ。

暮らしていると自然と生まれてくるモヤモヤ、違和感など、それらを見つけて、あいつがチョコンと車に乗り込み、言葉にできない感情を原動力に、くるくると走りはじめるイメージ。その回転で発電するかのごとく、言葉を生んでは、整えて、を繰り返し、ちゃんと伝えたい相手のために言葉を編んでいく。

それが、吃って、吃って、やっと言葉が生まれるとき。

気をつけたいのは、体内で飼っているあいつらのくるくると回るときのスピード、あるいは回し車の大きさ(円周)は、人それぞれってこと。性格、趣味嗜好、性別、トラウマ、世代、職業が違えば、ライフサイクルが違うわけで、一回転するまでの時間が異なるのは、当然っちゃ当然だろう。何回転もしなくちゃ、いい言葉は生まれてこない。

だれかのハムスターとその回し車を見て、そのペースについていけないことを憂いていてもしょうがなくて、自分のやつがどう回っていくのか、スピードと回し車の大きさを見定めて、自分のペースで回れたらいいのにな。そのためには、うまく回れるような気分になれる人と一緒に過ごせればいいかもな。

うま〜く、くるくる回していくための手段ってのも人によって違う。筆者もぼくも、おそらくアパートメントの住人さんの何人かも、同じように「書くこと」が一つのツールになっているんじゃないか。そして、他人のためでなく、自分のために書く時間を忘れない、ということを忘れたくないなぁ、そのためのなにかしらの引力が必要だよな、きっと。

吃ってしまうからこそ、青年は言葉を丁寧に編めるし、相手との間にあるゆるやかに流れる時を待つことができる。そして、インターネットという場のなかで表現する技を得てきた、そんな人がアパートメントの管理人でよかったとつくづく思うのだ。

吃ることが「いいこと」だなんて、思えなかったあの頃

自分に期待しないⅠレビュー161201Ⅰアパートメント

「変われるかも」なんて自分に期待はしない、”今”ある姿に腹を括っちまえば、自分とも、他人とも、新たなつきあい方が見えてくる、そんな気がするのだ。

期待があるから裏切りがあるわけで、自分で勝手に期待して、自分に勝手に裏切られる、というMっ気で繰り広げられる、自己嫌悪というのは、もうどうしようもない。

ただ、もう一度言うが、腹を括っちまえば、そのどうしようもない自分が今なんとなくやれているのは、そのどうしようのない弱さをカバーしうるなにかがあって、やじろべえのようにゆらゆらと絶妙なバランスを保っているからなわけで、弱さを支えるものにこそ、その人の人間としての強みがあるのだと思える。

この連載では、”淡白なのに惚れっぽい。他人に期待したくないのに他人の期待には応えたい” タイプAの根暗の人間がつらつらと記事を書いていきまして、

それに対して、”淡白で惚れにくい。自分に期待したくないのについ期待してしまってへばる”タイプBの根暗の人間がレビューを書かせてもらいます(いっしょに、〆切に追われながら)。

2ヶ月間、歩いていく道のりは、すこし”暗がり”かもしれませんが、誠実さを持って”明るみ”に向かってるのは間違いないので、そこにたどり着くまで、提灯を差し伸べるように、お節介もらえるといくらか救われます。

『社交的な根暗がアラサーになっていつの間にか結婚して思うこと』

 

暮らしていく

ガスが溜りに溜まって、身体のなかでぐるぐると動きまわって、出どころはどこなんだ、と、うろうろ、あたふた、と道を探っている。そんな感覚がある。

人間らしい、というか、健康的に暮らしていくためには、身体を守るための最低限の循環というのものがあるはずで、その循環が滞っているわけだから、そりゃ不健康な今を過ごしている、という自覚だけがある。その自覚があるからやっかいで、ボディブローのように執拗に攻撃してきて、毎度毎度「う、う、」と小さくダメージを食らっているような感じで。

「そんじゃ、何をすればいいんじゃ」となれば、ぼくの場合は「書いて、発散する、循環をつくる」というのが一つの手法だと理解はしてて。そうなのだけど、じゃあ、書く時間をつくりきれていると言えば、全くもってこの頃はつくれてないのであり、それが原因なのだ。いや、本当は「卵か鶏か」の話で、書けてないから時間をうまくコントロールできていないという説もある。

すごく乱暴にいってしまえば、ぼくにとって、「仕事」というやつはプライオリティが低いのであって、あくまで自分が健康的に暮らしていくことが頂点にあって、それに合わせた働き方があって、最後にそれを達成する手段としての仕事がある、という捉え方をしている。

それなのに、仕事が先じてきてしまっているがために(さらには、トキメキの少ない「できる」からやっているだけの仕事がゆえに)、自分の暮らしに対する発想がしぼんでいて、自分で自分が「どれだけつまらない人間なのか」を語るための素材探しばかりに目がいってしまう。こんなときに限って、妙なコレクター精神が力を発揮してしまうのだ。

循環していない。

とはいえ、この滞りというのは、ネガティブなものとは全然思ってはいなくて、なにか新しい次を生み出すための違和感/しこりなのであり、その出口が見つかるまではとにかく悩みまくり、ぐるぐると頭のなかで思考実験を繰り返し、手と足を可能な限り動かし続けろ、というサインなのではないかと感じる。

ガスが溜まりに溜まっているということは、自分の中にあるなにかを大爆発させるための準備に入ってるのかもしれなくて、もちろんその爆発のさせ方を間違えると自滅してしまうのだけど、ばくだん岩のようにせつない感じにならないように、ギリギリのラインを狙いながら、よき発散、いわゆる”昇華”をするという方向で一件落着させたいと願う。

ぼくは芸術なんてものにてんで理解もないのだけど、岡本太郎の言葉を都合よく拾っちゃえば、自分のなかにある人間としての負と正のふたつの感情に揺れながら、自分の暮らしにちゃんと向き合うことで、自分らしい爆発のかたちを探すことができたなら、もう、それだけでいい。

暮らしていく、というのは、自分をごまかさないことであり、むやみやたらに他人/社会(構造)に引きずられないことであり、自分を楽しませるためのツボをちゃんと押さえていて、”そうなってしまっている”自分を肯定したうえで表現する場をつくることなのだ、きっと。まとまりもクソもあったもんじゃないけど、そう思えてきた、今この瞬間は(明日になったらわからない)。

「地域おこし協力隊」は”肩書き”でなく”制度”のこと

ここ最近になってからか、地域おこし協力隊で働いている人と会ったとき、「地域おこし協力隊」以外の肩書きが記された名刺を受け取ることが増えた気がする。そう、地域おこし協力隊は”肩書き”だと思われがちだけど、あくまで活用すべき”制度”でしかないわけだ。

とはいえ、地域おこし協力隊としての肩書きを名乗ったままに活動を続けている人、地域はまだまだ多い。その肩書きがゆえに、何をやっている人なのかがわかりにくく、外の人だけでなく、自分が活動する地域住民にすら理解されていないケースがあったりもする。

「移住コンシェルジュ」「ライター」「作家」「シェフ」と伝えられるかどうかは大きく、伝わってないために、なんでもかんでも地域のことをやってくれる”何でも屋”と勘違いされた話もたまに聞く。

制度を肩書きとして名乗り続けることは、より自分の存在を曖昧にしてしまう。それは「フリーランス」も少し似ているかもな、と自身の経験に重ねると余計に感じることで、「フリーランスです」と伝えても、何をする人/できる人なのかは中々わかりにくいものなのだ。

あと、そもそも「地域おこし協力隊」のネーミングに触れると、「地域おこします」とどストレートな宣言をしてる様子は、「童貞を捨てたいからセックスしたいです」と声高らかに口にしているような気恥ずかしさをぼくは感じてしまう。

それは、地域おこし協力隊に限らない話で、「まちづくり」「移住」も、それ自体を目的とし「まちづくりをしよう」「移住しよう」と唱え続けているうちは、よいまちづくりも、よい移住のかたちも生み出せないのではないか。とFacebookのタイムラインを眺めながら思ったので、すかさずメモメモ。

仏教に紐づく移住観はあるのか

「妖怪」という現象ついて調べものをしていると、仏教の考え方にたどり着いてしまう。「輪廻転生」「六道」「閻魔」など、死後の世界について語るときには、さまざまな言葉が出てくるが、日本人にはわりと馴染みのあるものは多い。

『往生要集』に関する文を読んでて思ったのは、五戒(不殺生、不妄語、不偸盗、不邪婬、不飲酒)を破るように、人間の社会はつくられているな、ということ。そして、それは自分が望む/望まないの選択に関係なく、否応がなしに破らされているような感じ。

一つ気づいたのだけど、五戒と地域の関係性を考えてみるとおもしろい。都市部に行けば行くほど、五戒を破りやすい構造があるように感じる。自分の意思でくらし方を選び、五戒を極力犯さないように過ごそうとなれば、都市よりは地方、さらには田舎に行くという考えになるのは当然なのかもしれない(五戒を意識して生活している人なんてほぼほぼいないとは思うが)。

生物を殺すことなく、自分で作り育てる。自分を誤魔化すことなく、くらしたいかたちを模索する。当然ながら、盗むことは一切なく、そんな状況にならない治安が地域にはある。消費的に、身を滅ぼすような享楽からは遠ざかり、くらしにおける生産的な遊びをつくり、取り入れる。お酒は飲まないと決めたら飲まないような誘惑もない(田舎のコミュニケーションを考えると、実はこれが難易度が高い気はする)。

一個人の考えとしては、「五戒を破らずにくらすことは、果たして、ゆたかなのか」「それは、どうおもしろいのか」と甚だ疑問だが、クリスチャンが結婚前に肉体関係を持ってしまう様をあるように、時代が変わったことで軸となる価値観も変動していくわけであって、今の時代に生きるぼくたちが先代たちのくらしのなかに根付いていた考えをどのように辿り、学びとして抽出していくのかが、おそらく大切なのだろう。

民俗学からの歩み寄りから、人が移動することついて、または、昔も今も変わらないくらしにおけるエッセンスとは一体なんなのかについて、もうちょい考えてみたい。

 

くらし心地

「くらし心地がわるい」

思考がどんよりと鈍っているわけでもないけど、なんとなく自分に生気を感じない。感情に大きな振れ幅もないままにここ2ヶ月ほどを過ごしている。

そのなかには、純粋なるしんどさがあるものの、視点をちょいと変えれば、楽しいことは楽しいこととしてちゃんとあり、学びも多く充実はしているのはしている。ただ、どこかまどろみを感じながら、吹っ切れるというか突き抜けるというか、そんなプラスに向かう爆発を感じない自分がいて、「おもしろくねぇな、おまえ」という言葉を自分に浴びせ続けるような日々。

9月は自覚するまでに時間がかかり、10月は自覚したままに、自分なりの答えというか、自分で自分の処方箋探しをずっとしてきたなぁ、という感じ。

そういう気配をどことなく察した友人だったり、ひょんなことから久しぶりに会った先輩との会話があり、地方でくらしはたらく人への取材があったりで、自分の扱う言葉を改めなくてはなあ、と発見があった。

「生気を感じない」というよりは、「くらし心地がわるい」という表現が正しいようで、自分を動かすための歯車がどこか噛み合っていない。そんな感覚と言葉の組み合わせがしっくりとくる。

今の状態を自分なりに言い表せる言葉が見つかり、歯車がおかしくなっていた原因もわかってきた。また、こういう浮き沈みは自分の周期にあるものだとも理解はしているので、後はひたすら書き出す、吐き出す、整理する、まとめるという作業が必要になってくる。

となると、ゆっくりじっくりと考えることは一旦停止で、すばやくすかさず手を動かすことが大事になる。ここからの汗のかき方が、数ヶ月後の流れをつくっていくのだと信じて、やれることをやれるかぎり、がんばんないことをがんばろうと思う。

そういうまどろっこしい感情も含めて、明るいものだけでなく暗いものも扱いながら、くらしの実験は丁寧に続けていきたい。

全速力で走りたいなら書くしかない

モヤモヤしてるときは、結局、自分の頭のなかにあることが整理できていないとき。そんなときは、動きが非常に鈍る。気持ち的には、1歩進んでいるつもりが、0.1歩も進めていないことが多い。

ドロッとした重い感情を引きずって進むくらいなら、一度立ち止まってみて、それを振り払って、スッキリとした状態で走り出したほうが効率がいいし、パフォーマンスも上がる。と、自分と28年間を付き合ってみると感じる。

「一度立ち止まる」ためのやり方は人それぞれだとは思うけど、自分にとっては「書くこと」がそれに当たる。ぼくにとって、書くということは、だれかになにかを「伝える」ことでなく、散らかしてしまっている物事をしっかりと「整理する」という意味合いが強い。

複雑な感情を溜め込んで、なにか滞りを感じ、一向に進む気配がないときは、自分のために書くことをしなくちゃ、と思う。ライターとして記事を書くのではなく、一個人としてしてブログを書くことの価値はそこにある。

自分のテンションを保つ/上げる、そして、吹っ切って、”猛烈”と形容できるほどの全速力で走り出すためにも、書くという習慣を自分の暮らしのなかに組み込んでいきたい。

「書く=ライティング」というのは、ウォーミングアップのように、自分の心身を温めるものみたい。あと、あれだな、自分の「今」と、向かっていきたい「これから」をつなぐための間にある接着剤みたいなものかもしれない。

初心忘るべからず、的な

10月前半を駆け抜け、大小はあるけど、仕掛けた&登壇させてもらったイベントが5つくらいあって、それが終えたもんで、一瞬ちょっとだけ緩んでいる。反省点だらけで、やればやるほど、自分のポンコツ性とか、へたれであることに気づけて、ほんといい機会にはなった。

巻き込んでしまった人、巻き込まれてくれた人にはまず感謝。ありがとうございます。

というのと、地域や暮らしにまつまる内容を扱いつづけるなかで、参加者に問いを投げていたようで、一番ぶつけたかった相手は自分自身だったみたい。ってことにも気づく。

なんとなく、”東京”のあまりよくない磁場に引っ張られ、やろうとしていた方向を見失うまではいかないけど、ちょっとブレかけてたから、ふわっと浮きかけてたから、足場の再確認ができて、ちゃんと着地はできたのかなぁという感じ。

結局、他人に向けてやってることは自分に返ってきてるし、根本を言えば、自分のためにやってる感はあるわけで、その自己中心性からはじまってるのだとある程度の自覚もしている。自分が弱っちいタイプの人間だからこそ、精神性/身体性を保つために、なにかしらをアウトプット/表現しているということ。

「初心忘るべからず」

とはよく言ったもんで、「忘れる」とかのレベルでなく(「忘れた」という意識はあるのはまだまし)、自分のなかで大切にしていることをそもそも考える暇を与えずに、意識することすらできない、隙間のない暮らしというのはこわい。

この「初心〜」の文句が名句としてあり続けるのは、きっと「そんなもんわかっとるわ」と一個人の頭(内部)では拾えるものの、社会のなかで活動するとき環境(外部要因)に邪魔されることがほとんどで、「頭ではわかるのに実践は難しい」てのと、「自分一人だけでどうにかしてうんぬん、ということでもない」ジレンマで苦しむ人が多いからなんだろう。ようは、分類すれば「あるある(つらい編)」の名句というか。

なにはともあれ、「自分の居心地のよいサイズ感で、動く、あそぶ、ふざける」というのが、ぼくのなかで初心のようなので、ここをなるべく見つめておきたい。そのための目印としても、「カクテル」「妖怪」、そして「ブログ」というのはあるのだなあ(と勝手に納得したわけです)。

あと、初心とはべつの心をもうちょっと持ってみようかな。下心も忘るべからず、で。

苦しさと苦さと心苦しさと

10月がはじまった。ということは、’16上半期が終え、下半期に入った。この半年間でなにを得て、なにを捨てることができたのだろう。

8月9月は心境の変化も著しく、自分のへたれっぷりを付き付きられ、「悔しい」「やるせない」の連続だった。それもこれも自分の実力不足であることが原因であって、これまでにどれだけ他人に自分が甘えていたのかいうことに気がつく。

振り返れば、進行管理、編集、執筆、どれをとっても、思い通りに自分と他人の手を動かすことのできないことが続いた。一緒に仕事を進める人の”頭を借りる”ための想像力も欠けていた。視野がかなり狭まっており、目先のことで、”そもそも何でそれやるんだっけ “という視点を忘れがちだった。と数え上げたら切りがなく、褒めらることではないが、いくらでも反省文が書けそうである。

自分で考え、動いていたはずが、いつの間にか思考力が低下し、一部「依存」のような状況に陥っていて、その状態にも自分で気づかないような危うさが漂う半年だったわけだ。頰を何べんも強く引っ叩かれたような気持ちで過ごしたし、時間の経過とともに自分の「できない」が浮き彫りになってくる場面を見るというのは、むずがゆく、心苦しいものだった。

ただ、それが良かったのかもしれない。基本的に、人は苦しんでいたほうがいい、と思うからだ。どんなときにも苦しみを味わい、葛藤があることで、自分の中、あるいは自分の外で新たなものを生み出せるのではないか。ずっと同じ種類の苦しみ(失敗など)を持ち続けるのは、決して賢いとは言えないが、一つの苦しみを超えたあとに、また毛色の違う苦しみがやってくることで、新たな課題に向き合うことができる。

今までとは違った苦しみを得ることで、その苦しみが頭のなかで暴れまわることで、それを鎮めたいがために、新たな頭の使い方を覚えることができる。どれだけ自分に「苦しい」という感情を注入できるかは大切なようだ。そういった過程を通じて、自分のなかにある必要のないプライドを捨て去り、自分が進もうとする道を切り開いていける、という感覚をつかめた。

ということで、頭のなかは汗たらたらで過ごす半年ではあったが、そのおかげで、自分のなかにあるいくつかの思い込みがスゥっと消え、思考の選択肢が増えたことは、大きな変化だった。できれば、ゆるやかに変化し続けたい、という気持ちがある。が、時間はそうも待ってくれなさそうなので、連続的にすばやく変化するためにも、同時多発的に多種多様な苦しみに向き合える残り6ヶ月を過ごしていきたい。

(まじめか)

 

主役は一体だれか – 福祉や教育における上から目線

学生時代は、外国系の大学にいたんだけど、教授とのご縁だけで、国際比較教育ゼミにまんまに入ってしまった。

ぼくの研究は、オランダのオルタナティブ教育(特にはイエナプラン)だった。まあ本題は次なんだけど、そのときに、先輩後輩含めてゼミ生はかなりいて、発展途上国の「開発教育」「教育開発」なんかをテーマにしてる人もそこそこいて、その人たちの基本的な研究をはじめるときの言い分って「(もろもろ)恵まれなくて、かわいそうだから」というのだった。

それって、感動ポルノの話に通じるものがあるよなぁ、と感じていて、「自分は恵まれた国に生まれたから」=「自分は五体満足だから」という一つ上から目線で、各対象を見ていて、物事を語っていて、そもそもズレてるよね、という気がしてならない。

だから、「与えてあげる」という傲慢なスタンスなんだろうし、それによって、「満足しているのは一体だれか?」という問いすら持っていないのだろう。そうやって自慰的行為を多産して、”やってる感”ばかりが生まれるけど、実質、動いたものは少ない、という状況になりかねない。

どういったかたちであれ、相手の個性や文化を尊重したうえで、「魚を与える」でなく、情報不足な知人に「魚の釣り方を共有する」というようなスタンスにならなければ、福祉も教育も、本質的には変えられないのかもしれない。

結局、一人ひとりが持つ人生であって、環境や周りの人が変わるきっかけはつくれるかもしれないけど、変わるためには本人の意思と、行動でしかないと思う。そして、その人の意思や行動力というものはあなどっちゃいけなくて、「すべてをこっちがしてあげなきゃいけない」というエゴは捨てたほうがいい。

「主役は一体だれなのか」

そんな意識を持って人と付き合っていくことは、どんな対人関係であっても、大切なんだよなきっと。

「離れ方」ないし「委ね方」というのは、ここ数年の一つのテーマだけど、たまたまFacebookで流れてきた記事を読んで、メモをば、と思って書いていたら、「これって、場づくりに通じることやな」と気づき、すべてのことには通じるエッセンスというものはあるのだなぁ、と改めて実感する。

(となれば、どんな人、物、事に関われど、それは自分の視点の置き方、切り取り方次第なのだろう)

ソーシャル系の人は見落としがちだけど、東京にも地域はあるし、東京に依存しないことが地域で生きることではない、と思う。

「地域で生きる、ということは、東京に依存しない、利用すらしない、ということとほぼ同義」というような発言を目にして、違和感があったので、記述しておく。

そもそものところ、「いやいや、東京にも地域はあるので、東京でも地域で生きる、ということは余裕でできるでしょ」というのが、ぼくの言いたいことである。

「地域」の定義が違うからこその視点のズレなのかもしれないけども、やはり「対東京」「脱東京」の悪としての構造を扱うような表現には、ほとほと疲れてしまう。東京崇拝はそれはそれでこわいけど、それ以外の地方崇拝みたいなもんもそれはそれで気持ちわるさを感じてしまう。もうそれは、場所と人の相性とバランスでしかない。

都会も田舎も、どちらであっても地域(ローカルなるもの)はあるわけで、そこに住む人たちがシビックプライドをみたいもんを持ちつつも、他地域とそこで暮らす人に対しての敬意を持てないのは、ちょっと残念な気がする。それは、やややもすれば「もったいない」の発想にもつながってくる。互いにできないことは、依存し合えばいい。それぞれの個性、良さ、持ち味を肯定せずに、どの場所が絶対的にいいとかわるいって話はバカげているし、子どもじみている。

極論、雑に言ってしまえば、地域なんてどこでもいいわけで「どこがいいか?」という問いをだれかに投げるのでなく、「どこがはまりそうか?」という問いに置き換えて自分に投げかけることでしか、自分が暮らしやすい働きやすい地域なんて見つかりっこない。で、他人が口にした言葉やネットの情報はヒントになるとはいえ、それが自分にとっての答えになることはないので、自分で足を運べ、自分の足で稼げ。

なにが哀しいかっていうと、さまざまな地域に関わっていて、影響力のあるような人がそのような考えで、各地へ足を踏み入れてるんだな、ということ。いいことを言っているように見えるが、浅はかで、地方も東京のどちらに対しても、消費的な目線しかないように見える。それだから「ソーシャルソーシャルしている人たちは…」と言われてしまうんだろうなぁ。

「ショーケースに並んだ”対象”としての愛」あるいは「相手との間に見いだす”技術”としての愛」

愛は技術だろうか。

エーリッヒ・フロムの著『愛するということ』では、そのような問いがあり、「愛とは技術である」という前提で、愛と技術についての話が展開していく。さらに、フロムはこのように記述している。

技術だとしたら、知力と努力が必要だ。

愛とは、運で「落ちる」ようなものではなく、生きる技術があるように、学び、知り、習得していくものだという。

先に断っておくと、本音を言えば、「愛」という言葉は照れるうんぬんではなく、日常的に使われると気持ちわるさを感じるし、愛がうんぬんをFBで語りたがる人は苦手なんだけど、やはり思考するためのカテゴリとしての「愛」というのは、人間だれにも引っかかりがあるもので、人を読み解くための記号としての「愛」にはかなり興味が断然湧く。

それは、ぼくの周りにもいるが、「愛されたい」と嘆く人がいるから余計であるし、「愛」という言葉を掲げながらも、その裏には対価としての地位・名声・金を得ようとしているような輩もいるからである。

本書でも触れられているのが、ほとんどの人は「愛すること」よりも「愛されること」ばかりを考え、そちらに重きをおく。それはなぜだろう、と28年生きてきて、ずっとその疑問が頭にこびりついてきた。どうすれば愛されるか、とういうのは、SNSで体現される”承認欲求”がそれを示唆しているようにも思う。

社会的地位を上げ、外見を磨くことが、愛されるための「魅力」をより高めていくことで、愛される(選ばれる)ための準備をしていく。という事ばかりに、意識的・無意識的のどちらであろうが囚われているのは、人としてのむなしさを感じてしまう。

孤独の裏には、「愛」という言葉が隠れていて、寂しくてたまらない人ほどに(内に秘めておけばいいものを)愛について語りたがる。「愛」と「性」の関係性をどう捉えるかにもよるが、孤独に向き合えていない人ほど、恋愛、セックスに依存するという傾向があるのように思えるのは、その証拠でもあるはずだ。

話を本書に戻すと、かつては、親や周りによって結婚が決められた中で「愛とは結婚の後に育んでいくもの」という考え方が主にあったと指摘している。だからこそ、”技術”が必要であると。これは、日本にもあるお見合いの文化の中にある現象と重なる気がする。『ゲゲゲの女房』では、夫婦の姿にはその愛が育っていく過程が描かれていたようにぼくの目には映った。

しかし、その”技術(あるいは能力)”より愛の”対象”のほうが重要になってきたのが現代社会であり、それは、欲しいものを欲しいがままに手に入れることができる時代が到来したことが原因である、とフロムは考察する。ようは、「魅力的な異性」というのは「掘り出し物」なのであり、あたかも人が商品であり、取引きがそこにあるかのように、自分の価値との等価交換として、最良の相手を選び、恋に落ち、愛を感じるようになった、と続ける。

ここまでは一章「愛は技術か」をもとに、自分の整理としてまとめたものだが、ふんふんと頷くことばかり。自分がなんとなく思っていたことが、言語化されているという意味では、やはり先人とは素晴らしいなぁ、と思うわけで。さらには、「人を嫌いにのは簡単だが、好きになるのも同じくらい簡単だ」と思う自分としては妙に”技術”という言葉しっくりときた。

苦手な人、嫌いな人が多い自分にとっては、年を重ねる中で、職業的に、処世術的に、相手にどんな嫌悪感を持とうが、おもしろがれる、言い方を変えれば、ある程度は好きにはなれる、くらいの対人術があるということを学んできた。好かれるかどうかを考えるよりも前に、自分が関心を持って、相手のツボさえつかんでしまえば、勝手に相手からも関心を持ってもらえると、経験値を蓄積してきたからこそ、この”技術”という響きは心地よい。

友人から勧められたので、手に取って、読み進めている今なのだけど、自分の性質を理解している人に勧められた本というのは、やはり浸りやすくなるものだなぁ、とあらためて感じる。そして、こんなことを記している間にはずっと、KinKi Kidsの「愛されるよりも愛したいまじで」というフレーズがなぜかずっとリフレインされるのである。

刷り込みってすごいし、こわいな。

神輿を間違えるな

だれと暮らすか、はたまた、だれと仕事をするかは、言わずもがな、その日々の積み重ね方は変え、その人の顔つきもどことなく変えるものじゃないか。

それは神輿に似ている気がしてて、どんな神輿をかつごう、どんな人に神輿を一緒にかついでもらおう、という話で、ここ数年ずっと考えている「なにを」するかではなく、「だれと」するかという問題意識に触れるものかもしれない。

自分がどんな神輿をかつぐか(だれと一緒に暮らすか、はたらくか)、はたまた、一人ではかつぎきれない自分の神輿を一緒にだれにかついでもらうのか、ということ。

「いい歳の重ね方」だのなんのって話をよく聞くが、それと同じで「よい日々の積み重ね方」は、その神輿にかかっているんじゃあないか。今、ありがたくも、ぼくがかつがせてもらってる神輿はいくつかあって、そこには自分としては縁と信頼を感じるからこそ、そこに体力と時間を注げるわけでもある。そして、少しずつ、自分の神輿をかついでもらう人を探りはじめるという段階にもきた。

いろいろと悩むことだらけで、葛藤だらけで、すぐこじらせてしまいそうになるけども、まあそれはそれで楽しみながら、賑わいの祭りにできれば、そこで広がる関係性も込みで、伝統行事ばりに長く長く続いていければいいなぁと思う。

神輿を間違えないこと。

振り幅はあるか、緩急はあるか

「振り幅ある人がいいよね」

最近は、お酒を飲むときには、そんな話をすることが多い。ぼくがよく口にする「振り幅」というのは、「バランスがとれているか」という意味を含むし、特には「都会と田舎(の価値観)の振り幅」という文脈で使うことが多いかもしれない。

全国各地を見渡してみれば、都会の仕事を軸にしたオンタイムで動くような価値観もあるし、田舎のように時間がゆったりとすぎ口約束でだらだらっと物事が進んでいくような価値観もある。個人のパーソナリティと進んでいきたい方向性との相性でしかないはずなので、どっちが絶対的に良いというのはない。

ただ片一方の価値観しか知らずに過ごしていくのと、両方を知って(どちらかを選択しているという感覚で)過ごしていくのでは雲泥の差はあると思う。(もちろん、その価値観が「頭でわかる」というのと「体に馴染んでいる」というのも雲泥の差でもある)。

それは自分の暮らしに対する見方が変わるだけじゃなく、他人に対する寛容さにも影響していくだろう。一つの価値観に縛られて、それでしか他人を評価できない人はたくさんいるけど、そういう人を見ていると、少し寂しくなるときが正直ある。

これは「都会〜田舎」の振り幅で考えるだけでなく、仕事の分野の振り幅として考えてもいいはずだ。例えば、IT畑だけにしかいない人の価値観は、若干偏ってるなぁと感じるときもある。それは、デザイン、法律、バーテンダー、農業、役人、ライターなど、どの分野にいたとしても、一つの畑のなかだけにしかいない人は「振り幅がない人かも」と感じられてもしょうがない。

他の分野の人はどんなことを考えているのか、目の前に同じ現象が起こったときにどんな視点で捉えるのか、その振り幅が多ければ多いほど、多角的に物事を見ることができるはずだ。だから、業種における振り幅がある人(例えば、哲学科出身のデザイナーとか農家出身のライター、エンジニア兼広報)というのは、ある意味、頭の中に2人分の人格が入っているような感じがする。

最近では「H型人材」や「越境者」がこれからのイノベーションを起こす、という話はあるが、これらは”思考(立場)の振れ幅”に通ずることだと思う。「あっちにも行けて、こっちに行ける、だけど中立も保てる」というコーディネーター的な存在は大きく、そういった立場の人が絡まないと、生み出せないものはきっとある。

(都会であれば余計にだが)専門性を掘り下げることに価値が生まれやすいからこそ、その二つ(以上)の専門性を重ねる技術は好まれるのではないだろうか。

ぼくは昔野球をやっていて、マウンドに立たせてもらうこともあったのだが、「ピッチングフォームが硬い」と言われることがよくあった。ボールを握って、投げ切る最後まで、全身に力が入りすぎていた。「力を入れるところ、抜くところ、この二つがバランスよくあるからこそ、いい球が投げられる」ということをここで学んだ。配球においても、ストレートだけじゃなくスローボールや変化球を混ぜることも含めて、「緩急」が必要ということだろう。

都会だけ、一つの職業だけ、というのは「力が入りすぎている」状態に近いとぼくは感じていて、そこの田舎や他の職業の価値観を取り入れ「力を抜くこと」で、伸びのある暮らし、明日に向かってのよい球が投げられるのではないか。そういう、振り幅、緩急というのは、いつもいつも社会(そして自分)の課題でもあるかもなぁー。

妖怪はエモい(暮しと妖怪の手帖、はじめました)

科学/化学で説明される、理論立てたものだけで、世界を捉えて暮していくなんて、窮屈でしかない。いつからか、そんなことを思いながら、今まで這いつくばってきている。感情的というか、神秘的というか、そういうものが人を動かしていることもあるな、と思うんですよ。もちろん、それも「絶対」ではないけど(偏ると、オカルトチックになりすぎるので注意)。

人は、そういった見えるもの(理論っぽいもの)と見えないもの(感情的ななにか)のバランスをとりながら暮しているように思える。昔の人は、おそらく、見えないものを信じながら、暮しをつくり、だからこそ慎ましげに、自然やその日々に感謝をしながら過ごせたのかもしれない。それに対して、(ぼくも含め)今の人は、見えるものに依存しがちで、「そんなものはない」と一蹴するかのように、見えないからこその曖昧さゆえに培えた謙虚さ/健気さを失いつつあるのではないか、とも思う。

ざっくりと、今風に言ってしまえば、「エモさ」が現代人に不足してるのかもしれない。そういった欠けたものを取り戻す方法は、いくらでもある。自然に身を投じてみるなど、多種多様なやり方のなかで、歴史を振り返るというのがある。今のようなデジタルで便利になった時代ではなく、もっとアナログで不便を知恵で補って暮していた頃を考えてみる。すると、「エモさ」は今も昔も変わらずにあったこと、その根源には、“アナログ的ななにか”があることに気づく。

その“アナログ的ななにか”は、現代の頭を持って考えると、もしかしたら非効率で、決して賢いものではないかもしれない。ただそれゆえに、感情に訴えかけるものも生まれやすいのだろう。そうやって過去/歴史を振り返るときには、いろんな切り口があるはずだ。古道具でも文学でも音楽でもスポーツでも着物でも、それは各々自分の好きなテーマで掘り下げていけばいい。入り口は違えど、出口は同じだろうから。

そんなこんなで、ぼくは「妖怪」をもとに、現代人が失いつつあるエモさについて考えてみたいと思った。ので、「アパートメント」というウェブマガジンで「暮しと妖怪の手帖」の連載を持たせてもらうことに。「妖怪=8日(ようか)い」という惰のつく駄洒落をもとに、毎月8日掲載。そう、妖怪はエモいし、そういう居ても居なくてもいい存在を、ぼくたちは忘れがちなんだよきっと。

「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』

妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)

よろしくお願いします。

暮しと妖怪の手帖

若手芸人って、スタートアップみたい

好きな若手芸人に「コマンダンテ」ってのがいて、関西芸人にも関わらず、ゆるいテイストの漫才は関東寄りかもしれない。

最近取り組んでるっぽいのが、「〜(職業)をやってみたい」ではじまるコント漫才がベース。ボケ担当(やすだ)がまじめ過ぎてボケなくて、ツッコミ担当(いしい)が相方が漫才中にボケないことに焦れるというもの。ここまでの型は、ある意味、他の芸人もやってる気はするのだけど、ここからがコマンダンテのやり口。

ボケない相方にシビレを切らしたいしいが、代わりにボケてみたり、ボケてもないところにツッコみ(勝手にボケを想定してツッコみ)はじめる。すると、まじめを貫きたおそうとするやすだが、そっちがふざけるならこっちもふざけるよ、と言い、そのボケの前兆に、いしきがふざけてくれとうれしそうに促す。そうやって、ボケ担当が正しくボケて、ツッコミ担当が正しくツッコむ、という道筋ができて、やればできるやんけと、いしいがやすだをほめてネタが終わる。

普通は「ここでボケるよね?」という漫才の構造を逆手にとって、「ボケない」という手段を選んだコマンダンテ。ボケないという姿勢が、やすだのひょうひょうとしたキャラに合ってるというのもポイントな気がする。そして、やすだが、ボケずにコントをまじめにやって、「(その役をやらせてくれて)ありがとうな」という言葉を放った瞬間に笑いが起きるというのはその証拠だろう。

“ボケないボケ”をちゃんと漫才の構造で成立させてるというのがすごい。というのと、この類のネタに関しては、“やすだがボケるまでのプロセス”を観客は楽しんでもらうものであり、その途中で、同じように漫才に対してはまじめないしいが相方がボケてほしいがために軽く発狂する姿こそがおもしろいのかもしれない。

やすだは、漫才の始めから終わりまで、あくまでずっとやすだであり、アプローチを変えようと一生懸命なのはいしいだけ。という風に、ボケ担当のやすだが一般常識的な“まじめ”に立ち、ツッコミ担当のいしいが芸人としての”まじめ”に立つからこその矛盾が、このネタの肝なのかもしれない。

若手芸人は売れるまでに、まずはネタを磨く。他のコンビじゃできない、自分たちにしかできない笑いを、とデビューしたての頃とは違うネタをやるようにもなる。それは、ネタをつくって、お客さんで反応見て、時代の流れもちょっと様子見て、少しずつ自分たちらしいものに変えていく。変化し続けている。いや、変化し続けていかないといけないのだろう。

その姿は、プロトタイプをつくって、早い段階で反応をみて、よりスピーディに改良を加えて、サービス向上へとつなげていく、スタートアップに似ているのかもしれない。エグジットするかどうかも似ている部分で、会社を売却するかどうかというのは、芸人を止めて(ネタをやる機会を止めて)タレントに転向するという流れのように感じる。

というのを、メモしておきたかったのです。えらく時間かかった、寄り道しすぎた。

LINEの使い方はどんなですか

世代がちょっと違うだけで、また職業がちょっと違うだけで、連絡するときのコミュニケーション・ツールも変わってくる。

ぼくの場合、公私ともに、FBメッセンジャーを使うのがかなり楽。で、みんなが使う「LINE」をほとんど使わないから、そこでコミュニケーションを求められると困るときがある(自分から連絡とりたい人が、LINEでしか連絡とれない人なら、もちろん積極的に使うけども)。

チャットという、即レスを求められるかんじが苦手なのと、例え通知オフにしていようが、相手からの見えない重圧を感じてしまうので、やっぱりなるべく使いたくない。

そのため、一時期、スマホのほうではアプリを消していた。今は、LINEでしか連絡とれない人との緊急のやり取りもあるなぁ、となってからアプリ復活させたけど、基本はパソコンから使っている。なので、意識的には、チャットではなく、メールとして寄り添いたいかんじ。

ただスタンプは便利だ。言葉要らずで、ポンと返せるのは、時間が無いときとかは助かる。だけど、一応、ことば(テキスト)のほうを大切にしたい職業柄というのはあって、スタンプを使うということは、若干サボってる気になっちゃうというか、「考えるのもあれだしちょっと雑でいいか!」と思うときに多用してるようです。振り返えれば、確かそうだ。

とはいえ、スタンプで、自分のちょっとした個性(好み)も出せるかもしれないのは、いい。Skypeでのやり取り中で、回線が悪いときは、LINEのほうが音いいからこっちに切り替えるときはある。そこは、サービスとしての優位性だよなぁ、と思う。

てなわけで、ぼくはこんなかんじだけど、みんなはLINEにかかわらず、SNSを相手との関係性に合わせてどのように使い分けてるのかなぁ、と気になったわけです。根本的には、相手が一番使い勝手のいいツールでやり取りできればといいとは思ってるので、世代や職業などで微妙に変わる、その感覚などについてシェアできる場とかありゃいいのにな。

居候のすすめ

変わった仕事をしてる人と、いっしょに生活をすることについて。

ぼくは1年半ほど居候生活をしていたときがあって、そのときに学んだものが本当に多かった。例えば、2年前の小豆島滞在時には、「四国食べる通信」編集長のポン真鍋さんの家に居させてもらっていたのだけど、彼は毎朝5時台に起き、寝起きと同時にすぐに仕事をし始める。おそらく、FBで更新しているポン真鍋新聞はこのときに書いている。

一先ずの作業が終えると、そそくさと着替えはじめランニングに出かけるというお決まりがあった。ぼくは、朝強くないので丁度ポンさんがランニングから戻る手前くらいに起き始め、ゴミ捨てなどを行うというなあんばいだった。ポンさんが起きてカタカタやっていることは、部屋は違えど、完全に起きれないぼくでも気付くのはたやすくて、彼を目覚ましにぼくも何度か作業をしようとしたが、なかなかできない。そういう意味で、習慣ってすごいよなぁ、と思ったわけで。

それ以外にも、暮らしと仕事の境界線があるようでないポンさんの生活をみていると、そして、これまでの仕事の話について聞く機会も多いなか、なんとなく見えてくるエッセンスみたいなものはあって、それが今の自分の動き方につながっているものもあると思う。小豆島を出てからも、ライターとして先輩のおうちでお世話になったりもしたけど、おなじ職種であっても、仕事の仕方は全く違うのから、こうやってるんだなぁ、と盗めたものも多かった気がする。

少し観点は違うけど、トキワ荘みたく漫画家の卵が集まっていた場の熱量はすごかっただろうし、互いが互いに、切磋琢磨にしれっと(ここ大事)技を盗み合っていったんだろうなぁ。そういう寝泊まりできる場があるというのは、正直うらやましいかぎりで。

結局のところ、ここでなにが言いたいかというと、そんな具合に、話を聞いてみるだけではなかなか想像もしにくい、変わった仕事をしている人がいれば、いっしょに住んでみるといい。そうすると、人物像だけじゃなくて、その人の仕事の表面の部分だけじゃなくて、裏側も見えてくるので、すごくおすすめ。

会社でインターンするとか、仕事旅行社のようなサービスで、仕事人と触れ合うのっては、仕事のやり方・価値観のような「裏側をのぞく」という意味合いも少なからずあるだろうし。もしかしたら、そこに尽きるのかもしれない。

お金はいらないから、丁稚奉公をさせてくれ、という働き方の根本には、そういった、教えてもらうのではなく盗み取る、という経験を積むためにもあるんじゃないだろうか。ぼくは、恥ずかしながら25歳のときにそんな学べるような居候をさせてもらっていたのだけど、それよりも若い人、特に大学生や新社会人になってみたはいいけど早くして退職ちゃった人などは、そういう経験しておくと、なんか変わってくるのかもな。たまに、そう思う。